2001年02月09日

MIDI

明日は早出なので、今日は早く寝ることにします。
と、いいながら午前2時にさしかかっています。
例の「湖上」を聞きながら書いているのですが、眠たくなりますね、この曲は。
次はもっと賑やかなものにしましょう。
でも、自作のMIDIを作るというのは、ぼくにとっては大変な作業なんですよ。
なんせ譜面が書けないから、一つ一つ音を探していかなくてはならない。
おまけに、パソコンの周りには楽器が一つもないし。
この「湖上」を作るのに3日を費やしてしまった。
メロディは、すでに出来ていたからよかったものの、これでメロディからはじめていたら1〜2週間はかかっていたかもしれない。
ということで、次回はいつになるかわからないけど、いちおう楽しみにしておいて下さい。
posted by 新谷雅老 at 08:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歌のおにいさん | 編集

2001年02月10日

ダウトの夢

おお、また2時に近くなった。
HPやっていると、毎日毎日やることが多くて、いつもこの時間です。
今日はトップに3日間限定のMIDIをつけました。
今回もオリジナルです。
3日たったら、また別のにするか、もう少し軽くします。
ちなみに今回の曲は「ダウトの夢」。
世の中疑うことが多すぎる。
信じることのほうのが楽なのにね。
posted by 新谷雅老 at 08:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歌のおにいさん | 編集

2001年02月17日

今日からぼくは

今日は休み。
昨日飲みに行ったメンバーと、鎮国寺に梅を見に行きました。
今が盛りでした。
梅を見ながら、ぼくはふと昔作った詩を口ずさんでいました。

 1、そこに行くと梅の匂いがするよ
   そしてぼくはもう忘れないよ
   お日様を背中に歩いていると
   誰かがぼくを押しているようだ
   ほらこの坂でも早く歩くことが出来るからね
   今日からぼくは?
   うん、難しい問題だね

 3、君が知ったことはぼくの間違いだらけ
   噂がそれを伝えたんだろう
   「人は付き合ってみなければ
    わからない」って言ってた君へ
   知ってみたいね、君の本当の言葉を
   今日からぼくは?
   うん、難しい問題だね

「今日からぼくは」という詩で、高校二年の時に作りました。
当然曲なんかもあるわけですが。
ところで、この「君」は今どうしているんだろう?
結局その後も、本当の言葉を聞くことはできなかった。
10年ほど前に、同窓会で会ったっきりです。
もう一生聞くことは出来ないのかなあ。
ぼくの人生に大きな影響を与えた一人です。
posted by 新谷雅老 at 21:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歌のおにいさん | 編集

2001年03月27日

ただいまオフ会の真最中

ただいまオフ会の真最中です。
今ラーさんが気持ちよく歌っておられます。
歳に似合わずえらく若い歌をうたっています。
よくこんな歌覚えられるなあ。

歌といえば最近ぼくは洋楽に挑戦しています。
歌詞を見て覚えると、ぎこちない英語になってしまうため、極力耳に聞こえるままに覚えていこうと思っています。
今練習しているのは、ドーンの「幸せの黄色いリボン」です。
一番はなんとか歌えるようになったのですが、二番がどうも覚えにくい。
高校の頃もっと英語の歌を歌い込んでおくんだった。
でも、あの頃は極度の英語コンプレックスに悩んでいたため、ビートルズの「イエスタデイ」を覚えるのにも苦労した。
結局、覚えられないまま今に至っています。
こんなふうだから「幸せの黄色いリボン」がいつになったら歌えるようになるか、まったくわかりません。
要は慣れることだ、と頭の中ではわかっているのですが・・・。
posted by 新谷雅老 at 13:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歌のおにいさん | 編集

2001年03月28日

昨日の続き

昨日の日記の続きです。
なぜ「幸せの黄色いリボン」かということです。
この曲が流行ったのは、今から28年前、ぼくが高校に入学した頃です。
入学した翌日、中学時代の友人が自殺するという事件がありました。
ちょうどその日、横須賀の叔父から、入学祝のラジカセが届きました。
友人の自殺という、あまりにショッキングなことで、念願のラジカセを手に入れたことにも喜ぶことはできませんでした。
暗い気持ちのまま、ラジカセを取り出し、FM福岡から流れてくる音楽を録音しました。
何気なく録音したのですが、なんとその曲は井上陽水の「傘がない」でした。
暗い気持ちが、さらに暗くなりました。
そんな気持ちのまま2週間ほど過ぎたある日、「幸せの黄色いリボン」に出会ったのです。
歌詞の内容などは知らなかった。
でも、この明るい曲調を聴いた時、それまでの暗い気持ちが払拭されていったのです。
ちょうど、ある人を好きになった頃でもあります。
そのことも、この歌が心に残るひとつの要因だと思います。
とにかく、生涯最高の想い出の歌であることには間違いありません。
そして、この歌を弾き語りで歌うことが、ぼくのひとつの夢でもあります。
と、いうことです。
posted by 新谷雅老 at 13:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歌のおにいさん | 編集

2001年04月02日

19歳の頃

明日4月3日は祖父の25回忌の法事をやります。
19歳のときだったから、あれから24年経つのか。
エッセイにも書いているが、あの年はろくな年ではなかった。
大学は落ちるし、仕方なく行こうと思った短大はつぶれるし、じいちゃんは死ぬし、バイトの面接で26回も落とされるし、本当に前半生の地獄を集約した年だった。
あの頃の精神状態は普通ではなかった。
ずっと後になって、その時代を振り返った詩がある。

 「19才の頃」

 雨が降りしきる 小さな街の中を
 いつも傘もささずに ぼくは歩いていた
 十九の頃ぼくには 何も見えなかった
 時の流れでさえも

 いつも自分を作っては 日々を送っていた
 大人びたしぐさに 人目を気にしていた
 十九の頃ぼくには 自信もなくて
 つまらぬ人の言葉に 流されていた

 あえない人の影を ぼくは追っていた
 いつか巡り会えると トランプをめくった
 奇跡をいつも夢見ては ため息ついた
 そこから 一歩も出ずに

 過ぎた日の想い出に ぼくは縛られていた
 戻らぬ日々を 築こうとして
 十九の頃ぼくには 夢もなくて
 自分の心の影に 流されていた

実際はもっとひどい状態だった。
異常でしたね。
おそらく当時の自分と対面しても、「こんなの俺じゃない!」と思うでしょうね。
そのかもし出す雰囲気だけで、毛嫌いするでしょうね。

明日の法事、24年前の自分に会ってきます。
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2001年04月05日

拓郎好き

今日、閉店後花見に行った。
最初はそうでもなかったが、時間を追うごとに寒くなって、帰る間際は震えていた。
なんといっても今日の収穫はかんべえさんと拓郎の話が出来たことだ。
周りには音楽好きは多いわりに拓郎好きというのが少なく、寂しい思いをしていたので、今日は嬉しかった。
またアコースティックギターの話なども出た。
やはり同世代と話すと楽しい。
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2001年04月09日

最近よく聴く曲

ここ2,3年、この季節になるとよくラジオでかかる歌がある。
矢野顕子の「春咲小紅」である。
もはや春の定番となったようだ。
ぼくが学生の頃、春の定番といえば、シャドウズの「春がいっぱい」だった。
FM,AM問わずよくかかっていた。
でも、最近ラジオでこの曲を聴くことはなく、代わってDJの「春といえばこの曲ですね」の声と同時に矢野顕子が登場するのだ。

この歌が流行ったのは1981年、ぼくが長い浪人生活を終え就職した頃だった。
この曲にはちょっとしたエピソードがある。
その年の春、神戸博覧会があったのだが、「春咲小紅」は実は神戸博のコマーシャルじゃないのか? という噂が流れた。
確かに、“ほーら春咲小紅、ミニミニ見に来てね”は本当は“ほーら春先神戸に、見に見に見に来てね”と聞こえる。
結局真意はわからなかったが、レコードも売れ、神戸博の入場者もまずまずだったらしい。
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2001年07月17日

日本語の歌を海外に輸出しよう

今、全米で鬼束ちひろの「イノセンス」が話題になっているそうだ。
もちろん日本語である。
某企業のCM曲として使われているらしいのだが、そのCMは業界雑誌で全米一位の広告に選ばれたらしい。
選曲に関しては一部の反対もあったようだが、選んだ人は「この曲しかない」と直感したという。
やはり歌は言葉じゃなく心なんですね。

それはそうと、日本人歌手がアメリカ進出する時は、決まって英語の歌をうたう。
そのほとんどがポップスやロックだ。
ノリが悪い日本人が、下手な英語を聴かせても本場の人に受けるはずがないじゃないか。
ピンクレディ・松田聖子・ドリカム、あれだけ金を使ったのにうまくいかなかった。
何年か前の日米野球の時、両国国歌を吉田美和が歌ったことがあるが、それを聴いてメジャーリーガー達は笑っていた。
アメリカ国歌を歌うのが日本人で、しかもあの下手な発音でやるもんだから笑ってしまったんだろう。
ドリカムの「WINTER SONG」がヒットした時思ったことがある。
「なんでこの歌がヒットするんか!?」だった。
ありふれた曲調だし、英語は下手だし、この歌がヒットチャートの上位にいるのが不思議でしょうがなかった。
きっと、ドリカムという「ブランド」だけで売れたんだろう。
もし、日本人が英語の歌で勝負しようと思ったら、宇多田ヒカル級の英語力は必要になるだろう。

とは言うものの、かつて海外で話題になった日本人ミュージシャンがいなかったわけでもない。
坂本九,サディスティック・ミカ・バンド,Y・M・O、彼らは一時的なものであるにしろ話題になったのは事実だ。
これはオリエント風の曲調やその演奏技術など、いわゆるアイデアでの成功だったように思う。
今回もこの路線のものなんだろうか?
でも、日本語の歌が話題になっているというのが嬉しい。
これからも、「ポケモン」はじめアニメの中で流すなどして、どんどん日本語の歌を世界中に送ってほしいものだ。
きっと、韓国以外は受け入れるだろう。
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2001年12月20日

クリスマスソング

毎日、毎日、毎日、クリスマスソングが鳴っている。
いささかうんざり状態である。
「他人の誕生日を賛美して、何がいったい楽しいんだろうか」と、つい愚痴をこぼしてみたくもなる。

しかし、世の中どうしてこうクリスマスソングだらけなのか。
欧米ならクリスマスといえば国民行事ということになるのだから、「みなさん、そろそろクリスマスですよ。準備は出来てますか?」という意味での、宗教的な盛り上げ効果になるのだろうが、日本の場合は少し勝手が違っている。
日本のクリスマスというのは、「クリスマス商戦」という言葉が示すとおり、すべてが商売に結びついていると言っても過言ではない。
そのためクリスマスソングにしても、売らんがための安易な歌が多い。
なぜクリスマスは恋人と過ごしたり、ふられたりしなければならないのか?
クリスマスは一人静かにマンガを読んでいてもいいじゃないか!
ゆっくり風呂につかっててもいいじゃないか!
結局は、マンガを読んだり風呂につかったりする歌は売れないから、すぐに色恋に走ってしまう。
つまり売れ筋分析を充分にやっているということだ。
そしていつしか「クリスマスソングを作って一発当てよう」プロジェクトみたいなのが出来、いかにも「らしい」言葉を使い、曲をパクり、安易なクリスマス商戦の歌が世に送り出される。
しょせんクリスマス商戦のための商品に過ぎない。
到底、達郎は超えられないだろう。

さて、J−POPのクリスマスソングは腐るほどあるが、日本人の手によって作られた童謡や唱歌のクリスマスソングというのは聞いたことがない。
クリスマスの定番である「ジングルベル」や「きよしこの夜」などは、どれも輸入品である。
逆に日本の伝統行事である正月は、童謡唱歌では歌われているが、J−POPの歌が見当たらない。
「ひとりぼっちの初詣」とか、「あなたのキスがお年玉」とか、「一枚の年賀状」とか、「三ヶ日は休ませて」などという歌があってもよさそうなものである。
なぜ、J−POPは正月を無視するのかなあ?
たしか、お盆の歌は演歌にあったような気がする。
「盆と正月が・・・」という言葉もあるくらいだから、対等に扱わないとバチがあたるだろう。

そういえば、同じ国民行事なのに、童謡唱歌やJ−POPから完全に無視されているものもある。
お彼岸である。
彼岸花をあつかった歌はあるが、これはお彼岸とは関係がない。
もしお彼岸の歌があったとしたら、
「こんにちは。お彼岸の中日、どうお過ごしでしょうか?
今日はお彼岸の歌特集でお楽しみ下さい。
まず最初の曲は『雨のお墓で』、2曲目は『先祖に告げた恋』。
2曲続けてお送りします」
と、こんな特集をやるラジオ番組もあるだろう。

成人の日も、桃の節句も、端午の節句も、J−POPは完全に無視している。
欧米人のお祝いを賛美する歌ばかり作らないで、少しは日本の行事にも目を向けたらどうだ?
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2002年01月27日

さよなら三角

昨日だったか、NSPが再結成するというのをラジオで聴いた。
ぼくは別に彼らを好きではなかったので、どんな歌を歌っていたのかは知らないが、ギターで「夕暮れ時はさびしそう」や「さよなら」の練習をしたおかげで、この二つの歌は知っている。
ラジオからは「夕暮れ時はさびしそう」が流れていた。
そういえば、「さよなら」はどんな歌だったろう。
いろいろ思い出してみたが、どうも出てこない。
「さよなら、さよなら」と口の中で繰り返しているうちに、オフコースの歌が出てきたり、拓郎の歌が出てきたりした。
「どんな歌だったろう?」となおも考えていると、ふと頭の中が真っ白になった。
そして次に口の中から出てきた歌は、なんと「さよなら三角」だった。

「さよなら三角、また来て四角、四角は豆腐、豆腐は白い、白いはうさぎ、うさぎは跳ねる、跳ねるは蛙、蛙は青い、青い葉きゅうり、きゅうりは長い、長い葉エントツ、エントツは暗い、暗いは幽霊、幽霊は消える、消えるは電気、電気は光る、光るは親父のハゲ頭」
小学生の頃、こんな歌をよく歌ったものだった。
そういえば、こんなのもあった。
「そうだ、そうだ、ソーダー会社のソウダさんが死んだそうだ。葬式饅頭、おいしそうだ」
いったい何なんだろう、この歌は?
ただごろがいいだけで、何の意味もない。
しかし、小学生の頃は必死に覚え歌っていた。
ああ、こういうのもある。
「一つ二つはいいけれど、三つ三日月ハゲがある。四つ横ちょにハゲがある。五ついくつもハゲがある。六つ向こうにハゲがある。七つ斜めにハゲがある。
八つやっぱりハゲがある。九つここにもハゲがある。十でとうとうハゲちゃった」
数え歌の一種か。
似た歌で、
「いーち芋屋の兄ちゃんと、にー肉屋の姉ちゃんが、さーんさるまた脱ぎ合って、しーしっかり抱き・・・・」
あっ、これは放送禁止歌だった。

歌詞のほうはいろんな地方や地区によって違うだろうが、曲はだいたいいっしょだと思う。
いったいこういうのは誰が作るんだろう?
また誰が教えるんだろう?
別にテレビやラジオでやっていたわけでもなかった。
気がついたら小学校で流行っていたのだ。
まさか「カバゴン」こと阿部進先生が教えたわけではないだろう。

しかし、これを歌と呼んでいいものかどうか。
まあ、確かに童謡や唱歌ではない。
ということは「カゴメカゴメ」のような、わらべ歌に属するものだろうか?
わらべ歌には、「あんたがたどこさ」とか、「とうりゃんせ」とか、「花いちもんめ」などの遊び歌も含まれるのだから。
他に「大波小波、高山越えて、低山越えて、谷川渡って、ワンツースリー」とか、「郵便屋さん、郵便屋さん、はがきが一枚落ちました。拾ってあげましょ、いーち、にー、さーん、しー、お変わりさん」などという、縄跳びでうたっていた歌もそう呼んでいいと思う。

ちなみに、「郵便屋さん」とは時代を先取りした言葉だと思う。
郵便屋と言うくらいだから、公務員ではない。
民営化を読んでいたのだろうか?
「カゴメカゴメ」もよく予言の歌と言われているし、わらべ歌には何かそういう不思議な力があるのかもしれない。
と言うことは、「いーち芋屋の兄ちゃんと・・・」にも、何か暗示が隠されているのかもしれない。
ああ、この歌全部書きたい!
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2002年01月29日

ギター その1

先日裁判所から、「破産者(K楽器)に対する破産事件について、破産管財人から配当するための財源がないため破産手続きを終了する旨の申し立てがありました。・・・」という通知が来た。
つまりぼくが販売を委託していたギターの代金が、入ってこないということになったわけだ。
「12万円で売れました!」とぬか喜びさせやがって。(7月2日の日記参照)
まあ、今回のことは倒産した時点からわかっていたことであるから、そんなにショックは大きくなかったのだが、ただ非常に頭にきたのは確かだった。

さて、もう戻ってこないギターであるが、これは過去から換算して9台目のギターだった。
メーカーはマーチンで、同一メーカーとしては2台目のものだった。
ちなみに、「歌のおにいさん」に収録している歌の演奏は、ほとんどこのギターで弾いている。

ぼくがギターを弾き始めたのは、高校1年の時である。
中学の頃からギターが欲しくて、あの「TVジョッキー」に出ようかと考えたこともある。
きっかけは中学2年の時、文化祭で3年生が岡林信康の歌を弾き語りで歌ったのを聴いたことだった。
それまではギターは難しいものだと思っていたのだが、コードを押さえてストロークするだけの簡単な弾き方もあると知って、俄然ギターに対する情熱が芽生えた。
まあ、最初は漠然と「ギター欲しいのう」と思うだけだったのだが、中学3年の時に友人が学校にギターを持ってきたのを触らせてもらってから、「ギター欲しい」は本物になった。
その友人は何度か学校にギターを持ってきて、ぼくにコードや弾き方を教えてくれた。
しかし、たまにしか持ってこないギターで、コードや弾き方を習ったってすぐに忘れてしまう。
友人が「この間教えたやないか。お前はCのコードひとつ覚えきらんとか!」と言うので、ムッとしたぼくは「じゃあ、覚えてやるけ毎日ギターをもってこい」と言った。
友人は相変わらず、たまにしか持ってこなかった。
ということなので、ぼくも中学を卒業するまでCのコードを覚えきらなかった。

ぼくの通った中学は、それほどギターが盛んではなかった。
そのためレベルも低かった。
他のクラスに、学校中の誰もが認める「フォークギター上手」がいた。
一度弾いているところを聴いたことがあるが、ちゃんとギターを弾いて歌を歌っているのだ。
誰もが「うまい」「さすがやねえ」などと言っている。
ぼくもそれを見て「凄い!」と思っていた。
しかし、それは「凄い!」ことでもなんでもなかった。
彼は、簡単なストローク奏法をしていただけにすぎず、技術的には大したものではなかった。
つまり、彼は「フォークギター上手」ではなかったのだ。
みんな自分がギターを弾けないから、彼を「フォークギター上手」と思っただけにすぎない。
そのことをぼくは、高校に入ってから知ることになる。

高校に入ってから一番衝撃を受けたのは、ギターを弾く人間があまりにも多かったことである。
しかもレベルがかなり高い。
難易度の高かった拓郎の「花嫁になる君に」や「旅の宿」を、いとも簡単に弾く人が何人もいる。
ぼくは、ああいう難しい曲は、レコードの世界の人しか弾けないものだとばかり思っていた。
しかし、それはぼくの認識不足だった。
「お前、それ誰に教えてもらったんか?」と聞くと、「誰にも教えてもらってない。レコードからコピーしただけ」と言う。
「コピ−? コピーちゃなんか?」
「レコードから音を拾うこと」
「え?レコード聴いて覚えたんか?」
「そう」
世界が違う。
「もし『フォークギター上手』がここにいたら、赤恥もんやのう」
と、ぼくはその時思っていた。
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2002年01月30日

ギター その2

高校一年の5月、ラジオでよしだたくろうの新しいアルバムの特集をやっていた。
「伽草子」である。
何曲か流していたが、その中の一曲にすごい衝撃を受けた。
何か頭をガツンと殴られたような感じがした。
その一曲とは、「制服」という曲だ。
このアルバム中唯一の、ギター一本弾き語りである。
ぼくはそれまでにも拓郎の歌を聞くことはあったが、その他の流行歌のようにただ聞き流すだけだった。
「今日までそして明日から」を聴いても、「ああ、これがフォークソングというんだな」と思う程度だった。
しかしこの歌は違った。
歌詞は単純なのだが、熱く迫ってくるような「語り」であった。
ぼくは、こんな歌を聞いたのは初めてだった。
さらにすごかったのがギターであった。
簡単なフラットピッキング奏法なのだが、ベース音を効果的に使い、説得力がある。
もちろん、こんな演奏を聴くのも初めてであった。
火がついた。
こんなの聴かされたら、一刻も早くギターが欲しくなるものである。
ぼくの「ギター欲しい」は、「ギターを弾きたい」という漠然とした理由から、「オリジナルを作って弾き語りをしたい」という具体的な目標へと変わった。

ぼくがギターを手に入れたのは、それから半年後、11月のことであった。
たしか堀田というメーカーのギターだったと思う。
親戚からもらったものだった。
手に入れた翌日、ぼくは楽器屋に行って、ピック・ピッチパイプ・カポタスト、それと拓郎の楽譜本を買った。
最初から教則本無視である。
楽譜本にはダイアグラムとストロークの仕方が付いていたので、そのとおりに弦を押さえて弾けばいいと思ったのである。
まず、簡単そうな曲を選び、一つ一つコードを覚えていった。
すばやくコード進行が出来るように、繰り返し繰り返し練習した。
最初は一曲あたり、1週間を要した。
だんだん、その間隔も狭くなっていったが、ここでひとつの難関にぶち当たった。
コード「F」である。
いわゆるバレーコードである。
人差し指で、6弦全部を押さえなければならない。
これが出来んのです。
その当時は、ギターがそううまくない奴でも、Fを弾けると聴いただけで「こいつ天才やのう」と感動していた。
そのくらいFは初心者には難しい。
「Fが押さえられなかったから、ギターを断念した」という話を、嫌になるほど聞かされたものである。
とにかく、ギターに対する情熱だけはあったから、「ここで負けるわけはいかん」と、ぼくにしては珍しく根性を見せた。

1ヶ月かかったが、何とか音は出るようになった。
さて、次はリズムである。
むちゃくちゃだった。
何とか弾けるようになった曲を、レコードに合わせて弾くと、だんだん音がずれてくる。
一曲終わった頃に、まだ何小節か残っている状態である。
音にの抑揚がなく、ただ弾いているだけであった。
しかし、ここでもぼくは根性を見せた。
ちゃんとリズムが合うまで、何日間もかかって練習したのである。
当時ギターの練習時間は、毎日4時間を超えていた。
指が切れるまでは行かなかったが、左指の先は弦の錆などで変色してしまっていた。
とにかく、後にも先にも、逃げないで一つのことをやったのは、このギターの練習だけである。
一曲出来たら次の曲、というふうに飽きずに地味な作業をやったものである。
主だった曲を一通り出来るようになったのは、ギターを始めてから3ヶ月くらい経ってからだった。
その後に、もう一つの難関が待っていた。
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2002年01月31日

ギター その3

ぼくはそれまで、「ジャンジャカ、ジャカ、ジャカ」とピックを使ってストロークばかりやっていた。
しかし、ギターの醍醐味はやはり指で奏でることだろう。
そう思って、ギターを始めた当初から無視してきた教則本にお世話になることにした。
楽器屋に行って、フィンガー・ピッキング奏法中心の教則本を買い、早速挑戦した。
まず、アルペジオから始めた。
案の定、うまくいかない。
音符通りに指が動かない。
一音一音のバランスが取れない。
指に力が入らない。
毎日毎日指を動かす練習をした。
指に重りをつけてもみた。
授業中、入浴中、トイレの中でも指を動かし続けた。
それでもうまくいかない。
「もういい。おれはピック一本でいく」と何度思っただろう。
10日ほどして、何とか指が動くようになった。
教則本に載っていたアルペジオの課題曲は3曲だった。
一応、教則本のアルペジオは出来るようになった。
試しに拓郎の「雨」などをコピーしてみた。
ぎこちないものの、何とかうまくいった。

次に厄介なものが待っていた。
スリーフィンガー奏法である。
リズムの取り方が全然わからない。
しかも課題曲は知らない曲ばかりだ。
当時の教則本というのは、テープやソノシートなどが付いた本などは、ほとんどなかった。
「こればかりは独学ではどうにもならんのか。といって、人から教わるのは好かんし。どうしよう?」
しかし、その頃のぼくには情熱があった。
読めない楽譜を自分なりに読んで、何とかスリーフィンガーのリズムをつかんだ。
「ベースランニング」や「ハンマーリング・オン」「チョーキング」といった高等テクニックは出来なかったが、何とかスリーフィンガーの形にはなった。

さて、スリーフィンガーが出来るようになった頃、一つの事件がおきた。
それは、体育の授業中のことである。
バスケットの試合をやっていた時、相手のボールを捕ろうとして、右手の小指をボールに引っ掛けてしまったのだ。
かなり痛かった。
が、ただの突き指だろうと湿布をしておいた。
もちろん、ギターの練習もした。
翌日、朝起きてから異変に気が付いた。
その指が脹れあがり赤黒くなっているのだ。
小指を曲げると、何か「ギーギー」といっているような感じがする。
「折れたか!」
その時ぼくはすぐに決断した。
「病院には行かん」
元来の病院嫌いである。
骨が折れたのは、生まれて初めてのことだったが、病院に行くとギプスをされる。
そうなるとギターが弾けなくなる。
ということが、すばやく頭の中を駆け巡ったのである。
自分の体のことよりギターを選んだぼくは、その後何十年も右手の小指の痛みと闘わなければならなくなる。

一方、ギターのほうは順調に上達していった。
スリーフィンガーもある程度はマスターした。
しかし、何かが足りない。
テレビで弾き語りをしているのを見ると、左の指がひんぱんに動いているのだ。
それに比べ、ぼくはコード固定で弾いていたため、演奏が一本調子になり面白くない。
ほかの教則本などを見ても、左指の動きなどは書いていない。
「これは何で勉強したらいいんだろう」と思っていた。
いろいろ本などで調べていると、ある広告が目に付いた。
「エレックレコード/はがとまるニューフォークギター教室」という通信講座の広告だった。
「エレックレコードなら間違いないやろう」と資料を取り寄せた。
半年間の講座で、値段もそう高いものではなかった。
さっそくぼくは入会した。
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2002年02月02日

ギター その4

半年の通信教育が始まった。
テキストとレコードが送られてきた。
しかし、テキストを見てちょっと失望した。
とても人前で演奏できるような曲ではないのだ。
「ドナドナ」「好きにならずにいられない」はともかく、「ハッシュ・リトル・ベイビー」や「ポートランド・タウン」なんて誰も知らないだろうし、人前でやっても受けないだろう。
しかも、英語の曲ばかりである。
エレック系の拓郎や泉谷の曲をやってくれるものとばかり思っていたのだ。
まあ、拓郎の曲は「イメージの詩」が入っていたが、あくまでもデモで、課題曲ではなかった。
それにこの曲は簡単だったので、すでにマスターしていた。

しかし、乗りかかった船だ。
ぼくは半年間、みっちりとこの通信講座で勉強した。
あやふやだったスリーフィンガーも、何とか形になってきた。
ハンマーリングオン・チョーキング・ミュートなどのテクニックも、この講座でおぼえた。
一番の収穫は、チェット・アトキンス奏法を覚えたことだ。
これは、ラグタイム奏法と似た弾き方で、親指でベース音を、人差し指でメロディーを奏でる。
右指はもちろん、左指も頻繁に動かさなければならない。
課題曲の「フレイト・トレイン」をマスターした時の喜びは大きかった。
歌の伴奏として始めたギターだったが、初めてソロを弾けたのだ。
その後、「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」など、一連のチェットアトキンス奏法をマスターしていった。
チェットアトキンス奏法を一応マスターすると、何か自分でもオリジナルのソロを作ってみたくなり、拙いながら3曲ばかり作ってみた。
今ではもう弾けないが、当時はよく友人の前で弾いたものだった。
「よく左指が動くねえ」と言われるのが嬉しくて、調子に乗ってやったものだった。

そういえば、ギターソロで思い出したが、ぼくは「禁じられた遊び」が弾けない。
この講座でも課題曲として取り上げられていたのだが、どういうわけか練習する気になれなかった。
なぜ練習しなかったのかはよく覚えてないが、おそらく「これはクラシックやないか」と思い、意識的に弾くことを避けたのだろう。
なぜなら、その頃のぼくの頭の中には、「フォークギター」しかなかったのだから。

半年が経ち、この講座を卒業したぼくは、かなりギターの腕が上達していた。
レコードから多くの曲をコピーしたが、ほとんどがこの講座でやったことの応用だったので、楽にコピーができた。
今まで聞き取れなかった細かい音も、よく聞こえるようになった。
音楽というのは耳でするものとよく言われるが、この時このことを理解した。

3年になり、いよいよぼくはギターにのめりこんでいくことになる。
ギターの技術が向上するにつれ、作詞や作曲のほうも本格的になっていった。
オリジナル第一弾を作ったのは、高校1年の時、ちょうどギターを始めた頃である。
「怪獣になって、空を飛びたいなー♪」というアホな歌だった。
今となっては、こんな歌恥ずかしくて、とても歌えん。
その後、2年の終わりごろまでに20曲以上作った。
2年の春休みのこと、昼寝をしていると、突然メロディが降ってきた。
ぼくは飛び起きて、そのメロディをカセットに吹き込んだ。
1週間後、そのメロディは「春一番」という歌になった。
もちろんキャンディーズの歌とは違うが、この歌は今でも好きで、よく口ずさんでいる。
この歌が、通信講座で学んだギターの奏法を使った最初の曲になった。
この曲で作曲のコツを掴んだぼくは、その後200曲以上の曲を作ることになる。

しかし、このことがその後の人生を大きく狂わせた。
よく人から言われた「出来もしない夢」を見ることになったのだ。
「出来もしない夢」、つまり「プロのミュージシャンになる夢」は、この「春一番」を作ったことに始まる。
この夢を追いかけて長い浪人生活を強いられ、この夢を追いかけて東京に出、この夢を追いかけて何本もギターを買い、この夢を追いかけて今回の被害にあった。
ということで、この夢の呪縛は、いまだに続いていた、と言ってもいいだろう。

おわり
posted by 新谷雅老 at 04:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歌のおにいさん | 編集


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