2001年03月20日

暇だったので本屋に行った

今日本屋で立ち読みしていたら、面白いことが書いてあった。

ひとつは山頭火の句集だった。
「ちんぽこも おそそも湧いて あふれる湯」
という句があった。
どうやら、山口市の湯田温泉のことを詠んだ句らしい。
湯田温泉にはこの句碑があるとのこと。
見てみたいものだ。
それにしても、句碑にこんな句を選ぶなんて…。
よっぽど、湯田温泉に関する句が少なかったのだろう。

もうひとつは中原中也のことを書いた本だった。
中也は30歳で亡くなっているが、なんと彼の葬儀の喪主は、当時1歳の次男愛雅だった。
今の常識からすれば、妻の孝子になるだろう。
戦前はそういう慣習になっていたのだろうか?
まさか1歳の子が喪主挨拶をしたとは考えられない。
そういえば、中也も湯田温泉の出身だった。
今度行ってみようかな。
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2001年06月06日

白土三平

最近、白土三平にハマっている。
ずいぶん前に買った本を読み返しているのだが、いつ読んでも新鮮である。
決して画は見やすいとは言わない。
「ゴルゴ13」や「ルパン3世」などの劇画を読んだ人ならわかると思うが、ああいう一連の手法なのである。
画に影を多用しているために全体に暗く、人物もわりと雑に書いている。さらに登場人物が多すぎて、どういう人間関係だったのか、敵だったのか味方だったのか、前に遡らないとわからないところが多々ある。
「カムイ伝」などはその代表であろう。
ぼくのような少年マンガ(極端に登場人物が少ない)を読みなれた人間には、読みづらい作品である。
とはいえ、そういう中にも読みやすいものもある。
例えば「サスケ」は子供向けのマンガだったせいか、かなり読みやすい。 
というより、変に子供受けするように書いている。「絵本でもあるまいし」と思わせるところが、ところどころに見受けられる。

「そんなに不満があるなら、読まんかったらいいのに」と思う人もいるだろうが、白土さんの作品はそんな細かい不満を吹き飛ばしてしまうほどの魅力をぼくは感じている。
それはおそらく、ぼくが持っている忍者・忍術への憧れだろう。
幼い頃から小学生の頃まで、足が速い人というのはぼくたちの間ではヒーローだった。 忍者はその象徴だろう。
ちょうど忍者ブームというのも重なって、ぼくにとって忍者というのは永遠のヒーローになった。
「隠密剣士」「忍者部隊月光」「伊賀の影丸」「風のフジ丸(原作は白土三平)」等、みんなこの時代に流行ったものである。

幼い頃の郷愁か、永遠の憧れか、白土作品はそういうものを呼び覚ましてくれる。
当分このマイブームは続くことだろう。
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2001年06月08日

サンカ

相変わらず白土三平の毎日だが、実に興味深いことが書いてある。
彼の忍者(例えばワタリ)は、きこり,木地師,マタギなど、いわゆるサンカの代表として描かれているのだ。
サンカというのは最近聞かなくなった名前だが、簡単に言えば戸籍を持たず固定の居住地を持たない人たちのことで、遡れば天皇家に繋がる人たちだという。
戦国武将の蜂須賀小六もサンカの出だと、何かの本で読んだことがある。
サンカについては、五木寛之の「風の王国」や佐治芳彦の「謎の木地師」等に詳しく書かれているので、興味を持った方は読んでみて下さい。
実は、ぼくは昔からサンカに憧れを抱いている。
サンカは「山の民」「漂泊の民」などといわれているが、その言葉にすごく憧れるのだ。
何者にも縛られない、自由さをその言葉から連想する。
権力に縛られないということはどれだけ幸せなことか。
それだけ自分のもつ責任は重大になる。誰も助けてはくれない。
とにかく自分が動かないことには生活が成り立たないが、外部から与えられる精神的な重圧に比べると、どれだけ楽だろう。
「お前は甘い!」と言われそうだが、苦痛も結局は心が生み出すものじゃないですか。
でもそう考えると、権力も気にしなかったら苦にはならないだろうが。
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2001年06月09日

総括「白土三平」

白土さんの作品は、そのほとんどが社会主義思想で貫かれている。
確かに正しいんです。
言いたいことも充分にわかる。
表向きのきれい事が、70年安保当時、若者に受け入れられたのもよくわかる。
でも、社会はきれい事で成り立たない。
ソ連の例でもわかるように、表向きの平等は、一部の金持ちと多数の怠け者を作ってしまった。
やることやっても見返りがないんです。
国民もやりきれなかっただろう。
アフガニスタン解放に燃えるソ連兵が、その国で目にしたものは、自分達よりも裕福な生活をしている国民の姿だったという。
これでは、やる気も起きないだろう。
それと、社会主義国家に共通するのは、密告社会いわゆる「チクリ国家」であるということ。
いつも警戒しながら人と付き合うことは、悲惨なことである。
猜疑心を持って近所づきあいして、何が楽しかろう。

社会主義以前の歴史はすべて否定し、暗黒の社会だったと一方的に決め付け、「昔に比べれば、今は何と幸せな社会か」と吹聴する。
これは明治政府が徳川幕府を否定したのと同じ手法である。
さらに他国の情報は一切見せず、自国が一番だと言う。
例えば、K国のラジオは自国の放送しか聴けないように、チューニングダイヤルをハンダで固定しているという。

決して社会主義が悪いというのではないが、歴史は悪しき社会主義像を映し出した。
白土さんが、もし今作品を作るとしたら、その根底に社会主義を入れるのだろうか?
それを知りたいものである。
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2002年01月25日

本のことを語り出すときりがない

昨日の日記を書き終えたのが、今日の午前7時過ぎ、その後レスなどをやって、寝たのは8時を過ぎていた。
午後2時に起きようと思っていたのだが、目が覚めたのは午前11時だった。
窓から日が差し込むと、習性なのか、すぐ目が覚めてしまう。
きっと人間という動物は、日が昇ってからは熟睡できないように出来ているんだろう。

さて、今日は相変わらず寒かったものの、久々に青空が広がっていた。
目が覚めてから、すぐに身支度をして、灯油を買いに行った。
年末に買った灯油6缶が、ついに底をついたのである。
先日友人から「あの店、年明けてから、灯油の値段が上がとったよ」と聞いていたので、後日値段が下がることもあると思い、今回は3缶だけ買うことにした。
ところが店に行ってみると、値段は前回と同じ1缶(18リットル)498円であった。
これなら6缶にしておいたほうがよかったかも。
後日値段が上がることもあるかもしれないし。

灯油を買って帰り、昼食を取ったあと、給料日後恒例になっている黒崎の銀行回りに行った。
「しんたは、いつも『銀行に行った』と日記に書いているが、いったい何をしに行くんだろう?」と思う方もおられるだろう。
ストッキングを頭からかぶり、モデルガンを片手に銀行に行く、わけではないのでご安心を。
実は、預金通帳を片手に、各支払いの振り分けをしに行くのだ。
光熱費の支払いやクレジットの返済といった主だったものは、メインバンクでの引き落としにしているので、面倒なことはないのだが、ごく一部の支払いを他の銀行でやっているために、毎月の行事になってしまったのだ。
まあ、インターネットバンキングをやっているので、わざわざ銀行に足を運ぶ必要はないのであるが、銀行回りの後のお楽しみがあるので、これだけはやめるわけはいかない。

いつものようにJRで黒崎まで行き、銀行4行を回り、その後のお楽しみである井筒屋ブックセンターに行った。
普通の本屋なら会社帰りにでも行けるのであるが、ブックセンターはデパートの一部であるから、午後8時までしか開いていない。
とにかくここは、近郊の他の本屋と比べると取り扱いの本の量がかなり多い。
専門書や各社の文庫本を扱っているというのも魅力の一つである。
つまり、変な本ばかり探しているぼくにとって、うってつけの店なのである。

ぼくと本屋との付き合いは長い。
小学生の頃から、街に出ると、おもちゃ屋などにはわき目も振らず、本屋ばかりに行っていた。
古本屋、貸本屋など、本屋と名がつくところならどこにでも行った。
一度「○○本店」という看板の店に入って、恥をかいたこともある。
この本屋好きの性格はその後も変わらず、東京に出た時、下宿を決める第一条件に「本屋の近く」をあげたほどである。
その時は、不動産屋が紹介してくれた、高田馬場のけっこう大きな本屋の近くに決めた。
就職を街中に選んだのも、本屋が近いからである。
もちろん、今の職場の近くにも本屋がある。

ぼくが今気に入っている本は、専門書ではない。
小学館文庫である。
他の文庫と違い、内容が自分に合っているからだ。
ぼくは小説は読まないので、小説系の文庫は最初から敬遠している。
まず、店に入ると、小学館文庫のところに行く。
その後、歴史書やパソコン関係の本が置いてある2Fに行く。
だいたいこのパターンである。
しかし今日は、探している本があったので、まず3Fに行った。
3Fはコミックの売場である。
探している本というのは、チャンピオンコミックの「熱笑!!花沢高校」である。
が、古いせいかなかった。
ということは、近々福岡の「紀伊国屋」に行くことになるだろう。

しかたなく1Fの小学館文庫のある場所に行った。
一応小学館文庫を一通り見て、それから2Fに行った。
歴史書である。
これといったものがない。
しかし、数ヶ月前はあれだけ「歴史教科書」で盛り上がったコーナーが、今は鳴りを潜めている。
相変わらず「新しい歴史教科書」は小積んであったが、それに関する批判本はほとんどなかった。
やはり、ただの便乗本だったわけか。
「ああいう揚げ足取りの本を誰が買うのだろうか?」と思ってはいた。
たしかに、教科書採択に間に合わせただけの安易な本であった。
何か報告書のような薄っぺらい本で、紙も粗悪なものだった。
書いている人は左翼系の人だから、イデオロギー本であることは間違いないだろう。
しかし、時期を限定したのであるなら、国民に訴えるというのがある反面、金儲けに走ったとも考えられる。
何せ、「新しい歴史教科書」は60万部のベストセラーだったわけだから。
根性の腐った奴らだ。
そういうことを踏まえて、今日は小学館文庫の“迫りくる「全体主義」の跫音”(西尾幹二著)を買うことにした。
教科書採択の時のことがいろいろ書かれている。

さて、今日は2冊買おうと思っていたので、あと1冊を探した。
こういうとき、なかなか決まらんのですよね。
小学館文庫でほしい本は他になかった。
文庫のところをぐるっと回ってみると、「おっ!」と思う文庫があった。
気がつかなかった。あの学研が文庫を出していたのだ。
しかも「ムー」とは関係のない本ばかりである。
文庫創刊のご祝儀買いというわけではないが、ここから残りの1冊を選んだ。
「徒然草・方丈記」である。
学研文庫の古典は特長がある。
普通古典は、原文→読み下し文→語訳→訳→解説というふうになっている。
これが非常に読みにくい。
だいたい文庫本はテキストや参考書ではないので、訳のみで充分である。
例えば、フランス文学に、こういう原文から解説までの順序を踏んでいる本があるだろうか?
たしかに言い回しはいいかもしれないが、これでは意味が伝わらないし、読んで面白くない。
日本や中国の古典を訳している人のほとんどは学者なのである。
いくら権威とはいえ、こういう世俗を超越した人たちの文章を、誰が喜んでみるだろうか。
しかし、この学研文庫の古典は、そういういらんものがいっさい付いてない。
普通の読み物になっている。
そこが気に入ったのである。
今日見たところでは、学研文庫の古典はまだ5冊しか出てないようである。
これからが楽しみである。

おお、長くなりましたなあ。
本のことを語り出すときりがない。
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2002年07月01日

一冊の本

最近小説を読んでない。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んだのが一昨年だから、もう2年近く読んでいないことになる。
若い頃はいろいろな種類の小説を読んでいたが、30歳を過ぎた頃から歴史小説しか読まないようになってしまった。
面白い小説があれば、ジャンルにこだわらずに読んでみたいと思っているのだが、どうも興味が歴史物にしかいかなくなったのだ。

歴史小説は、歴史の勉強になるというのがもちろんあるが、何よりもいいのが自分がその人になりきったり、その時代の中で遊んだりすることができるという点にある。
先にあげた『坂の上の雲』でいえば、203高地を攻めた時、乃木大将は作戦ミスから何万人もの兵隊を死なせているが、自分が乃木大将なら、もっと人を死なせないようなこういう作戦をとる、などと考えていた。
また江戸が舞台の小説などを読んでいると、自分がその時代に生きているような気分になる。

こんなふうだから、読む時間もけっこうかかる。
人の倍はかかっているのかもしれない。
以前読んだ『項羽と劉邦』はたった3巻なのに2ヶ月の時間を要したものだった。
この時も、「自分が劉邦なら・・・」という読み方をやっていた。
「この時代の中国のトイレはどうなっていたんだろうか?」などと、余計なことも考えていた。

さて、ぼくが本を読み始めたそもそものきっかけは、中学生の頃に読んだ大山倍達の自叙伝に「人には一冊の本との出会いがある」というようなことが書いてあった。
大山倍達にとっての一冊の本は、吉川英治の『宮本武蔵』であったという。
それを読んだ時、「自分にとっての一冊の本とは何か?」と考えた。
しかし、当時はそんなに本を読んでいなかったので、そういう本は存在しなかった。
「じゃあこれから探してやろうじゃないか」と思い、ぼくの読書人生が始まった。
しかし、そうそう一冊の本は見つかるものではない。
小説・ビジネス書・思想書・哲学書・宗教書・マンガと、ありとあらゆる本を読んだがその答は出てこない。
読書を始めて10年ほどは、そんなことばかり意識して読書をしていた。

10年位前だったろうか、ある本を読んでいると、「人には一冊の本が備わっている」ということが書いてあった。
それを読んでハタと思った。
「そうか、今まで一冊の本を探していたけど、自分にとっての一冊の本とは一生のうちに読む全部の本のことだ」
そういえば、ぼくは本を探す時、前に読んだ本で紹介されたものや、その本に関連あるものを探している。
そう、全部繋がっているのだ。
今日読む本が、「一冊の本」の中の一部というわけだ。
そのことを悟ってから、ぼくは「一冊の本」というのにこだわらずに、読書を楽しむようになった。
しかし、ぼくの「一冊の本」というのは、実に膨大な量である。
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2002年11月30日

本の影響

ぼくはあまり人の影響は受けないのだが、本の影響は受けやすい。
したがって、その時その時に読んでいる本がわかれば、今のぼくの心境がわかるはずである。

小学2年から3年にかけて、ぼくは『おそ松くん』が好きだった。
その影響か、ぼくはその当時、いたずらばかりやっていた。
やることなすこと、すべてが赤塚ギャグだったと言ってもいい。

小学6年の頃、『いじわるばあさん』や野末陳平のナンセンス本を読んでいた。
そのせいで、ぼくはいじわる大好き人間になった。

中学1年の頃、『姿三四郎』を読んだのだ。
その影響で柔道を始めた。
柔道着を着ているだけで、気分は姿三四郎だった。

中学2年の頃、『葉隠』を読んだ。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」のくだりを読んで、いつか切腹してやろうと思い、ボールペンで切腹の真似事をやっていた。
またこの頃、『あしたのジョー』を真剣に読み始めた。
そのせいで、矢吹丈のセリフを数多く使うようになってしまった。

中学3年の頃、『空手バカ一代』を読んで、極真空手の通信教育を始めた。
しかし、お金が続かなかったので、3ヶ月でやめた。

高校1年の頃、『水滸伝』を読んで、豹子頭林冲に憧れる。
棒術でも習おうかと、武道具屋に行き棒を買うが、数ヶ月後に邪魔になったため薪にしてしまった。

予備校時代、三国志を読み、諸葛孔明に憧れる。
孔明は四柱推命や方位学に優れていたと書いていたので、さっそくそういう関係の本を買い込み勉強した。
その翌年、ぼくは仕事を探さなくてはならなくなった。
しかし、何をするのか、はっきりした目標がなかった。
そこで、例の方位学を活用することにした。
が、すべて外れだった。
おかげで、26回連続で面接に落ちるという、不名誉な記録を作ってしまった。
そのせいで、いまだに方位学を信じられないでいる。

こういう傾向は、社会に出てからも変わらなかった。

20代前半、よく人から「30歳くらいですか?」と聞かれたものだ。
その頃は、年の割に落ち着いて見えたらしい。
ちょうど、中国思想に凝っていた頃だ。

20代後半から30代前半にかけて、よく人から「哲学やってるでしょ」と言われたものだ。
その頃は、哲学者のような目をしていたらしい。
ちょうど、仏教思想に凝っていた頃だ。

30代半ば、ぼくの周りには女っ気がなかった。
いつも大勢の男がぼくを慕ってきた。
ちょうど、任侠ものに凝っていた頃だ。

今、よく人から「年の割に若いね」と言われる。
「情熱」などという言葉を口走っている。
ちょうど、少年マンガに凝っているところだ。

ぼくを知っている人がこの日記を読んだら、その日のぼくの雰囲気で、どんな本を読んでいるかがわかるだろう。
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2006年04月08日

HAPPY!

昨日、テレビで『HAPPY!』をやっていた。
10年ほど前、ぼくは毎週「ビッグコミックスピリッツ」を買っていたのだが、その際真っ先に読むマンガがこの『HAPPY!』だった。
もちろんコミックも買っていた。
それを10巻まで揃えた頃だったろうか、それまで楽しみにしていた他のマンガが次々と終わってしまい、読むマンガが『HAPPY!』だけになってしまった。
ちょうど経済的に苦しい時期だったこともあり、とりあえずスピリッツの購読はやめ、『HAPPY!』はコミックで読むことにした。

その後何巻か集めたところで、今のマンションに引っ越したわけだが、書籍類の整理がつかないまま2年ほどが過ぎた。
そのせいで『HAPPY!』を何巻まで持っているのかがわからなくなった。
本屋に行くたびに『HAPPY!』の新刊を買おうと思っていた。
しかし、ぼくは過去『サイボーグ009』『あしたのジョー』『1・2の三四郎2』などで、同じ巻を何回も買う過ちを犯している。
そういう経緯があるため、いつも買うのを躊躇してしまった。
そしていつも「整理がついてから買うことにしよう」ということになり、買うのをやめた。
その後、同じ作者(浦沢直樹)の『MONSTER』や『20世紀少年』といった作品に興味が移ってしまい、『HAPPY!』の存在は忘れてしまった。

そういう時に、昨日のドラマである。
ドラマでは5巻までの話しかなかった。
そのため、続きが見たくなり、整理のつかないまま放っておいたコミック『HAPPY!』を引っ張り出してきた。
見ると14巻までしかない。
続きを読むのはいいが、途中で終わってしまうと、フラストレーションがたまるばかりである。

そこで、ネットで続きを購入しようと、書店サイトなどを見てみた。
ところが、ぼくが集めていたビッグコミック版の『HAPPY!』はすでに絶版となっていた。
その後『完全版』という形で発売されているようだが、ビッグコミック版が全23巻なのに対し、完全版は全15巻である。
これでは、何巻目からが15巻以降かがわからない。
しかも、その完全版でさえいくつかの巻が「在庫入荷予定なし」という状況なのである。

これは困った。
古本を買うという手もあるのだが、過去にぼくは、破れていたり、ページ落ちしていたり、ボールペンで落書きしている本をつかまされた経験を何度も持っている。
それゆえ、古本は買わないようにしているのだ。

とはいえ、14巻までしか読めないとなると、さらにフラストレーションはたまるだろう。
ここは昨日のドラマを見た人の反応を期待するしかない。
もし「原作を読みたい」という声が上がったら、出版社も復刻を検討するだろう。
それまで待つことにしようかなあ…。
しかし、そうなると、全巻一斉に発売することはないだろう。
復刻版のお決まりである、一ヶ月置きに2巻ずつ発売とかになるのは目に見えている。

やはり、古本に手を出すしか方法はないのか?
明日、近くのブックオフにでも行ってみるか。
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2006年04月09日

『HAPPY!』を探す(前)

朝起きてから、ずっと『HAPPY!』を読んでいたのだが、昼前に手持ちの14巻までを読み終えてしまった。
そこまで読んでしまうと、どうしても続きを読んでみたくなる。
しかし、昨日書いたとおりで、15巻から23巻までは持っていない。
しかも残念なことに、すでにそのコミックは絶版になっている。
ということで、古本でもいいから『HAPPY!』15巻から23巻までを手に入れようと思うに至った。

さっそく電話帳で区内にある古本屋を調べたが、そこにあるすべてを半日で回ることは出来ない。
ということで、「ブック××」という名の店だけをピックアップして回ることにした。

最初に行った店で、まず15巻と17巻の2冊を見つけた。
「これは幸先がいい」と思い次の店に移動すると、そこには18巻と19巻の2冊があった。
3軒目はだめだったものの、4軒目で22巻をゲット。

ピックアップした店は全部で8軒である。
残り4軒で4冊見つければいいわけだ。
が、そうは簡単にいかなかった。
次に行った店には、残りの巻どころか『HAPPY!』すらなかった。
6軒目、『HAPPY!』はあったのだが、10巻までだった。
7軒目は1巻から3巻までしかなかった。

残っているのは、今日ピックアップした最後の店である。
もしそこになければ、昔ながらの古書店で探すことになるのだが、そういう店ではコミックの扱いが乱雑きわまりない。
ラベラーを持っていないのか、決まって裏表紙あたりにボールペンやエンピツで「¥100??」などと書かれていたりする。
それが実に汚らしい。
セットものは紐できつく縛って、店頭に置かれていたりするものだ。
また、黄ばんでいたり、虫が食っていたり、破れていたり、中には異臭すらするのさえある。
だから、そういう店は出来たら避けたい。

そうなると、近郊で探さなければならない。
市内なら門司や小倉といった遠い場所になるが、そういう場所は地理がよくわからない。
おそらく地図を準備しての本探しになるだろう。
それでも本が見つかれば文句はないのだが、見つからなかった時に受けるダメージはかなり大きいに違いない。
ということで、出来ることなら今日全部揃えたい。
それを願って、8軒目の店に入ったのだった。
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2006年04月10日

『HAPPY!』を探す(後)

8軒目の店、そこは前の7軒とは若干趣が違っていた。
それまでに行った7軒はコミックを中心とした本と、CDやDVDといったソフト類で構成されていたのだが、8軒目に置いてあった本はコミックだけで、その他にあったのはCDやDVDではなく、何とフィギアだった。
どうもマニア御用達の店のようだ。
ぼくは一瞬戸惑った。
だが、コミックの量が半端じゃない。
そこで、そういうことには目をつむって、本を探すことにした。

『HAPPY!』はほどなく見つかった。
しかし、あったのは1巻と2巻だけだった。
「やっぱりここもだめか」
そう思って、店を出ようとした時だった。
入口付近に、コミックのセットが置いてあるのに気がついた。
他の店にもセットものはあったのだが、値段が高いので目もくれなかった。
ところが、そこのセットものは破格値で売っているのだ。
そこで念のために、探してみることにした。
すると、その一角の下の方に、『HAPPY!』という文字が見えた。
「あった!」
23巻すべて揃っているのだ。

価格を見ると、やはりそれも破格値で売っている。
しかも、本の程度は良さそうだ。
ぼくは迷った。
全巻まとめてラッピングしているから、おそらくバラ売りはしてくれないだろう。
ということは、全巻買わなければならない。
となると、それまで買ったものが無駄になる。
しかし、これを逃すと、門司や小倉といった慣れない場所に行かなければならない。
それも、残りの本があるかどうかはわからないのだ。

いちおう財布の中を覗いてみた。
『HAPPY!』を買うためにいちおう軍資金を用意していたのだが、先ほど買った5冊分をさっ引いても、全巻買えるだけの余裕はあった。
というより、それほど安いのだ。
それで決心した。
ぼくはラッピングされた本の塊を持ってレジに行った。
そして家に帰って、さっそく15巻から読み始めた。
ということで、『HAPPY!』問題は一日で解決したのだった。

ところで、今まで持っていた14巻までと、新しく買った5冊をどうするのかというと、決して売ったりはしない。
予備で持っておくつもりだ。
ぼくは本を風呂に入って読むので、たまに濡らすことがあるのだ。
他の本はともかく、『HAPPY!』は絶版ゆえに、もう手に入らないからだ。

さて、これで現在までに発売されている浦沢直樹のコミックは、すべて揃ったことになる。
あとは現在連載している『20世紀少年』と『プルートウ』のコミック続刊を、気長に待つばかりである。
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2006年11月22日

なりきる

30年前の今頃は、必死に『三国志』を読んでいた。
繰り返し繰り返し、10回は読んだと思う。
そのせいで、妙に天下人になったような気がして、大きな顔をして日々を過ごしていたような気がする。
ブルースリーの映画を見た後に、強くなったような気がするのと同じである。
ちょうど浪人中だったのだが、これがいけなかった。
「おれにはやるべき大きな仕事があるんだから、勉強なんて馬鹿らしくて出来るか」などと思ってしまったのだ。
正月までこの状態が続いた。

『三国志』を読みだしたのはその年の10月だったが、それ以前に読んでいたのが『中原中也詩集』で、こちらは8月中旬、つまりお盆から読みだした。
これまた勉強を妨げるのにはもってこいの本だった。
それを読んで中也に傾倒してしまい、中也であろうとしたのだ。
詩風を真似し、生活態度を真似した。
その年譜に「大正9年 …このころより読書欲起こり、学業を怠る」とあるのだが、それまで真似してしまったわけだ。
それから『三国志』と続いたわけだから、その間、つまりその年のお盆から翌年の正月までの約5ヶ月間、まったく勉強しなかったことになる。

正月を過ぎてようやく目が覚めて焦りだすのだが、元々学業の才能を持ち合わせていないぼくが、そんな時期から勉強を始めても、間に合うわけはない。
落ちるのも当然である。

さて、読書の方だが、現実に目が覚めてからまったく読まなかったわけではない。
勉強の合間合間に読んでいた。
だが、以前のようにそれに「なりきる」まで深く読みはしなかった。
そういう読み方になるのは、受験後に『織田信長』を読み出してからだ。
またもや天下人である。
しかも、今度は気が短いときている。
現在、ぼくには短気なところもあるのだが、それは信長になりきっていた時代の後遺症である。
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2006年11月28日

読書

ぼくはこれまであまり小説というものを読んだことがない。
一番本を読んでいた20代・30代は思想書、宗教書、ビジネス書、エッセイなどを主に読んでいた。
小説は、中学生の頃に夏目漱石、高校生の頃に遠藤周作(ユーモア小説のみ)、20代前半に歴史小説や若干のSF物を読んだくらいだ。
なぜ小説を読まなかったのかというと、人の作った物語に価値を感じなかったからである。

40代に入ると歴史書を中心に読むようになった。
学生時代に途中までしか習わなかった、近代史を完結させたかったのだ。
これが46歳頃まで続く。

その後、興味はマンガのほうに移っていった。
『20世紀少年』が発端になった。
それ以来、これまで読み逃していたものを買い集めて、何度も何度も読み返した。
人の作った物語という点からすればマンガだって同じなのだが、マンガのほうは読むのに時間がかからないし、画だけ見てもある程度内容は把握できる。
マンガにだって、人生もあり、思想もある。
画がある分、その印象は深い。

マンガを読み出してからしばらくは、歴史書も読んでいた。
だが、好きな著者の分はあらかた読んでしまったので、興味が薄れていった。
そのため、ここ2年ばかりはマンガばかり読んでいた。
こればかりは何度読んでも飽きない。
プー太郎生活のよき友となってくれていた。

ところが最近、映画やドラマを見ると、必ずといっていいほど原作が読みたくなるのだ。
それで、今まであまり読んだことのない小説を読むようになった。
最近読んだ本は、『いい女』『嫌われ松子』『地下鉄に乗って』『手紙』などである。
映画やドラマで内容は知っているものの、活字で読むと、また趣が違ってくる。
微妙に内容が変わっていたり、原作に存在しない人物がドラマには出ていたりで、そういうのを確認しながら読むのもまた楽しい。
当分、小説から離れられそうにない。

ただ、小説を読むのに、けっこう時間がかかってしまうのが難点ではある。
まあ、最初に読んだ『いい女』の時に比べると、早く読めるようにはなってはいるが、それでも1冊につき2,3日を要してしまう。
20代に歴史小説を読んでいた頃は、1日に2冊は読むことが出来たのだ。
やはり、読書にも慣れというのがあるのだろう。
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2007年05月14日

今日も『Happy!』

さて、その『Happy!』を読んでいて思ったのだが、この作者は、この作品で『あしたのジョー』を描きたかったのではないだろうか?
扱っているスポーツがテニスとボクシングという違いもあるし、何かと暗い『あしたのジョー』に比べると、『Happy!』は底抜けに明るい。
だが、どん底から這い上がっていく設定は同じだし、丹下段平を彷彿とさせるコーチがいるし、作品の中には『あしたのジョー』を思わせる場面がいくつかあるし…。
ほぼ同じ世代ということで、ついそう思ってしまう。

もしそうだとしたら、この作者は『あしたのジョー』のあの時代を象徴するような、「まっ白な灰」などという曖昧な終わり方に不満を抱いていたのではないだろうか?
だからこそ、この『Happy!』を描いたのだと思う。
つまり、この作品を使って、自分の中の『あしたのジョー』を終わらせたかったということである。
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2010年05月05日

最近読んでいる本

なぜか古典に惹かれて、現在『徒然草』を読んでいる。
言うまでもなく、古典の基礎中の基礎である。
学生時代、まともに勉強していたら、この程度の古典は原文でスラスラ読めるはずなのだが、まともでなかったぼくには、それができない。
とはいえ、訳本だと味わいがないという理由から、あえて原文を読んでいる。
これを読破(もちろん原文で)し、理解できるようになったら、次は平安時代に遡ろうと思っている。

しかし、名作といわれている古典の出だしは、実に単純だ。
posted by 新谷雅老 at 20:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本・読書 | 編集


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