2001年03月23日

禅味

この間書いた、山頭火の「ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯」という句だが、禅味があるなどと註釈がついていた。
この句のどこに禅味があるんだ!
この句は単に言葉の遊びじゃないか!
これを禅味がある、と解説した人の禅味とはどういうものなんだろうか?
どうも禅臭を禅味と勘違いしているように思えてならない。
この句に禅味をつけようとすれば、「ちんぽこもおそそもみんな湯のけむり」と変えなければならないだろう。
へたな言葉で飾ろうとせず、素直に句を味わえるような註釈をつけてもらいたいものだ。
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2001年06月01日

ぼくは長生きするらしい

今日「あなたの人生採点します」というところで採点してもらったら、68点だった。
人生の絶頂期は69歳らしい。
69歳で絶頂期とは、その頃どんなことをやって絶頂しているんだろうか?
もうサラリーマンは卒業しているだろうから、道路工事の警備や駐車場の管理なんかに命をかけているだろう。
絶頂期なんだから、きっと目を輝かして仕事に励んでいるはずだ。
もう一つ、寿命まで書いてあった。
ぼくは93歳まで生きるそうだ。
あと50年も生きるのか・・・。
その頃どんなじいさんになっているんだろうか?
死因はなんだろう?
病院嫌いだから、老衰か野垂れ死にか、そんなところだろう。
それにしても93歳の自分、想像できない。
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2001年06月07日

流れ

今日は朝からイラついていた。
荷は多く入ってくるし、電話がひっきりなしにかかるし、お客からは呼ばれるし。
回りには当り散らすし。
こんな日はろくな日じゃないと思っていたら、案の定昼からも同じような状況だった。
やはり、流れというのはあるのだろう。
野球でも、流れに乗ったチームは、どんないいピッチャーからでも打つし、相手のエラーも味方にして、たやすく得点してしまう。
逆に得点されるチームは流れが悪いのだろう。
何をやっても裏目に出てしまう。
いかに強いチームといえども、この流れにはかなわない。
流れの前には実力もかすんでしまう。
ということで、今日は、実に流れの悪い日でしたわい。
表向きはね。
裏ではいいこともあったのですが、このことはまた後日。
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2001年08月06日

詩集のサイトに書いてある言葉

もう一つのサイト、「詩集 吹く風」のトップページの最後に『一灯を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うることなかれ。ただ一灯を頼め』という江戸時代の儒者 佐藤一斎の有名な言葉を載せている。
「言志四録」の一つ「言志晩録」の中にある言葉である。
「言志四録」といえば、西郷隆盛が愛読していたことでも知られるが、戦前はけっこう愛読者がいたらしい。

ぼくは20代後半から30代中頃にかけて、この手の本をよく読んでいた。
「論語」「孟子」「菜根譚」「老子」「荘子」「伝習録」「言志四録」「徒然草」「臨済録」「盤珪語録」「呻吟語」「酔古堂剣掃」など数えたらきりがない。
手当たりしだい、かつ中途半端にそれらを読んでいた。
精神的に追い詰められた時期だったので、これらの人生の書を手に取ったわけだが、いつのまにか内容というよりは、言葉の流れのほうが好きになっていた。

いろいろな本を読んだ中で、先の佐藤一斎の言葉と、「臨済録」の『随所作主、立処皆真』という言葉が今でも残っている。
どちらも奥の深い言葉です。
突き詰めればどちらも同じ意味であるが、ぼくはこれらの言葉を解説ではなく、実際に体験したことで深く理解していったので、説明が難しい。
理解するには一種の「悟り」というものが必要になるだろう。
もし、「どういう意味だろう?」と思った方がいたら、ぜひ探求してみて下さい。
きっとプラスになりますよ。
posted by 新谷勝老 at 16:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | たまに人生を語る | 編集

2001年10月17日

ぼくは門徒さんではありません

この間、浄土真宗などと書いたので、「お前は門徒さんか?」と言われた。
訂正しておきます。
うちの宗旨が浄土真宗なので、本願寺のほうで勝手に門徒の数の中に入れているかもしれないが、ぼくは門徒さんではありません。

30代の頃、仏教の書物を読み漁ったことがある。
20代の頃に中国思想に耽っていたが、30代の始めに中国思想ではどうにも解決できないものにぶち当たってしまい、仏教書に走ったのである。
かなり読みましたね。
特に好きだったのが、禅宗関係の本だった。
読後の爽快感は他の宗派の差ではなかった。
その中でも一番のお気に入りが、「盤珪禅師語録」だった。
とにかく、江戸時代の書物なのに、しゃべり言葉で書かれているので、現代語訳なしで読むことが出来る。
内容も、奥は深いかもしれないが、平易でわかりやすい。
「お手前は・・・」「・・・でござるわいの」とか「不生でごじゃれ」などという、盤珪独特の言い回しが親しみを持てる。
いろんな人とのやりとりが面白い。

「私は生まれつき短気で困っております」と言われ、「お手前は面白い物を持って生まれたのう。直してしんぜよう。ここに短気を出してみなさい」
「今この場では出せませぬ。ふとした時に出るのです」
「じゃあ、生まれつきじゃないじゃないか。お前の短気は、育つ過程において身につけた気癖じゃないか。生まれつきなどと言って、親のせいにするな」とたしなめた。

「ある宗祖は、川の対岸に紙を持って立たせ、空中に文字を書いたらその文字が紙に浮き出てきたと言われるが、あなたはそういうことが出来るか?」と訊かれた。盤珪は「そんなことは奇術師がやることじゃわいの。法の場でする話じゃござらん」と切って捨てている。

新しい木彫りの仏像を見た僧から「あれは新仏であるか、古仏であるか?」と問われ、盤珪が「お手前はなんと見やったな?」と訊くと、「新仏と見とってござる」と答えた。盤珪は「新仏なら新仏でそれで終わったこと」と言い「お手前は、仏法を特別なものと見ているから、そんな役にも立たない愚かなことを訊くのだ」と。

記憶で書いているので原文とは違うが、こういう話が、語録としてまとめられている。まだまだ面白い話もある。
この本を読む人は誰でも、「これが仏教か?」と疑うだろう。(実際、盤珪は「バテレンか?」と疑われ、迫害を受けたこともある)
仏教を学問と思っている人には物足りないだろう。
しかし、これが仏法なのだ。
盤珪の仏法は、難しい言葉はいらないと言った。
平易な言葉の中に仏法はあると言った。
難しい言葉を使うものを決して認めなかった。
難しく考えることを決して許さなかった。

ぼくはこの本を読んで「生きるということは、理屈ではない」と悟った。
そして、ぼくは「大人ぶるのはやめて、少年でいることにしよう」と心に決めた。
その後、ぼくは仏教書を読まなくなった。
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2001年10月20日

ちょっと真面目な話を書きました

日本人は、生まれてからすべてが宗教である。
生活すべてが宗教である。
だから、無宗教だと思ってしまう。
それは、日常生活とかけ離れた所に宗教があると思っているからだ。
特別なことをすることが、宗教だと思っているからだ。
安産のお守り・お七夜・七五三・成人式・安全祈願・正月・御来光・初詣・お盆・お彼岸・墓参り、これは宗教じゃないのだろうか?
さらに、あらゆる日本的なものにつきまとう「わび・さび・かるみ」、これは宗教じゃないのだろうか?
茶道・華道・俳句から将棋・囲碁、はてはパチンコまで、いつも日本人は「わび・さび・かるみ」のプロセスを踏みたがる。
だけど、こういうことがあまりに自然で、生活に密着していることなので、宗教だとわからない。
つけ加えれば、箸の上げ下げや、お辞儀の仕方までもが宗教である。

キリスト教・イスラム教・仏教・ヒンズー教など、どこかの団体に所属することが宗教なんだろうか?
人を勧誘することが宗教なんだろうか?
人間からかけ離れた、超人になることが宗教なんだろうか?
いかに人間らしく生きるか、いかに人に迷惑をかけずに生きていけるか、そういうことが宗教の第一義ではないのだろうか。
目に見えない心のよりどころを求めるより、もっと身近な「人」を信じることのほうが大切じゃないのだろうか。
「遠くの親戚より、近くの他人」というじゃないか。

いろいろな宗教体験を得て、そのひとつに留まることをせず、日本人は日本人独特の「人の宗教」を確立した。
しかし、外国の人たちは「はじめに神ありき」だから、「はじめに人ありき」の日本人が理解できない。
滑稽だとさえ思っている。
しかし、日本人から見れば外国人こそ滑稽なのだ。

聖徳太子は、「神とか仏とか言う前に、人の和を大切にせよ」と十七条憲法の中で言っている。
それを子孫は忠実に守っている。
それでいいじゃないか。

ここ数日、感じることがあったので書いてみました。
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2001年10月21日

鼻毛、人生を語る

今日鏡を眺めていると、鼻から白い物が出ているのに気がついた。
「鼻糞か?」と思って取ろうとしたが、取れない。
よく見てみると、白い鼻毛が出ているのだ。
「おお!とうとう鼻毛までが、“白毛のしんちゃん”になったか・・・」と少し落ち込んでしまった。
たしか以前にも鼻白毛があったような気もするが、その時はあまり気にはしてなかったのだろう。
しかし、今日は変に気になる。
そこで、抜こうと思い指を持っていったのだが、あまりに短すぎてつかめない。
何度もやってみたが、だめだ。
結局、丸刃のシェーバーで剃ってしまった。
で、今は鼻のあたりがヒリヒリしている状態である。
「これから先ずっと鼻白毛と付き合っていかなければならないのか」と思うと気が重くなる。

ところで、ぼくは休みの日にはひげを剃らないようにしているが、その短く生えた無精ひげの中に、白毛を見ることがある。
しかし、この時は「無精ひげに白毛が混じると、かっこよく見えるのう」などと思い、逆に喜んでいる。

最近は頭のほうもそうだ。
2,3年程前までは嫌だったのだが、今では「おっ、わりと白髪が似合っとるやん」と一人悦に入ることもある。
この白髪のおかげで、人にインパクトを与えられるし、“しろげしんた”というハンドルネームも思いついたし、白髪様様の今日この頃である。

ぼくの眉毛は真っ黒である。
「頭は白いのに、どうして眉毛は黒いのか?」とよく言われる。
4、50代で白髪頭の人で、眉毛が白い人見たことありますか?
ぼくは見たことはない。
そこまでいっている人は、もう60代後半だろう。
だけど、眉毛が白くなったら・・・。考えるなあ。

それはそうと鼻白毛の奴。
何も自慢材料にならんやないか。
かっこよくも何もない。
人の見世物になるのがおちだ。
3本もまとめて同じ場所に生えやがって!!
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2001年10月26日

メールが溜まりすぎている。
メルマガをたくさんとっているが、ほとんどが未開封になっている。
今日はちょっと読んでやろうということで、とりあえずジャンル別に振り分けた。
自動振り分けのルール設定をしてないので、かなり手間取ったが、何とか読みたいものだけは振り分けを終わらせた。
その作業の最中、ふと思ったことがある。
人間の気持ちというものも、このフォルダのように振り分けられている、ということだった。
例えば、誉められたら「嬉しい」というフォルダに収められ、けなされたら「悔しい」というフォルダに振り分けられる、ということだ。
さらにそのフォルダの中の、その人の経験で作った「新しいフォルダ」に振り分けられる。
「嬉しい」→「喜び」→「木に登る」とか、「悔しい」→「怒り」→「やけ食い」などと細分化されていく。
人間の心というものは、難しく出来ているらしいが、突き詰めたらメールの振り分けと同じようなものだろう。

ところで、メールの「受信トレイ」にあたるものは、「苦」であろう。
仏教では、「喜怒哀楽」すべてが「苦」の所産だと教える。
般若心経の中にも「生老病死の苦」という言葉が出てくるが、宗教というのはこの「苦」の対策なんですね。
人間、この「苦」というものがなければ、宗教なんかは必要ない。「苦」がなければ、人は安穏として生きていけるのだから。
さらに、この「苦」の根源にあるのが、「嫌」というものである。
つまり、仕事が「嫌」だから「苦」になり、死ぬのが「嫌」だから「苦」になる、ということである。
この「嫌」がなかったら「苦」というものは存在しなくなる。
どうにかしてこの「嫌」をなくしたいものである。
先ほどのメールではないが、この「嫌」を自動的に削除する方法はないものだろうか?
そこから宗教というものが誕生したのだと思うのだが、先人はその方法に苦心してきた。
東洋人は、禅や念仏という手段を用いた。
座禅を組み、この「嫌」を徹底的に追い出したり、念仏を唱え、この「嫌」を思い出さないようにしたり、と自分自身との格闘に取り組んだ。
一方西洋人は、「嫌」は自分の中にあるものではなく、「嫌」という対象物があると捉えている。
「嫌」な相手は神の名のもとで徹底的に攻撃するとか、「嫌」な病気があれば徹底的に切りとるとかいうように、対象物との格闘に取り組んだ。
つまり「嫌」を削除するために、「嫌」を構成している対象物を破壊する道を選んだのだ。
自然と共存する東洋人と、自然を征服する西洋人との差も、ここにあるのだと思う。

そこで思うのだが、近代の西洋人の戦争というのは「嫌」狩りだったのだろう。
この辺が、日本の近代戦争と異なるところだ。
平和仮面たちは、大東亜戦争を「侵略戦争」と呼ぶが、これもアメリカが日本を「嫌」者にした結果である。
日本としては、あくまでもアメリカを「友好」というフォルダに入れたかったのである。しかし、執拗に日本を「嫌」者扱いにするアメリカに、とうとう日本もアメリカを「嫌」というフォルダに入れてしまった。

それにしても、最近は「嫌」が多くなった。
座禅組むのは疲れるし、念仏唱えるのは面倒だ。
「嫌」→「削除」といきたいが、そううまくはいかない。
「嫌」→「酒」→「寝る」→「削除」、これでいこう。
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2001年10月28日

輪廻転生を考える

昨日、うちのパートさんと話していてちょっと驚いたことがある。
そのパートさんの次女は、なんと生まれた時の記憶を持っているらしく、その時、その病院に、誰と誰がいたということを言い当てるというのだ。
前世の記憶を持っている人がいるということは聞いたことがあるが、生まれた時の記憶を持っているというのを聞いたのは初めてだ。
それを今でも覚えているとは、すごい記憶力である。たしか今高校生だったと思うが。

ところで、以前ここで前世の記憶を語ったことがあるが、ぼくは輪廻転生を信じている。
前世に働いていたと思われる工場の風景や、花街の風景の記憶が時折蘇ることがある。不思議とセピア色した記憶で、なんとなくかび臭い。
映画などで昔の看護婦の看護帽を見たり、赤十字のマークを見たりすると恐怖を感じるのも、前世の記憶だろう。

最近この輪廻転生について、「本当に未来に生まれ変わることなんだろうか?」と疑いを抱くようになった。
霊の世界には時間というものがないと聞くが、もしかしたら今の人生が終わったら、また同じ人となって同じ時代に生き直すのではないだろうか。(ぼくの例で言えば、平成○○年に死んで、また昭和32年に生まれるということだ)
つまり、何度も何度も同じ人生を繰り返させる、ということである。
何のためにそんなことをするのか?
その人を霊的に完成させるためである。
前の人生で経験した様々な出来事を、潜在意識の中に埋め込んで、また同じ人として同じ時代に送り出し、前の人生の修正をさせる。
こうして、一歩一歩、霊の完成に近づかせていく。

もしそうであれば、「運のいい人」の説明も簡単につく。
「運のいい人」というのは、何度も同じ世に生まれ変わり、前世を充分に記憶している人のことだ。
前世の失敗を把握しているので、今生では失敗の方向に進まない。
だから成功するのだ。
「ああ、この場面は前回失敗した場面だ。あの時はこちらに行って失敗したから、今回は逆に行ってみよう」と前回と逆の行動をとり成功に至る。
予知能力を持った人というのも、前世の記憶を持った人だということになる。
すでに体験した将来のことを語っているだけに過ぎない。
ということは、予知能力者は別に超能力者ではなく、ただ人並み以上に記憶力が優れている人ということになる。

しかし、そうだとしたら面白くないなあ。
ぼくは22世紀を体験できないことになる。
“しろげしんた”として、永遠に20世紀と21世紀を往ったり来たりするだけなんだから。
ああ、ドラえもんに会いたーい!
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2001年11月05日

幸せの行方

「はー」とため息をつくと、「幸せが逃げるよ」とよく言われる。
一理あるが、さて、その幸せはどこに逃げるんだろうか?
そしてその幸せを取り戻す方法はあるんだろうか?

幸せとはその人の心の持ちようだという。
「貧乏であっても幸せと思っている人は幸せだし、金持ちであっても不幸せと思っている人は不幸せだ」
幸せを語るときに、よく引き合いに出される喩えだ。
だから「物事をネガティブに捉えずに、ポジティブに考えましょう」という無責任な考えもここから出てくる。
しかし、ぼくの経験から言わせてもらえば、それは不幸せなことなんです。
そういう風に自分の心を縛って、無理矢理ポジティブに考えようとすることが、幸せだと言えるんだろうか?

例えば人通りの多い道を歩いている時に、石につまづいてこけたとしよう。
その時「おお、おれはなんと幸せなんだ!!」と思う人がいるだろうか?
大半の人は「ちぇっ、ついてないのう。恥かいてしまった。今日は不幸な一日やのう」と思うのではないだろうか。
しかしポジティブの考え方から言えば、「これを幸せだと捉えないと」と、こけたことが幸せであるための根拠を探さなければならない。
「そういえば、こけた場所のちょっと先に犬の糞が落ちていたなあ。こけなかったら気がつかんで踏んでいただろう。おれはなんと幸せなんだ!」とか、
「今日こけたということは、次からここを通る時は用心して歩くだろうからこけなくてすむ。なんとおれは幸せなんだ!!」とか、
「おっ、今日のこけ方は決まっていたぞ。おそらく見ていた人も『かっこいい』と思っただろう。うーん、なんといい日だ」などと、「ちぇっ、ついてないのう」の何十倍のことを考えなければならなくなる。

しかも、この幸せに考えようとする癖をつけてしまうと、万事にこの考え方をしなければ気がすまなくなる。
この考え方、つまり「幸せの言い訳」である。
他人から、「変な言い訳するねえ」「回りくどい人やねえ」「素直さが足りんねえ」「いつもヘラヘラ笑いよるねえ」などと言われ変人扱いされてしまう。
そんな陰口を叩かれても、なお「おお、おれは陰口を叩かれている。なんと幸せなんだ!!」と思おうとする。
いや、そう思わないと何か落ち着かなくなってしまう。
ここまでくれば、立派な病気です。
これを不幸と言わずに、何を不幸と言うのだ!?
心の持ちようだの何だの言うが、不幸なものは不幸です!

さて、冒頭の「ため息をつくと、幸せが逃げる」というのは、「『ため息をつくと幸せが逃げる』と思うことが、不幸せ」ということだ。
「あ、ため息ついた。どうしよう?」と思うより、そのことに触れずに歌でもうたっていたほうが賢明である。
幸せはどこに逃げるのか?
― はい、あなたが「幸せが逃げる」と思っているところに逃げます。
  つまり意識がそこに移行するだけの話です。
取り戻す方法は?
― はい、忘れることです。
 忘れることが一番幸せです。
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2001年11月07日

いくら善意から出た行動でも、間の取り方がまずいと怒りを買うことがある。
例えば贈り物などを届けてやっても、相手が出勤前だったり、夜遅かったりした場合、間違いなく相手は気分を害する。
「すいませんねえ、わざわざこんな時間に持ってきてもらって。別の日でもよかったのに」と言いながらも、顔にははっきり「不愉快だ。常識を知れ!」と書いてある。
ちょっとひねくれた人なら、「おれを怒らせるために、わざわざこの時間を選んで来たんじゃないのか?」と疑うだろう。

以前、ぼくの家ではF薬品という会社の置き薬を置いていたのだが、そこのセールスはいつも午前9時前、つまりぼくの出勤直前に来ていた。
いつもぼくは、「すいません。出勤前なので、また別の時間に来てもらえませんか?」と断っていたが、再三この時間に来るので、最後にはぼくも切れて「いいかげんにせ!この時間には来るなと言うとったやろうが!もう二度と取引せんけ、置いとる薬全部持って帰れ!!」と怒鳴りつけた。
相手は初めて、「この時間に来てはいけなかったんだ」と気づいたようで、何度も頭を下げ詫びを入れていたが、ぼくは受付けず、薬を全部持って帰らせた。
いくら間抜けな人間でも、二度同じことを言われたらわかりそうなものである。
つまり彼は、ぼくに対する間を外したのである。

営業や販売にとって、この間の取り方というものが、最も重要な要素となる。
販売技術や商品知識も大切だろう。価格も大切だろう。もちろん人柄も大切だろう。しかし、それだけでは物は売れない。
なぜ売れないか? そう、間の取り方が悪いからだ。
営業や販売の達人という人は、この間をうまく使いこなしている。

22歳の頃、ぼくはNという店で家電販売のアルバイトをやっていた。
その店に、Mさんというぼくより3つ年上の人がいた。
そのMさんの、間の取り方というのが、実に絶妙だった。この人にかかったら売れないものはないと言っても過言ではなかった。

ぼくがこの店に入ったとき、上司や先輩から「物を売るためには、大きな声でいらっしゃいませと言うことが大切だ」と教えられた。
そしてぼくはお客が来ると、教えられたとおりに闇雲に大きな声で「いらっしゃいませ」を連発した。
しかし、全然売れない。
入って2週間ほど経って、上司から「もう慣れたやろ。少しは売れるようになったかね?」と聞かれた。
「いや、大きな声で『いらっしゃいませ』を連発しているんですけど、まったく売れなくて」とぼくは答えた。
「そうか。でも焦らんでいい。そのうち売れるようになる」と慰められた。
しかしその後も売上は思うように伸びなかった。
最初は慰めてくれていた上司も、だんだんぼくを見る目つきが変わっていき、ついには「しんたはだめだ。もう首にしろ」というようになった。
まあ、首にはならなかったが、「しばらく他の売場に行って勉強して来い」といわれ、とうとう配置換えさせられた。
ぼくとしては、言われた通りにやって売れないのだから面白くない。
ふてくされて仕事をやっていた。
いいかげんに、大声で「いらっしゃいませ」を繰り返すだけになっていた。

ぼくがMさんを知ったのは、そういう時だった。
Mさんはぼくが新しく配置された売場の隣の売場にいた。
いつも売上はナンバーワンだった。
「Mさんとどこが違うのだろう?」と思ったぼくは、ある日Mさんをずっと観察した。
「え?」と思った。
Mさんは全然「いらっしゃいませ」と言ってない。
いや、言ってはいるのだが、お客さんに聞こえる程度で、こちらには聞こえないのだ。
それも、お客が来てからすぐには言ってない。
お客が一通り商品を見終わり、次に立ち止まったところを見計らって「いらっしゃいませ」と声をかけている。
それまでMさんは他の仕事などをして、お客に対してプレッシャーを与えないようにしているのだ。
商品説明もだらだらやっていない。
要点だけを説明し、あとはお客の質問に答えているだけだ。
「いらっしゃいませ」から10分程して、20万円の商品が売れた。
次に来たお客には、比較的大きな声で「いらっしゃいませ」を言っている。
このお客も、数分で15万円の商品を買った。
その後も何人か接客していたが、一人一人応対が違う。
しかも、接客した人すべてが買っているのだ。
お客の性格を瞬時に見分け、それの応じて接客方法を変えて行く。
思わず「すごい!これぞプロだ」と唸ってしまった。

それからというものMさんの真似をして接客した。
だんだん売上は伸びて行き、人並みの売上を作れるようになった。
接客に自信を得たぼくは、その後20年以上この仕事を続けている。
しかし、いまだにMさんの間の取り方の域には達してない。
彼は間の取り方の天才だった。
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2001年11月15日

運命を語る

ぼくは姓名判断をやっているせいか、噂を聞きつけた人がよく「私の名前を見て下さい」とやってくる。
「子供の名前を付けて下さい」と言ってくる人もいる。
中には「離婚して自立したいのだけど、そういう名前はありませんか?」という人までやってくる。
ぼくは基本的に、名前を見ることは拒まない主義なので、時間があれば見てあげることにしている。

ぼくの姓名判断は、本に載っているような「運命」や「運勢」を鑑定するものではなく、その名前に現れる「性格」を判断するものである。
姓名判断を始めたきっかけが人間観察だったから、そういうふうに流れたのだと思う。
一口に性格といっても、考え方の性格・行動の性格・自分で感じている性格・他人から見た性格などいろいろある。
それらを一つ一つ、指摘していく。
まあ、だいたい当たっているようだ。
しかし、必ず最後に受ける質問がある。
「私はどういう運命をたどりますか?」または「私の運勢はどうですか?」というものだ。
先にも言ったように、ぼくの姓名判断は性格を見るもので、運命を見るものではないので、答えるのにいつも窮している。
姓名判断の本に載っているように答えれば楽なのだろうが、同じ画数でも違う人生をたどるのだから、そんな無責任なことは言えない。
例えば、「総画数24画の人は大金持ちになる運命だ」と本では書いているのだが、この画数で多額の借金を背負ったまま死んだ人も実際いるので、「あなたは大金持ちになりますよ」などと不確定なことを言うことは出来ない。
そこでぼくは、ぼくの姓名判断の中の「運命」というものを考えてみた。
十数年かかって出した答が「運命とは人生の性格である」だった。
つまり上の24画の例で言えば、「あなたの人生は、お金に左右されやすい性格だと言えます」である。

さて、上の運命の結論は姓名判断の結論であって、ぼくは別に運命を否定しているわけではない。
逆に「運命を否定する人」を否定している。
よくいるでしょう?「私は運命なんて信じません。運命は自分で切り開くものと思ってますから」と言う人が。
しかしそれは視野の狭い人が言うことだ。
もっと広い視野に立てば、そんな間抜けなことは言えないはずだ。
そういう人がいたら、ぼくはいつもこう答える。
「はい、よくわかりました。あなたの運命は『運命は自分で切り開くこと』と思う運命です。そう答えるぼくも、そう答える運命なのです」と。
まあ、こう言ってもその人は視野の狭い間抜けな人だから納得はしないのだが。
ぼくは「これからどんな運命が待っているのか?」と考えるより、「今どういう運命をたどっているのか?」と考えるほうが好きだ。
今たどっている運命。
はい、もう午前1時を過ぎたのに、まだ日記が出来ずに「ヒーヒー」言っている運命です。
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2001年12月06日

夢の話

それにしても眠たい。
あまりに眠たいので、ちょっと寝てから日記を書こうと思って、さっき少し横になってみたのだが、やはり日記のことが気になっている。
なんと、ネタを探す夢を見たのだ。
それでもいいネタは見つからず、「今日も寝られんのう」と思っているところで目が覚めてしまった。
結局睡眠時間は15分間だった。
今日も寝られんのう・・・。

今日ラジオで夢の話をしていた。
ある人が「砂浜にお金がたくさん落ちている夢とか、龍が昇る夢を見た時、家を建てたりいろいろいいことが重なった。逆に落ちる夢などを見た時には離婚したりしてあまりいいことがなかった」と話していた。
そんなもんか。
ぼくはそんなに人生を暗示するような夢を見たことがないので、何かうらやましく思った。
むかし、家に生えていた木が突然龍に化けた夢を見たことがある。
夢の中で「これは縁起がいい」と思い、龍のうろこをはぎ取って食べた。が、いいことなんて一つもなかった。

その夢を見たのは、長い浪人生活の真っ最中だった。
その時期はいいことが全然なかったので、かなり縁起や占いに頼っていた部分もあった。
夢判断という本に「いいことがある」と書かれた夢を見た時は、さらに「奇門遁甲」という占いで吉の方角を占い、出かけたりした。
しかし、それが吉と出たことはなかった。

結局夢というのは、その時一番気にしていることを視覚化したものだと思う。
例えば、陽が差し込んで「何か暑いなあ」と無意識に思っていると、“暑い”→“夏”→“海”という一連の連想で、「よく晴れた夏の日に港を歩いている」夢を見たりするのだ。
さらにその夢を見ている最中に、外から子供たちの声が聞こえてきたりすれば、この夢が海水浴のシーンに急に飛んだりするのだろう。
まあ、ぼくの見る夢というのは、だいたいこんなものだ。
先の龍の夢だって、その当時三国志に凝っていたから見ただけじゃないだろうか。
諸葛孔明は「臥龍」だったから。

ぼくが見るような夢もあれば、最初に書いたような夢もある。
また、予知夢というのもある。
以前ある本に、海で遭難した人の奥さんの話が載っていた。
それは、その奥さんが見たという夢の話だった。
その夢の中の会話が紹介されていたが、
「あなた、いつ帰ってくるの?」
「○月×日だよ」
はたして、その○月×日にそのご主人が見つかったという。
結構最近の話なので、覚えている人もいると思うが、ぼくはこれを読んだ時、「やはり予知夢というのはあるんだ」と感動したものだった。
こういう方面に憧れのあるぼくは、その記事を読んでから1ヶ月間ほど「予知夢を見るぞ!」と意気込んで寝ていた。
結局予知夢を見ることは出来なかったが、その間、夢を見ることは出来た。
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2002年02月06日

死の話

先日、海老一染太郎が亡くなった。
よく笑点や正月番組で見ていたが、目をひん剥いて「おめでとうございます」と言うたびに、「この人きっと、口にいっぱい唾を溜めているんだろうな」と思っていた。
しかし、この芸一本で生活していたんだから、凄いと言わざるを得ない。
昨日は弟の染之助が、「おめでとうございます」で送り出したとのことだった。
もうあの顔が見れないのかと思うと、少し寂しい気がする。

ぼくが人の死で一番ショックを受けたのは、手塚治虫だった。
何か少年時代が終わったようで、辛い思いがしたものだ。
その晩、ぼくは「鉄腕アトム」「マグマ大使」「W3」「悟空の大冒険」「ビッグX」「リボンの騎士」といった、一連の手塚アニメの主題歌を聴いた。
今でもそうだが、手塚アニメの主題歌を聴くと、勇気とやさしさが出てくるから不思議である。
その最中、『ところで、「どろろ」の最終回はどうなったんだろう?』という疑問が頭の中をよぎった。
その翌日、さっそく本屋に「どろろ」を買いに行った。
その疑問は「どろろは女の子だった」で解決したのだが、一緒に買った手塚作品の面白さから、狂ったような手塚作品買い漁りが始まった。
2ヶ月ほどそれは続いたが、その間手塚作品に5万円ほど費やした。
そして、あの名作「シュマリ」に出会う。
容姿といい、性格といい、ぼくによく似ている。
「手塚先生はおれをモデルにしたんじゃないか?」と思ったほどだった。
これも手塚先生の死が引き合わせてくれたんだろう。
偉大な人だった。

さて、死んだはずの人が本当は生きていた、という噂はいつの世にもある。
古くはイエス・キリスト。
彼は、聖書では復活したことになっている。
ここにもう一つ、イエスに関する記録がある。
「実はあの時十字架にかけられたのは弟のほうで、イエスは脱出し日本に来ていた。
そして108歳まで生きた。
カゴメカゴメはその時イエス・キリストが教えたものである」というものである。
竹内文書に出てくる有名な話である。
これは、後の源義経=チンギスハーン伝説とは種類の違う説である。
義経の場合は、判官びいき的な要素が強い伝説であり、「そう考えてもおかしくない」、いや「そうであって欲しい」という種類のものである。
一方のイエス・キリストは、「そうであって欲しい」ではなく、「そうだったら面白い」という類のものである。
後に「だからどうなんだ?」というのが、必ず付いてくる話である。

近いところでは、東京裁判で絞首刑にされた、東条英機ほか6名。
「彼らは、連合国に殺されるようなことは一切やっていない。
それを連合国側も悟ったのか、一応絞首刑にしたように見せかけて、実はほかの場所に身柄を移していた。
死体を見破られないように、すぐさま焼かせ、粉々にして海に捨てた。
絞首刑のはずなのに棺には血が付いていた。
骨を粉々にした人は、『ブタか何かの骨のようだった』と証言している」という話。
もしこの話が嘘だとしたら、米国は永久に戦犯国になってしまう。
あのずる賢い米国が、国際法にどう照らしても無罪の人たちを簡単に処刑するようなことをするだろうか?
日本以外の法律家は、あの裁判は無効だと言っている。
もしかしたら近い将来、真実が明らかになるかもしれない。
いくら厚顔無恥の米国といえど、歴史に汚点は残したくはないはずだ。

最後に、これはぼくの憶測であるが、あの初代引田天功は生きている。
どう考えても、あの死はおかしい。
前から容態が悪いなんて聞いてなかった。
突然だった。
「引田天功死す」の報道を聞いた時、ぼくは「これも彼一流のマジックじゃないか」と思ったものである。
「1年ほどで出てくるんじゃないか?」と思ったが、それではあまり芸がないので、「これは10年、20年先になるんじゃないか?」と思うようになった。
その後、「2代目が死んだ後に復活するんじゃないか?」と思い、最近では「いや、2代目を見ていると、もしかしたらあのテロ国家Kに拉致されているんじゃないのか?」と思うようになった。
いずれにしても、ぼくの中では、初代引田天功は生きている。
posted by 新谷勝老 at 21:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | たまに人生を語る | 編集

2002年02月09日

願い

帰りのラジオで、ミスチルの「君が好き」という歌が流れていた。
ぼくにとって、ミスチルというのはどうでもいい存在なんだけど、この歌の最初の歌詞に引っかかった。
「・・・願いが一つ叶うとしたら・・・♪」
そういえば小さい頃、「もしぼくの前に、魔法使いのおばあさんが現れて、『お前の願いを一つだけかなえてあげる』と言ったらなんと答えようか」と真剣に考えていた。
友達にそのことを聞くと、3人に1人の割合で「プロ野球の選手にしてもらう」という答えが返ってきた。
「で、お前はどうなんだ?」と聞かれると、いつも答えに窮していた。
漫画家に憧れた時期もあるが、絵が下手だったので早々と諦めている。
お金とか地位とかに憧れたことはなく、かと言って平凡な人生を望んだわけでもなかった。

中学や高校に行ってもそのことを考えることがあった。
その時は「ミュージシャンになりたい」という夢があったので、「もし魔法使いのおばあさんが現れたらそう言おう」と心に決めていた。
しかし、魔法使いのおばあさんは、なかなかぼくの前に現れない。
そしてそのまま社会に出てしまった。
20代、30代と歳を重ねていくうちに、「ミュージシャンになりたい」という夢もだんだんと薄れていった。

その頃だった。
「魔法使いのおばあさんへの願いはこれがいい」と思いついたのは。
それは、「すべての願いが叶う人にしてもらう」というものだった。
これほど重宝な願いはない。
魔法使いのおばあさんに対する願いは一つだけだが、これでぼくはすべての願いが叶うようになるわけだから。
「これでいつ魔法使いのおばあさんが現れても大丈夫だ」と安心したぼくは、気長に魔法使いのおばあさんを待つことにした。

しかしねえ、魔法使いのおばあさんなんて、そうそうぼくたちの前に現れてくれんのですよ。
そのせいか、気がつくと「魔法使いのおばあさんに会えますように」という願いに変わっている。
こんなこと願っていると、「お前の願いを叶えたぞ」と魔法使いのおばあさんが現れてしまう。
ハッと気づいて、「いかんいかん。これは魔法使いのおばあさんの策略だ。あまりにぼくの願いが壮大なものだから、ばあさんこの願いにすりかえたな。危うく引っかかるところだった」と、「すべての願いが叶う人」に願いを置き換える。
それから、ぼくとばあさんの駆け引きが始まった。
「ばあさん、そろそろいいやろ」と心の中で声をかけると、「まだまだ」と言う答が返ってくる。
ばあさんが現れようとする時には、決まって「ばあさんに会いたい」という願いにすりかえられるので、ぼくは願いを置き換える。
するとばあさんは、現れるのをやめる。
こんなことの繰り返しである。
しかし、ぼくは諦めない。
いつかばあさんを引っ張り出してやる。
ああ、いかん!
これも願いになっている。
ということは、そろそろばあさんが現れるのか?
騙されたふりして待ってみるか。
posted by 新谷勝老 at 21:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | たまに人生を語る | 編集


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