2001年09月08日

東京にいた頃に見た有名人

今日は休みだったのだが、特にすることもなく、昔の日記なんかを読んでいた。
まったく、ろくなことを書いてない。
『よくこんなくだらんこと考えていたなあ』と思えるものばかりだ。
これでは“古い日記”というコンテンツを作ることはできない。

それはそうと、古い日記を見ていると、たまに「おっ!」ということが書いてある。
なんと、昭和54年の今日、バイト先で中原理恵に会っているのだ。(会ったというより、見たといったほうが正しいだろうが)
昭和54年、ぼくは東京の新宿丸正というところでアルバイトをしていた。
“東京ララバイ”がヒットした翌年だから、まだまだメジャーな人だった。
別にイベントがあったわけではなく、そこに買い物に来ていただけだった。
その日の日記には、
“「中原理恵が店に来ている」というので店内に行った。レジのところにジーンズをはいた痩せた女が立っていた。Kに「あれか?」と聞くと、「おう」と言った。「なーんか、ただのねーちゃんやん」とぼくは思った。・・・”
と書いてある。

そういえば、東京にいた頃、芸能人を何人か見たことがある。
御茶ノ水駅前で、中谷一郎(水戸黄門の風車の弥七役の人)を見たのが最初だった。
次が、宍戸錠だった。
その頃、女子プロ野球の「ニューヤンキース」というチームがあった。
女子プロ野球とはいうものの、別にそういう機構があったわけではなく、芸能人チームやプロ野球OBチーム相手に野球をやっていただけだ。
フジテレビがやっていたチームで、のちの“おニャン子クラブ”の野球版と思ってもらったらいいと思う。
その「ニューヤンキース」にぼくの知り合いが所属していた。
「今度出場するから、しんたさんも見に来て」と言われ、神宮球場まで見に行ったのだが、その時の相手が「日活OBチーム」だった。
神宮球場で開場待ちをしている時に、ほっぺたの大きな人がぼくたちの横を通り過ぎていった。
それが錠さんだった。

中原理恵を見た少し前、たしか7月だったと思う。
凄い人を見た。
それも50センチ位間近で。
その日の昼食後、代々木の街を歩いていると、反対方向から一人の男性が歩いてきた。
ちょっと背の低い人だった。
すれ違う時、横目でその人を見たのだが、それこそ「ちかっぱ、いい男」なのである。
その人は車道に降り、停めてあったサバンナRX7に乗り込んだ。
いっしょにいた友人に「いい男やったのう。芸能人かのう?」と聞くと、「見てなかった」ということだった。
『誰だろう?』と思いながら歩いていると、その辺にたむろしていた女の子たちが、「かっこよかったねえ」「映画のロケだって」「やっぱりRX7だったね」などと言っている。
そういえば、その日代々木で“太陽を盗んだ男”のロケをやるといっていたのを思い出した。
『・・・ということは、あの人はジュリー!』
沢田研二といえば、前に日記にも書いたが、ぼくのヒーローの一人だ。
それから数ヶ月の間、ことあるたびに「おれ、ジュリーに会った」と触れ回っていた。
今でも、その時の状況やジュリーの顔をしっかりと覚えている。

その後も、岩崎宏美や仁科明子のお母さんや作家の田中小実昌などを見たが、ジュリーほどの衝撃は受けなかった。

東京に住んでいた頃、有名人を見たのはそのくらいだったか?
もっと見たような気がしたのだが。
それでも、東京に行く前の20年間に見た有名人の数よりは多い。
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2002年06月14日

富士山 その1

『富士の遊覧船』
 雨の振る日に 船に乗って
 いつまでも 水面をながめる
 船の描く 輪の中に
 想い出ひとつの 雨がたまる

 思い出ひとつの 雨がたまれば
 船は 心をもったごとくに
 しずくにふたつみっつ 沈んでいく

  富士の遊覧船は
 何度も何度も回りながら
 思いでひとつに沈んでいく

 悲しみの時 影を落としたぼくは
 そんな 船の中から
 溺れぬようにと 祈りながら
 そんなゲームを 楽しんでいるのですよ


この詩を書いたのは、23年前のちょうど今頃だった。
千葉に住んでいた友人と、富士山に遊びに行った時のものだ。
その前日、ぼくは千葉の友人宅に泊まった。
酒でも飲みながら夜を過ごそうと思っていたのだが、翌朝10時に代々木で他の友人2人を拾うことになっている。
ということは千葉を朝7時頃に出ないと間に合わない。
深酒でもして寝坊したら大変だということで、その日は飲むことはせず、早目に就寝した。
翌朝、予定通り7時に友人宅を出て、津田沼にレンタカーを借りに行った。

8時にレンタカーを借り、津田沼を出発した。
当初は京葉道路を使うつもりだったが、下の道で行っても2時間あれば充分間に合うだろう、ということで下の道を行った。
それが甘かった。
東京に入るまで約1時間かかり、東京に入ると何度も渋滞にあってしまった。
結局、代々木に着いたのは午後1時を過ぎていた。

待ち合わせ場所に行くと・・・。
もちろん誰もいない。
どんなお人よしでも3時間も待つ馬鹿はいない。
その時は、代々木の喫茶店で待ち合わせていたのだが、店の人に「10時頃、こういう人は来てなかったですか?」と聞いてみると、「ああ、来てましたよ」という。
友人と顔を見合わせ、「困ったのう。どうしようか」と言った。
しかし、せっかくレンタカーを借りてきたのである。
ここで引き返すのもバカらしい。
ということで、ぼくたちは富士に向けて出発した。

とはいえ、ぼくは福岡の出身、友人は福島の出身である。
富士に行く道を知らない。
「まあ、西に向かって行きよったら、何とかなるやろう」ということで、とにかく出発した。
友人が「たしか、八王子から高速に乗るらしい」と言うので、「じゃあ八王子に行けばいい、ということやん。何とかなるやろう」とぼくたちは甲州街道に向かった。
甲州街道に出てから、迷うことなく、中央高速の入口に着いた。

さて、高速に乗ってしばらくすると小雨が降り出した。
朝方から曇っていたのだが、途中晴れ間も出たりして、持ち直すかと思われたが、ここに来てついに降り出した。
雨が降ると困ることがあった。
それは、その当時ぼくはまだ運転免許を持ってなかったので、その友人が一人で運転していたのだ。
しかも、友人は免許を取って初めて遠出をする、と言うことだった。
「今まで、運転して雨に降られたことがないんだよな。できたら雨の日には運転したくない」と常々言っていた。
無常にもその雨が降り出したのだ。
これには困った。
仕方がないので、最寄のパーキング入り、食事をしながら雨が止むのを待つことにした。

しかし、雨はいつまでたっても止まなかった。
しかたなく、出発することにした。
ところが、幸いなことに、高速道路はさっきよりもすいていた。
というより、走っている車は、ぼくたちの車しかなかったのだ。
これに勇気付けられた友人は、そのまま河口湖畔まで突っ走って行った。

その日は河口湖と山中湖を回った。
河口湖に着いたのはもう4時を過ぎていたので、当初予定していた富士山や白糸の滝には行けなかったのだ。
しかし、野郎二人の河口湖や山中湖はいただけない。
結局することもないので、山中湖畔に停めてあった外車の前でポーズを作り、お互いの写真を写しただけに過ぎなかった。

帰りは中央高速を降りてから、首都高、京葉道路を使って、津田沼まで戻った。
さすがに高速を使うと早いものである。
途中首都高が渋滞していたものの、時間にして1時間ほどで津田沼に着いた。
「最初から高速使ってればよかったね」
「明日は、あいつらから文句言われるやろうのう」

翌日、案の定代々木で待ち合わせた二人の友だちから、散々文句を言われた。
文句を言う気持ちもわかる。
一人は横浜、もう一人は埼玉から、わざわざ代々木まで来ていたからである。
じゃあ、今度埋め合わせをする、ということで納得してもらった。
再び富士山に向かったのは、その2週間後であった。
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2002年06月15日

富士山 その2

ぼくは、過去五度富士に行ったことがある。
そのうち四度は、富士山五合目まで車で行った。
しかし残念ながら、山頂までは行ったことはない。

一度目は、高校1年の夏休みだった。
横須賀の叔父の所に遊びに行ったのだが、その時叔父の会社の社員旅行に参加させてもらった。
行った場所が富士だった。
白糸の滝、富士五湖、五合目に行った。

二度目は、高校2年の修学旅行の時。
富士急ハイランドに泊まり、前後の日に富士の各地を回った。
その時も、五合目に行った。

三度目は、昨日書いた内容である。
河口湖と山中湖に行ったが、五合目には行かなかった。

さて、四度目と五度目だが、三度目に行った2週間後に行った。
そう、同じ日に二度行ったのである。
どちらも五合目に行った。

この日は、仲間7,8人(男子のメンバーは覚えているんだけど、女子のほうがどうも思い出せないでいる)でワゴン車を借りて行った。
朝、新宿駅西口の地下で待ち合わせ、そこからワゴン車に乗った。
前日、同行メンバーにぼくは、「富士は泳げるんか?」などと、間抜けなことを聞いていた。
「泳げないこともないけど・・・」という言葉に、「じゃあ、泳ぐ準備して行く」と言って、当日はTシャツと海パン(トランクスタイプ)といういでたちで行った。
日差しが強く、かなり暑かったので、「正解やった」と一人喜んでいた。

さてルートだが、行きは中央、帰りは東名を通ることにした。
さすがに、前回の初心者友人と違い、その日の運転手「テツロー」は慣れている。
さらに、相模原の人間だったので、地理にも詳しい。
ぼくたちは安心して、彼に運転を任せていた。

中央高速に入ってしばらくしてからのこと、ぼくたちの走っていた車線が工事のために塞がれていた。
しかたなく、左車線に入ろうとした。
左車線の少し前にはトラックがいた。
「どうせなら、あのトラックを抜かしてから入ろう」
ということになり、テツローはスピードを上げた。
ぼくたちは、「行け、行け〜!」とテツローをあおった。
テツローがトラックを抜いた時には、もう工事現場の手前まで来ていた。
テツローはそのスピードを保ったまま、矢印に沿って左車線に入った。

左車線に入ると、真っ先に目に飛び込んできたものがあった。
赤い棒だった。
赤い棒は、ゆっくりとこちらを手招きしている。
「ありゃー」
テツローが叫んだ。
その人は警察だった。
取締りをやっていたのだ。
30キロオーバーだった。
テツローは、「あ〜あ、免停だ」とショックを受けていた。
新宿を出発してから、まだ1時間も経っていなかった。
それは、その日起こる波乱の幕開けでもあった。

「波乱の幕開け」とはいっても、そう大した出来事があったのではなかった。
ただ、間抜けなやつが笑えるような騒動を起こしたというに過ぎない。
このドライブ自体は、総体的に見ると楽しいものだった。
最終的に一番悲劇だったのは、このぼくだったのかもしれない。
そのことは、明日話すことにする。
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2002年06月16日

富士山 その3

免停決定で意気消沈したテツローに代わって、アラカワという男が運転することになった。
河口湖ICで高速を降り、そこから富士山五合目に向かった。
天気は良く、気温は上昇、車内は和気あいあい、こんなムードでたどり着いた富士五合目は、寒かった。
みやげ物を買い、記念撮影をし、早々に立ち去った。
ちなみに、ぼくはその時に買った木の根で作ったパイプを、いまだに愛用している。

さて、ぼくは車の中で、「今日は泳げんとか?」と、一人騒いでいた。
ここで泳げなかったら、せっかく海パンを履いてきた意味がない。
しかし、誰も「泳ごう」などというものはいない。
しかたないので、次に行った白糸の滝で、ぼくは滝壺の途中まで行って、一人で水と戯れていた。
その時写した写真があった。
オレンジのTシャツと、真っ赤なトランクス(海パン)で腕組みしている写真である。
ぼくが今まで撮った写真の中で、一番気に入っているものだ。
後日その写真の入ったバッグを、新宿歌舞伎町のパチンコ屋で置き引きにあってしまった。
ということで、その写真は手元にはない。
誰かがネガを持っているはずだが、誰がその写真を撮ったのかも忘れてしまっている。

その後、御殿場から東名高速に乗り、テツローの家がある相模原に向かった。
相模原の駅前にある写真屋にフィルムを預け、現像待ちのため、ぼくたちはテツローの家に行った。
テツローの家で、ワイワイやっていると、例の千葉の友人キタミが、「ないよ」と言って騒ぎ出した。
「何がないんか?」
「免許証がないんだよ」
「持ってきてないんやないか?」
「いや、朝は確かに持っていた」
「じゃあ、どこかに置き忘れたんか?」
「そうみたい」

それから、どこで置き忘れたのかを、みんなで推理した。
「中央高速のパーキングは?」
「その時は車の中にあった」
「河口湖は?」
「その時は持ってた」
「じゃあ、富士山五合目か?」
「うーん、そこからの記憶がない」
「なら、地元の交番に届けがあるかもしれん」
いつしか、富士山五合目に置き忘れた、ということになってしまった。
「じゃあ、さっそく交番に電話してみよう」ということになった。
が、富士山五合目が静岡県か山梨県かで、みんなは悩んでしまった。

「富士山というくらいだから富士市だろう」
ということで、ぼくが代表して富士市の警察署に電話すると、その近くの交番を教えてくれ、「そこで聞いてみてくれ」ということだった。
教えられた交番に電話をし、事情を話して聞いてみた。
「いや、うちには届けはないけど」
「そうですか・・・」
「どこで忘れたのかね」
このおまわりさんは人の話を聞いてない。
再度「富士の五合目です」と言うと、
「ああ、富士五合目ね。それなら、管轄は山梨県だ。富士吉田の警察に電話して聞いてみて」

ぼくはさっそく富士吉田の警察署に電話をかけ、五合目を管轄している交番はどこかと尋ねた。
「○○という交番です。電話番号は・・・」
教えられたとおりに電話をしてみた。
また一から事情を話し、そういう届けはなかったかと聞いた。
「いや、来てないですなあ」
「そうですか・・・」
「どこに置き忘れたか覚えてないの?」
「はい、それがわかったら、苦労しませんけど・・・」
「じゃあ、そこに売店があるから、そこに聞いてみたらどう?」
「電話番号がわかりません」
「ちょっと待ってよ。・・・、電話番号は・・・」

売店に電話してみると、「ああ、お土産の入った袋の忘れ物がありましたよ」ということだった。
「すいません。中身を確認して欲しいのですが・・」
「あ、免許証が入ってるよ」
「それです。それです」
「送りましょうか」
「いや、今から取りに行きます」
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2002年06月17日

富士山 その4

食事を終え、女子を駅に送って行ったあとに、ぼくたち男性陣は中央高速道に乗った。
もう、午後10時を過ぎていた。
夜の中央高速道は、昼間とは一転して、神秘的な風景をかもし出していた。
車はほとんど通ってない。
昼間美しく輝いていた相模湖は、今にも幽霊が出てきそうな不気味な雰囲気が漂っていた。

運転したのは昼間免停を受けたテツローだった。
昼間運転したアラカワは疲れていた。
キタミは免許証のことで頭が一杯のようだ。
ぼくだけが元気だった。
「一日に二回も富士山に行くのは、おそらくおれたちぐらいやろね」
こんな軽口を叩きながら、この珍道中を楽しんでいた。

中央高速道を降り、再びスバルラインに入った。
さすがに自家用車は走ってない。
しかし、渋滞していた。
気がつくと、ぼくたちの車は、自衛隊のトラックの列の中にいた。
夜間演習でもあるんだろうか、そのトラックの荷台には、たくさんの自衛隊員が乗っていた。
彼らは、こちらをじっと見ている。
「何か不気味だなあ」
おそらく、彼らもぼくたちのことを不気味に思ったに違いない。

五合目に着いたのは、もう午前1時近かった。
しかし、まだ売店はやっている。
「すいません。先ほど電話したものですけど」
「はいはい、ちゃんとありますよ。危うく捨てるところでしたよ」
中を確認すると、確かにキタミのものだった。
そこで謝礼を言い、ぼくたちは下山した。

その日はテツローの家に泊まることになった。
ぼくは、この時初めてテツローの家に泊まった。
余談だが、ぼくはその後、この家に幾度となくお世話になることになる。
そこには、ぼくとテツローが同い年というのもあったが、何よりも大きかったのは、テツローの親が、ぼくと同じ福岡県の出ということだった。
ぼくの九州弁を、テツローの両親は懐かしがってくれた。
ぼくとしても、言葉が通じるので居心地が良かった

4人が起きたのは、翌朝、いやもう午後2時を過ぎていた。
ぼくらは昼食をすまし、そこでテツローと別れた。
町田から小田急線に乗り込み、新宿に向かった。
新宿で他の二人と別れた後、ぼくは一人紀伊国屋書店へと向かった。
ところが、悪いことに、途中から雨が降り出した。
前日が晴れていたため、ぼくは傘を用意していなかった。
あまり傘をささないぼくだが、その時はTシャツに海パンという薄着である。
びしょ濡れになると、肌が透けて見えるのだ。
こうなると、赤恥ものである。
それにかなり肌寒くなっていた。
帰りの電車に乗った頃には、ぼくは鳥肌が立っていた。
しかも、周囲の目は、時宜に合わない格好をしているぼくに降り注がれている。
「寒い」「恥ずかしい」、という気持ちが交互にやってくる。
「早く駅についてくれ」と願ったものだった。
ぼくが当時住んでいたのは、高田馬場であった。
新宿から山手線で二駅、時間にして5分足らず。
この5分足らずの時間が、こんなに長く感じたことはなかった。
「昨日泳ぎもできんかったし、こんな格好するじゃなかった」
今更のように、海パンで出かけたことを悔やんだ。

下宿に帰って早々、ぼくは銭湯に行った。
体を充分に温めた、が相変わらず傘をささないぼくの習性が災いした。
翌日、しっかり風邪を引いていた。
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2002年07月21日

アルバイト遍歴 その1

19歳から22歳にかけて、ぼくはアルバイトばかりしていた。
決まったバイトではなくて、そのつど場所も職種も違った。

19歳の時は、エッセイにも書いているが、警備のアルバイトだった。
その年の4月から7月中旬にかけて、ぼくは人生最大のスランプに陥っていた。
そのことから立ち直る足がかりになったのが、この警備のアルバイトだった。
仕事慣れしていないせいもあり、あまり楽しい仕事ではなかった。
周りの人とトラブルばかり起こしていたような気がする。
しかし、ここを経験したから、次のステップが踏めたのだと思う。
それを考えると、決して無駄なことではなかった。
その後、市のアルバイト、プロレスのリング作りなどをやった。

年末に友人に誘われて、運送会社のアルバイトをした。
そこはデパートのお歳暮の配達をやっていた。
ぼくが配属されたのは、仕分け部門だった。
デパートのサービスセンターでお歳暮を配達の地区別に分けていく仕事だった。
商品に地区番号を書いていくのがぼくの仕事だった。
ベルトコンベアから次から次に流れてくる商品に、素早く番号を書かなければならない。
地区番号を覚えるだけでも大変だった。
しかし、1週間たち2週間たつうちに、住所を見ただけで瞬時に番号が出てくるようになった。
仕事はそういうことで慣れていったのだが、困ったのは人間関係だった。
そこにはデパートに雇われた大学生のアルバイト、実習教育の高校生、それと運送会社から派遣されたぼくたちがいた。
高校生はともかく、大学生とぼくたちの仲がすこぶる悪かった。
「しんたは生意気だからフクロにしよう」と言っていた大学生もいたようだ。
ぼくも「上等やないか。受けて立つわい」などと言っていた。
まさに一触即発の陰険なムードだったが、結局ぼくと同じ運送会社から派遣されていた大学生が仲裁、というよりも「しんたに手を出したら。おれがただでは済まさん」と脅しをかけたおかげで、大事には至らなかった。
その後、その大学生たちはぼくに愛想を振舞うようになった。
1ヶ月ちょっとのバイトだったが、けっこう有意義なアルバイトだったと思う。
その後、年が明けてから、雪の舞う中での漬物の家宅販売などをやった。
それから、東京に出たのだが、当初は何もやらずに、まず東京に慣れようとした。
それから数ヵ月後に、東京でのアルバイト生活が始まる。
まずやったのが、ビル清掃のアルバイトだった。
場所は麹町、日本テレビのまん前にあるビルだった。
ここは時給1000円と割のいい仕事だったが、日に2時間しか働かせてもらえなかった。
おかげで、バイト料は1週間も持たなかった。
飲み代に消えてしまったのである。
しかし、このバイトは4ヶ月続いた。
帰りに新宿中村屋で、肉まんを買うのが唯一の楽しみだった。

次にやったのが、晴海の集中郵便局での仕分けのアルバイトだった。
午後4時から翌朝7時までの仕事だった。
アルバイトは学生が主で、中には東大生もいた。
ほかのバイト団体が東大生を取り囲むようにして、「なんで東大の人がここにいるんだ」などと言っていた。
東大生といえども、一学生である。
「そっとしといてやればいいのに」、とぼくたちは言っていた。
それにしてもこの仕事は、休憩時間や仮眠時間はあるものの、立ちっぱなしの仕事だったため、慣れないぼくにとってはかなりハードだった。
職員は全逓労働争議であまり来てなかったし、来ていても仕事をしない人が多かった。
この仕事が、割がよかったのかどうかは知らないが、一度行くと7000円にはなった。
ぼくはこの仕事を一日おきにやっていたのだが、オフの日は何もやる気が起きなかった。
飲みに行く機会もグッと減り、また本屋に行く気も起きない。
したがってタンスの引き出しの中には、万札が何枚も入っていた。
使う気も起きないのだ。
それにしても、薄暗く、空気の汚い仕事場だった。
朝仕事が終わり、勝鬨橋を渡って帰る時のすがすがしさは今でも忘れない。
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2002年07月22日

アルバイト遍歴 その2

それから一度こちらに帰ってきたのだが、その時は前とは別の運送会社でアルバイトをした。
その会社は、長距離便や大手企業の下請けなど、いろいろな業務を行っていた。
ぼくが回されたのは宅配のほうだった。
当時ぼくは免許を持っていなかったので、もちろん助手である。
そこでは、ユニード(現ダイエー)や長崎屋といった量販店の配達を請け負っており、主に家電や家具の配達をやっていた。
宅配の仕事の中で一番苦労したのが、4、5階建ての公営・公団住宅に冷蔵庫やベッドといった大型商品を持って行く仕事だった。
この手の団地にはエレベーターがない。
そういう団地は決まって階段が狭いものである。
したがって小回りがきかない。
ちょっと気を抜くと、壁にこすってしまう。
そのせいか、「怪我はしていいけど、商品に傷をつけるな」というのが合言葉になっていた。
その言葉どおり、商品に傷をつけないために、ぼくは自分の手を犠牲にした。
手の甲を何度すりむいたことだろう。

しかし、ここではそんな痛い仕事ばかりではなかった。
おいしい仕事もあった。
それは引越しである。
ちょうど春先で、引越しの多い時期だった。
一度だけぼくも、引越しの手伝いに借り出されたことがあった。
けっこうきつい仕事だったが、帰る時にご祝儀もらった。
これがけっこうな額で、みんなで山分けしたのだが、それでも一人当たりの取り分は多かった。
そのバイトの日当よりも多かった。
約一ヶ月、その会社で働き、再びぼくは東京に行った。

東京でまた、友人とアルバイト探しの毎日だった。
ある日、アルバイトニュースで○運輸ところを見つけた。
場所は浅草橋だった。
友人が千葉に住んでいたため、バイトが終わったら、そのまま総武線で帰れるので都合がいいということで、そこをバイト先にすることにした。
浅草橋から少し歩いたところに、その○運輸はあった。
そこから少し行ったところに吉原という地名があったが、あの吉原なんだろうか。
相撲部屋が近くにあったので、歩いているとよく力士とすれ違った。
喫茶店にもパチンコ屋にも力士がいた。
午後4時から始まる仕事だったのだが、その時間帯は力士も休憩時間なのだろう。
さて、仕事のほうだが、4時から1,2時間、そこで荷物の積み込みをやる。
荷物には芳香剤、東京スタイル、工業用品の3種類があった。
芳香剤や東京スタイルの場合は、すべて定型の箱だったので、トラックに積み込みやすかった。
とくに東京スタイルは軽かったせいもあり、ぼくたちバイトは先を争って東京スタイルの積み込みをとっていた。
一方の工業用品のほうは、形がいちいち定まっていなかったせいで積み込みにくかった。
重さもまちまちで、おまけに油臭いときている。
誰もが敬遠した荷物であった。

そういう積み込み作業をしてから、バイトは全員トラックに乗り込んで次の作業場である豊洲埠頭に向かう。
そこにトラックの中継所があった。
埠頭であるから、もちろん船も着く。
トラックや船で運んできた荷物をここにいったん集め、それを地区別に仕分けして、そこに行く便に積み込む仕事だった。
ここでも東京スタイルは人気の的だった。
逆に嫌がられたのは、船で積んでくる荷物だった。
大きな機械から小さな鉄の球までいろんなものを積んでくる。
小さな鉄の球というのは直径15センチくらいで、重さはなんと25キロもあった。
そういうのが続けてくるわけである。
中にはドライアイスもあった。
これはグリーンのケースに入っており、重さは20キロだった。
夏場だったので冷やりとして気持ちよかったが、入れ物が汚かった。
こういう荷物を毎日運んでいた。
おかげでぼくの腕は太くなり、ポパイのような力こぶが出来るようになった。
ちなみにこの筋肉はいまだに落ちていない。
いかに運動をしてなくても、20回ほど腕立てをすれば、元の太い腕に戻るのだ。
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2002年07月23日

アルバイト遍歴 その3

ある日、原田真二似の男がバイトに入ってきた。
この男は仕事をしなかった。
ほかのバイト連中は荷が着いた時、それがどんな荷物であろうとも、荷を全部運び出すまでそのトラックについていたのだが、その男は違った。
重い荷物や汚い荷物があると、すぐにほかのトラックに移って行った。
「あっちは終わりそうだから、こっちを手伝うよ」などと言っている。
そこにまた重い荷物などがあると、またほかのトラックに移って行った。
軽い荷物ばかりあるトラックについても、最後までそこにいたことはなかった。
「トイレに行ってくる」などと言っていなくなるのだ。
そして荷物の積み出しがほぼ終わる頃に戻ってきた。
最初は気にしなかったのだが、こういうことが頻繁にあるので、ほかのバイト連中とその男の行動を探ってみることにした。
すると、「トイレに行ってくる」と言った後、彼はトイレには行かず事務所の中に入っていった。
事務所にいる社員に、「いやー、疲れました」など言ってしゃべりかけて媚を売っている。
そして、自分はいかに仕事をするか、というのをアピールしていた。

そのことがわかって、バイト連中は憤慨した。
バイトの中ではぼくが一番年長だったので、みんなぼくに「しんたさん、バシッと言ってやってくれ」と言ってきた。
しかし、ぼくは口で言うのを好まない。
かと言って、力に訴える主義でもない。
彼が相変わらずうろうろしていた時、ぼくは彼をつかまえた。
「おい、こっち手伝ってくれ」
「い、いや、ちょっとやっていることがあるんで」
「そんなのどうでもいいけ、手伝え!」
と言って、無理やり彼をトラックに引きずり込んだ。
「おい、これを全部運び出すぞ」
「えっ・・・・」
かなりの量だった。
いやいやながら彼は手伝ったが、しばらくしてから、いつものように「トイレに行ってきます」と言った。
ぼくは「トイレはこの荷物を全部積み出してから行け」と言って、荷物を彼に投げつけた。
しかたなく彼は最後まで手伝った。
その後、ほかのバイト連中がぼくのところに来て、「しんたさん、見てましたよ。胸がスッとしました」などと言っていた。
後でわかったことだが、その後彼は泣いていたらしい。

しかし、彼はこのことを恨みに思ったようだった。
事務所に行っては、執拗にぼくたちの悪口を言っていたのだ。
最初は事務所の人も相手にしていなかったが、あまりに彼がしつこく言うのでだんだん彼のいうことを信用するようになっていった。

土曜日は荷が少なかった。
8時にはトラックすべてが戻ってきた。
荷を積み出した後、ぼくたちは暇をもてあましていた。
9時までのバイトなので、いやでもそこにいなくてはならない。
ある日、社員の人が「のどが渇いたなあ。ちょっとジュースでも飲みに行こう」とぼくたちを誘った。
近くの自販機に行くと、ほかの社員もそこにいた。
みんなジュースではなくビールを飲んでいた。
「お前たちも飲め」と言って、彼はビールをおごってくれた。
このバイトをしている間、仕事中にビールを飲んだのはこれが最初で最後だった。
しかし、これが問題になった。
「バイトが仕事中にビールを飲んでいる」というのが、社長の耳に入ったのだ。
社員のほうはお咎めなしだったが、ぼくたちバイトは「辞めさせろ」ということになった。
ビールを飲んだことをチクったのは、言うまでもない、原田真二男である。
ぼくたちがビールを飲んだのを知ると、彼はさっそく事務所に報告に行った。
そして問題が大きくなったのだ。
辞めさせられたのは、ぼくを含めて5人だった。

そのバイトを始めて4ヶ月たっていた。
ぼくは、もうそのバイトには未練がなかった。
ほかの連中も、潔く辞めた。
結局、その会社には仕事をしないバイトだけが残った。
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2002年07月24日

アルバイト遍歴 その4

○運輸をクビになってから数日して、ぼくはまた北九州に戻った。
ま、ただの夏休みであるが。
7月中旬に戻ったぼくは、春にアルバイトをした運送会社にコンタクトを取った。
来てくれ、と言うことだった。
さっそく翌日からアルバイトを再開した。
仕事は、春と同じく宅配の仕事だった。
東京で鍛えてきてあるので、荷物はかなり軽く感じた。
調子に乗って、山の中腹にある家まで、洗濯機を一人で抱えて行ったこともある。
毎週火曜日が指定休だったのだが、ぼくは休まずに仕事に行った。
「あんた今日休みやろ?」
「そうなんですけど、何でもいいから仕事をさせて下さい」
「今日は宅配休みやけ、他にすることといえば・・・」
と、あてがわれた仕事は、土方だった。
社長宅の、100坪ほどある庭の整地である。
ブルトーザーでそこにあるコンクリや石を砕き、その後スコップで地面を平らにしていくのだ。
それまで、本格的にスコップを持った仕事はしたことがなかった。
慣れない仕事、しかも炎天下である。
終わった時には、かなりバテていた。
帰りしなに、「どうね、しんた君。来週の火曜日もするかね」と聞かれた。
『こりゃ、休まんとやっとられん』と思ったぼくは、「遠慮しときます」と言った。
その言葉どおり、翌週から火曜日はきちんと休むことにした。

休みもとらずに何で頑張ったかというと、ぼくはひとつの目的があったのだ。
実は東京に出る前に、ぼくはテレビでポール・マッカートニーのオーストラリア公演を見たのだが、そのライブで弾いていたギターを痛く気に入っていた。
そのギターとは、『オベーション・グレンキャンベルモデル』だった。
このギターは当時24万円した。
いつかこのギターを手に入れたいと思っていたのだが、東京では生活に追われて、そんな高価なものを買う余裕などなかった。
休みを取らずに働いた理由というのは、東京のアルバイトで稼いだお金と、このアルバイトのお金を足せば何とかなると踏んだぼくの、当然の行動だった。
しかし、それも一週間で挫折してしまった。

ところが、休みの日に福岡天神に遊びに行ったの時に、とんでもない裏技があるのを発見した。
クレジットである。
もちろんそれまでにも、クレジットの存在があるのは知っていたが、そこまでクレジットの必要性を感じたことはなかった。
バイトを終えて東京に戻る時に、ぼくは福岡天神のB電気に行ってクレジットの手続きをした。
そこからぼくのクレジット人生が始まった。
だけどこの時、もし払いが遅れたら、二度とクレジットは使えない、というのを知った。
だから無理のない支払方法をとった。
これが社会に出てから、大いに役に立つことになる。
これは自慢するようなことではないが、ぼくはこれまでかなりのクレジットを組んできた。
しかし、支払いが遅れたことは一度もない。
それは、そのギターを買った時にクレジットについて教わったことが大いに役に立っている。

その翌日、ぼくはオベーションの大きなケースを持って、飛行機に乗った。
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2002年07月25日

アルバイト遍歴 その5

東京に戻ったぼくは、また友人とアルバイト探しをした。
もう運送会社はまっぴらだったので、今度はほかの業種を選ぶことにした。
アルバイトニュースを買い、総武線沿いを重点的に探した。
ほどなくいいところが見つかった。
四谷にあるスーパーマーケットだった。
文化放送の前を通り、お岩神社横の細い道を抜けたところに、そのスーパーはあった。
とりあえず面接を受けた。
面接官は小太りの、めがねをかけた親父だった。
ぼくはどうもこの男と折りがあわない。
変に剣のある口調でぼくに突っ込んできた。
「君はもっとほかのバイトを探したほうがいいんじゃない」とか、「その髪はどうにかならんかね」とか言ってきた。
ぼくは笑ってかわしていたが、相手の攻撃は執拗だった。
どうもこの男は、ぼくの身なりが気に入らなかったようだ。
そして彼が、「悪いけど今回は・・・」と言おうとした時、その店の店長が入ってきた。
店長は「せっかく来てもらったんだから、働いてもらおうよ」と言った。
めがね氏が「しかし・・・」と言うと、店長はその言葉をさえぎるように、「じゃあ、明日から来て」と言った。
めがね氏は少しムッとした表情をした。

このスーパーは、新宿では有名なスーパーだった。
来店客も土地柄か、品のいい人が多かった。
前にも話したが、仁科明子(現 亜季子)の母親や、中原理恵など有名人がよく買い物に来ていた。
しかし、ぼくは商品管理のほうの担当だったため、なかなかそういう人たちには会えなかった。
逆に、いっしょにバイトをしている友人は店内の担当だったので、しょっちゅう有名人に遭遇していた。
帰る時にいつも、「今日は誰々に会ったぜ」と言っていた。

このバイトを始めて、ひとつだけ閉口したことがあった。
それは、ネクタイをしなければならないことだった。
ぼくは今でもネクタイをするのが嫌いである。
これをすると、頭に血が流れないような気がするのだ。
「頭に血が流れない」→「脳が活発に働かない」→「馬鹿になる」、という図式がぼくの中に存在する。
それまでにネクタイをしたことがあるのは、成人式ただ一回だけだった。
その時は3時間程度ネクタイをしていただけだが、それでもかなり疲れたのを覚えている。
それが、このバイトを始めてからは毎日である。
仕事以前にネクタイに疲れていた。

仕事自体はそんなにきついものではなかった。
Hさんという担当の方がいて、ぼくはその人の横に付き添っているだけだった。
「これが品薄だなあ。これをチェックしといて」
と言われると、ぼくは用意した在庫表にチェックしていく。
ただそれだけの仕事だった。
たまには店のレイアウトもやった。
新発売の商品やチラシ掲載商品を、目立った場所に置いていくのだ。
その仕事も商品自体が軽いのと、限られたスペースにしか置けないこともあって、10分もすると完了してしまう。
店内でお客を相手にしている友人と比べると、かなり楽なものだった。
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2002年07月26日

アルバイト遍歴 その6

このバイト中、ぼくは一度だけ活躍したことがあった。
マルタイ食品の『長崎チャンポン』というのがある。
九州で大ヒットしたカップ麺で、ぼくがそのスーパーでバイトしていた時に新たに店頭に並べられるようになった。
Hさんが、「お前、これ知ってる?」と聞いた。
「『長崎チャンポン』ですね。知ってますよ。よく食べてましたから」
「おいしいの?」
「はい。おいしいですよ」
「どうやって食べるの?」
「普通どおり食べてもいいけど、玉子とか入れて、ソースを落とすとおいしいですよ」
「ふーん。じゃあ、お客さんに尋ねられたら呼ぶからさあ、ちょっと説明してやってよ」
「いいですよ」
ということで、ぼくは何人かのお客さんに説明した。
「これおいしいの?」
「おいしいですよ。九州では大ヒットしてますよ」
「本当?」
「九州人のぼくが言うから間違いないです!」
「あら、あなた九州の人なの。じゃあ、間違いないわね」
そう言って、お客さんは何個か買っていった。
ぼくはこの時、初めて物を売る喜びを知った。

わりと楽な仕事だったにもかかわらず、ここでのバイトは10日も続かなかった。
それは、この44年間の人生の中でも最大級の病気にかかってしまったからだ。
その病気とは胃痙攣である。
その前の日、ぼくは何も食べなかったのだが、バイトをしている時に空腹のピークを迎えた。
「腹減ったー」などと言っていると、同じバイト仲間が「これ食べな」と言ってアイスクリームをくれた。
おかげで、空腹感はなくなった。
下宿に帰り、タバコを吸っている時だった。
胃に軽い痛みを覚えた。
最初はそれほど気にならなかったのだが、その痛みが周期的に度を増してやってくるようになった。
おそらく空腹のせいだろうと思い、買い置きしていた例の『長崎チャンポン』を食べた。
しかし、痛みは引かなかった。
かえって周期が速くなってきた。
翌朝もその痛みは引かず、下宿でのたうち回っていた。
その日は一歩も外に出ることが出来ず、とうとう連絡も取らないまま、ぼくはバイトを休んでしまった。
後にも先にも、ぼくが無断で仕事を休んだのはこの時だけである。
その状態は一週間続いた。

ようやく体調が元に戻った。
バイトの方は、どうせクビだろうと思っていたので、「クビ」と言われる前に自分から辞めに行った。
バイト先に行くと、ぼくは例の人事の親父に呼ばれた。
親父は「一週間もどうしたんだね」と聞いた。
ぼくは一部始終を話した。
そして、「まだ万全だとは言えないので、一応バイトは辞めたいんですが」と言った。
親父はうなずいた。
何日か分の給料をもらい、ぼくはバイト先を後にした。

その後は決まったアルバイトはしなかった。
北九州への帰省賃稼ぎに、晴海の集中郵便局に行ったくらいだった。
続けてやろうかとも思ったのだが、もはややる気を失っていた。
冬にこちらに帰った時も、夏に行ったアルバイトに一週間通っただけである。
東京に戻ってからは、もう何もしなかった。
残りの東京の日々は遊んで暮らした。

春、北九州に戻ってきた。
いよいよ就職であるが、ぼくはその時点で、まだ就職が決まってなかった。
そこで一年間、長崎屋でアルバイトをすることになった。
アルバイトとは言え、メーカーの準社員扱いだったため、いろいろとノルマを与えられ、責任を負わされた。
もはや以前のような、気楽なアルバイトではなかったのである。
しかし考えてみると、その長崎屋でのアルバイトは、以前にやっていた気楽なアルバイトとは無関係ではなかった。
前にも言ったが、長崎屋でのアルバイトは家電製品の販売だった。
家電の販売は、もちろん配達も伴う。
販売といい、配達といい、すべてそれまでにアルバイトでやってきたことである。
もちろん力もいるから、豊洲埠頭での荷物の積み下ろしで鍛えたことが、ここで役に立つことになる。
倉庫整理一つとってみても、トラックへの荷積みがかなり役に立っているのだ。
人生無駄なことは一つもない。
どこかで繋がっているものである。
毎年夏になると、アルバイトをやっていた頃を懐かしく思い出すのだが、最近はそういう思いを持って、過去を振り返っている。
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2003年03月15日

西から風が吹いてきたら(前編)

  西から風が吹いてきたら

 西から風が吹いてきたら
 朝一番の汽車に乗って
 懐かしいふるさとに帰るんだ
 向かい風をたどってね

 雨が降ったってかまわないよ
 傘の一本もいらないよ
 だってぼくのふるさとは
 いつだって晴れているんだから

  小さな思い出をたどっても
  ぼくは懐かしいとは思わないよ
  だって東京の風はいつだって
  雨を誘うんだから

 何も告げずに行くよ
 恋人よ、ぼくのことは忘れとくれ
 会おうとも思わないでおくれ
 本当に、もう二度とね…

  小さな思い出をたどっても
  ぼくは懐かしいとは思わないよ
  だって東京の風はいつだって
  雨を誘うんだから

 西から風が吹いてきたら
 朝一番の汽車に乗って
 懐かしいふるさとに帰るんだ
 向かい風をたどってね


コンテンツ「歌のおにいさん」に収録している、『西から風が吹いてきたら』の歌詞である。
今年もまた、この歌を思い起こす季節がやってきた。

今考えてみると、東京にいた頃に一番楽しかったのは、上京2年目の春から夏にかけてだった。
前にも書いたが、その頃、浅草橋の運送会社でアルバイトをしていた。
夕方浅草橋の本社に集合して、豊洲埠頭の倉庫に移動する。
そこで荷物の積み下ろしをするのだ。
けっこうハードな仕事だったが、それなりに充実した日々を送っていた。
最後は、作業中の飲酒をチクられて辞める羽目になってしまったのだが、それでも懐かしい思い出がたくさん詰まっている。
生まれて初めて飛行機に乗ったのもその時期だったし、一日に二度も富士山にドライブに行ったのもその時期だった。
バイト時間の都合で銭湯に行けず、毎日下宿の炊事場で頭を洗っていたのもその時期だった。

まあ、そういう楽しい思い出もあれば、辛い思い出もある。
それが、その年の秋から冬にかけてだった。
胃けいれんを起こし、せっかく始めた新しいアルバイトはクビになるし、置き引きにはあうし、あげくにスリにもあってしまった。
まあ、それも懐かしい思い出といえば、いえなくもないが、どうしても思い出したくないことというものは誰にでもある。
ぼくの場合、この歌詞に出てくる『恋人』である。
実はこの『恋人』は恋人ではない。
歌詞の便宜上そう書いただけなのだ。
N美という女の子だった。
背が高く、美人系だった。
10月にN美と二人で喫茶店に行ったのが、ことの起こりだった。
ぼくは東京にいた頃、よく女の子と二人で喫茶店に行っていた。
しかし、それは恋愛感情とか下心とかいうものではなく、ただ単に友だちとして、もしくは相談に乗ってあげる先輩として行っていたに過ぎない。
相手もそのことはわかっていて、ぼくに対してそういう感情は示さなかった。
ところがこのN美は違った。
「いっしょに喫茶店」、即ち「大恋愛!」と思ってしまったのだ。
翌日からN美の態度は変わった。
突然、「しんた!」と呼び捨てである。
何でN美から呼び捨てにされなければならないのかわからなかったが、とりあえず気にしないでおいた。

日がたつにつれ、N美の態度は大きくなる一方だった。
どこかに連れて行けだの、送って帰れだの、わがままばかり言うようになった。
ぼくも甘かった。
最初は何度かN美のわがままを聞いてやったりしていた。
それが彼女の勘違いを助長していったのだろう。
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2003年03月16日

西から風が吹いてきたら(後編)

ある時、ぼくは友人AにN美のことでグチを聞いてもらった。
友人Aは言った。
「やったのか?」
「・・・あのねえ、つき合ってもないのに、何でやらんといけんの?」
「いやー、やっちゃうと大変だよ。あとが」
「だから、やってないって」
言うんじゃなかった。

しかし、結果的にはそれがよかった。
あるコンパの席で、酔っぱらった友人AがN美にそのことで絡み出した。
友人Aが何を言ったのか知らないが、N美は泣きながら「しんたなんて信じられない」と言い捨てて出て行った。

翌日、N美がぼくのところに来て、「話があるんですけど」と言った。
ぼくも言いたいことがたくさんあったので、近くの喫茶店で話し合うことにした。
N美は開口一番、「どうして別れるなら、別れるって言ってくれないの?」と言った。
「別れる? 誰からそんなこと聞いた?」
「Aさん」
「Aが?」
「そうよ。どうしてAさんなんかに相談するの?」
「相談なんかしてない」
「どうしてちゃんと私に言ってくれなかったの?」
「何を?」
「別れるってこと」
「はっきりさせておきたいんやけど、いつおれがつき合うと言った?」
「それは・・・。最初に喫茶店に行った時よ」
「そんなこと言った覚えはない!」
「口にしなかったかもしれないけど、私あの時わかったの」
「何が?」
「しんたが私のこと好きだってこと」
初めて喫茶店に行った時は、N美の相談に乗ってやったのだ。
こちらは真面目に受け答えしていたのに、どこをどう間違ってそんな勘違いをしたのだろう。
ぼくは、そんなに物欲しそうな目をしていたのだろうか。

「悪いけど、そんなことこれっぽっちも思ったことはない」
「つき合ってる時も?」
「だから、つき合ってない!」
「だって、つき合ったじゃない」
「いっしょに喫茶店に行くことがつき合うことか。それならおれは何人もの人と同時につき合ったことになる」
「えっ、何人もの人と同時につき合ったの?」
「・・・。おれは誰ともつき合ってないし、N美はおれにとって、特別な人でも何でもない」
「じゃあ、つき合ってないってこと?」
「そう」
「・・そうなの。じゃあ、別れるのね」
「つき合ってもないのに、どうして別れる別れんの話になるんか?」
「別れるならはっきり言ってほしいの」
ほとほと参った。
この会話が、そのあと30分は続く。

しびれを切らして、ぼくは言った。
「別れると言ってほしいのなら、別れよう」
「・・別れるのね。別れるのね」
そう言ってN美は泣き出した。
うんざりだ。
ぼくはもう、ここにいたくなかった。

しばらくして、N美が「腹が痛い」と言い出した。
席を立ち、トイレに駆け込んだ。
何分か後、N美は青い顔をして出てきた。
「大丈夫か」と聞くと、「吐いたの」と言う。
「困ったのう」
「もういい。帰るから」
「大丈夫なんか」
「別れたんだから、しんたには関係ないでしょ!」
そう言って、N美は席を立った。
しかし、ふらついている。
仕方なく、ぼくはN美を駅まで送ってやった。
その間もN美は泣いている。
しかし、ぼくは何も声をかけなかった。

翌日、友人たちの視線がぼくに集まった。
友人Aがぼくに駆け寄ってきた。
「しんた、どうだった?」
「ああ、あくまでもつき合ってると言うから、『じゃあ別れよう』と言った」
「で、N美は?」
「気分が悪くなったとかで、駅まで送っていった」
「そうか・・・。しんた、さっきN美の友だちから聞いたんだけどさあ」
「え?」
「N美、まだしんたのこと狙ってるみたいだよ」
「どういうこと?」
「昨日、気分が悪くなったって言っただろ」
「ああ」
「それ、どうも芝居だったらしいんだ」
「えっ!?」
「しんたのことだから、送ってくれると思ったらしいんだ」
「吐いて、ふらついて・・。それも芝居やったんか?」
「そうみたい。気をつけたほうがいいよ」

この事件は1月末に起きたのだが、それから2ヶ月の間、ぼくはN美を無視し続けた。
毎日顔を合わさなければならなかったので、けっこうきついものがあった。
バレンタインデーの時だったが、N美がぼくにプレゼントを持ってきた。
しかし、ぼくはそれを受け取らなかった。
受け取れば、またN美は勘違いする。
用があっても、直接声をかけることはせず、N美の友人を通じて話すことにした。
いつしかぼくは、「早く東京から去りたい」と思うようになっていた。

「何も告げずに行くよ
 N美もうぼくのことは忘れとくれ
 会おうとも思わないでおくれ
 ホントにもう二度とね」

3月の末、ぼくは北九州に帰った。
羽田を発った時、ぼくは正直ホッとしていた。
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2003年03月17日

西から風が吹いてきたら 続編

東京から戻ったぼくは、仕事を探しながらも、ふるさとを満喫していた。
やはりふるさとはいい。
それまで、力んでいた生活が一気に溶けたのだ。
妙な孤独感もなかった。
すぐに友だちに会うことも出来る。
もしかしたらあの人に会えるかもしれない、という確率も大である。
こちらに帰って1週間ほどたった頃に、ぼくは一つの歌を作った。

「さわやかな 春の風
 懐かしい 海の香り
 ぼくはここで 暮らすよ
 そばに聞く 君の声と

 少しだけ 大人の君と
 少しだけ 子供のぼくと
 小さな家を 建てよう
 二人だけの 家を

  華やいだ 春の夢
  かけまわる 雲の上を
  君とぼく 二人だけで
  他にはもう 誰もいない

 暖かな 春の日よ
 優しく つつんでおくれ
 君をもう 離さないから
 優しく つつんでおくれ」

『西から風が吹いてきたら』を書いてから、まだ1ヶ月もたってなかった。
この心境の変化。
ふるさとの力は、何と偉大なんだろう。
もはやぼくは、何が起ころうとも北九州を離れるまいという気持ちになっていた。
そして、その気持ちは今もまだ続いている。
posted by 新谷勝老 at 13:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 東京時代 | 編集

2004年01月18日

力ラーメン(前編)

東京にいた頃、ぼくは食うや食わずの生活を強いられていた。
強いられていたは大げさだが、要は自分でそういうふうにしてしまっていたのだ。
原因は、ぼくの金遣いの荒さである。
バイト代や仕送りなどで、まとまったお金が入ってくると、いつも飲みに行っていた。
しかも、それは一日では終わらない。
一週間くらい続けてである。
そんな具合だったので、お金はすぐに底をついてしまった。
ひどい時には、2千円で二週間を過ごすこともあった。
そういう苦しい経験をしているのに、あいかわらずぼくは、お金が入ると飲みに出かけるのだった。

「これではいかん」と反省したのは、東京で生活を始めてから1年9ヶ月、つまり九州に戻る3ヶ月前のことだった。
とはいえ、その1年と9ヶ月の間に作った、数多くの飲み友だちとの関係を壊したくない。
しかし、そういう生活を続けていく限り、ぼくはのたれ死んでしまう。
「では、どうしたらいいか?」
ぼくはアルコール漬けになった頭で必死に考えた。

考えること一日、ようやく結論がでた。
それは、「少なくとも一日一食はしよう」ということだった。
そのためには、お金が入ったら、食料を買いだめしておくことだ。

ということで、下宿近くの西友ストアに行って、何を買いだめするかを決めることにした。
今でもそうだが、ぼくはスーパーに入ってから、まず見るのがラーメンである。
そのラーメンに当りがあった。
『西友ラーメン』というのが売っていた。
そのラーメン、他のラーメンに比べるとはるかに安いのだ。
「これは使える」
しかし、ラーメンだけでは空腹感が増すだろう。
そこで、もう一品追加することにした。

「何がいいだろう」と店内を回ってみると、そこに最適なものがあった。
『サトウの切りもち』である。
これ2切れでご飯一杯分に相当する。
「これはいい」
ラーメンと餅だけで満腹になるとは思えないが、それでも空腹感は充分に満たすことが出来るだろう。
我ながらいいアイデアだと思ったものだった。

さて、待ちに待ったお金が入った日、ぼくはさっそく西友ストアに行って、ラーメン30食とサトウの切りもち何パックかを買い込んだ。
「これで、食いっぱぐれはない」
しかし、この計画がいかに惰弱な計画であるかということを、この時のぼくは知るよしもなかった。
posted by 新谷勝老 at 17:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 東京時代 | 編集


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