2000年12月23日

巨人の星

今でこそ福岡も民放テレビ局が5つになり、ほとんどの放送が東京と同じ日時に見られるようになったが、昔は悲惨であった。
ぼくが小学生の頃は、まだ日テレ系とテレビ東京(当時東京12チャンネル)系の放送局がなかった。

ぼくは当時プロレスが好きでよく見ていたのだが、リングなどの専門誌はG.馬場やA.猪木の日本プロレスの記事が中心だった。
福岡には日テレ系の放送局がなかったので、日本プロレスをやっておらず、TBS系の国際プロレスしか見られなかった。
華やかな馬場や猪木の中心の日本プロレスに比べると、サンダー杉山や豊登中心の国際プロレスは子供心にも地味に見えた.
16文やコブラツイストの代わりにこちらで見られたのは、雷電ドロップやさば折りであった。 そういえば、シャチ横内という人の十字チョップという訳のわからない技もあった。
デストロイヤーやボボ・ブラジル,フィリッツホン・エリックなどは、雑誌でしかお目にかかれない。 かなり悔しい思いをしたものである。

そういう状況も小学6年の秋には改善された。
日テレ系の福岡放送が開局したのだ。
これで念願の日本プロレスが見られるようになった。
金曜夜8時、あの「チャーンチャ、チャーンチャ、チャッチャチャッチャチャン・・・」というテーマソングの嬉しかったこと。
G・馬場がいる。A・猪木がいる。大木金太郎やヤマハブラザーズがいる。まだ吉村道明も現役だった。
でも不思議に思ったことがある。
国際プロレスを見慣れたぼくには、日本プロレスのマットが狭く見えたことだ。
特にG・馬場が大きすぎるので、そう感じたわけではないが。

さて、福岡放送の開局で面白いことがあった。
アニメ(当時はテレビマンガといった)「巨人の星」のことである。
福岡放送が開局するまで「巨人の星」は、TBS系のRKB毎日で金曜午後6時30分からやっていたのだが、これはもちろん一週遅れの放送だった。
福岡放送開局と同時にRKBは打ち切ると思っていた。
それが2〜3ヶ月継続したためにこの事態が起きた。

これは、ぼくたちの小学校(いや県内全部の小学校でそうだったのかもしれない)では大事件だった!
「巨人の星」は日テレ系では土曜午後7時からやっていた。
この時間帯の放送しか見れない人は、星飛雄馬の一球を一週間待たなくてはならなかったのだが、福岡の人間はこれを翌日に見れたのだ。

この事態が起きてから、「巨人の星」を見る方法が三通り出来た。
一つは、毎週2度見る方法。
前回の復習をして本編に入る、という見方だ。
この方法が一番多かったような気がする。

もう一つは、毎週1度(福岡放送かRKBかで)見る方法。
これは少数派だった。塾通いの人がこの方法をとっていたようだ。

最後は、一週おきに見る方法。
この事態を最大限に利用する方法で、週2度よりも新鮮味がある。
ただしこれをやってしまうと、学校で話題についていけなくなるし、何よりも学校ナあらすじを聞いてしまうので毎週見るのと何ら変わりはなくなってしまう。いや、中途半端な情報のためそれよりもさらに面白さは半減する。
ということで、この方法を取る人は、ぼくの周りではいなかった。

それから20年後、TVQ(テレビ東京系)開局の時はこういうことはなかった。
唯一(?)の人気番組「開運!なんでも鑑定団」は、TVQ開局後に始まっている。 もし、開局時に既に始まっていたのなら、こういうことになったかもしれないが。

それにしても、「巨人の星」が本家日テレ系の福岡放送で始まってからも、しばらく放送を続けていたRKB毎日の意図はなんだったのだろうか。
今でも、ぼくの中では謎なのである。
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2001年02月28日

卒業

明日みりんの卒業式だそうです。

ぼくの高校卒業は昭和51年、ロッキード問題で政界が揺れていた頃でした。
政治にはあまり関心がなかったけど、あの事件の国会での証人喚問は面白かった。
「知らぬ存ぜぬ」を貫く証人と、議長の荒船清十郎のやり取りが面白くて毎日見ていた。
吉本新喜劇でもあのやり取りのパロディをやっていた。
「記憶にございません」や「ピーナツ」などは当時の流行語でもあった。

卒業式で思い出すのは、学校一の名物先生であった担任(超頑固者だった)が、ぼくの名前を呼ぶ時に声を詰まらせたことと、一年のときの担任が肩を叩いて「よく頑張った」と言ってくれたことだ。

三年の担任には毎日遅刻ばかりして迷惑をかけていた。
「こんなに遅刻する奴は学校始まって以来だ」とまで言われたが、ぼくの遅刻は直らなかった。
担任とクラスの生徒全員が職員室前で争論になった時、ぼくが止めたことがある。
そういったことで目にかけていたのか?

一年の時の担任は、自分の受け持ったクラスの唯一の追試受験者だったので印象深かったのだろう。
二年の時もクラスは違っていたものの、家に電話までかけてきて「今年はよく頑張った」と言ってくれた。(別に頑張ったわけではなく、すべてなりゆきだったわけだが)
どちらもいい先生だった。

さて、春一番も吹きました。明日からは三月です。そろそろ「月明り」の入口の詩をかえようと思っています。
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2001年04月12日

とりとめのない話

むかし日記を付けていた時期があります。
そうですね、もう20年以上も前になります。
今日その当時の日記を読んでいたのですが、ふと4月12日の日記はないだろうか? と探してみました。
ところが3月から急に6月に飛んでいて、4月12日はおろか、4月5月は何も書いてないのです。
その後の何年間かの日記を見てみたけど、東京に出た年も、こちらに戻った年も、やはりこの時期は何も書いてない。
環境が変わると書きたくなくなるんだろうか?
それとも書けない事情でもあったのだろうか?
書くのが嫌になっていたのだろうか?
自分のことながら、その辺の記憶が曖昧です。
何でその辺の事情を日記に書かなかったのだろう?
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2001年04月25日

小学生の頃

「少年」「少年ブック」「ぼくら」「冒険王」「少年画報」と書いてピンとくる人はもう40歳を超えている人だろう。
あるホームページを見ていたら、これらの名前が目に飛び込んできた。
知らない人のために言っておけば、ぼくが小学生の頃読んだ月刊誌(漫画)の名前です。
今の月刊誌と違って、豪華な(?)付録がついていた。
「来月号は豪華10大付録付き」なんて書いていたなあ。
日光写真なんかはいつもどこかが付けていた。
その他いろいろな付録があったが、ぼくが一番嬉しかったのは別冊本だった。
例えば「鉄人28号」が本とは別の内容で、1冊の本(読み切り)になっていたのだ。(たまに「別冊に続く」となっている場合もあったが)
こういうのを持っていたら、今かなりの価値があるんだろう。
そう思うと、あの時捨てた「ビッグX」が今となっては惜しい。

ぼくは「少年」と「少年ブック」と「冒険王」をよく読んでいました。
当時はお小遣いも少なかったので、どれか一冊買うのがやっとでしたね。
他に「週刊少年サンデー」も買ってたし。
あとは古本屋で立読みするとか、床屋で読むとかしていました。

ところで、ぼくの小学生の頃の生活は、学校では授業中はおしゃべりばかりし、学校が終わるとパッチン(メンコ)ダンチン(ビー球)草野球、家に帰れば漫画を読みと、とにかく忙しくて勉強している暇などなかった。 高学年の時は宿題もほとんどしなかった。
きっとこんな生活をしていたから痩せていたんだろう。
今もこんな生活をやっていたら、腹の肉は付かないだろうに・・・。
 ・・・またこの話だ。
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2001年04月26日

W3

小学生の頃かなりの漫画を読みました。
あの頃の漫画は、今の漫画よりもずっと品があったと思う。
好きだった漫画は、「おそ松君」「サブマリン707」「ミラクルA」「W3」「バンパイア」「マグマ大使」「ビッグX」「スーパージェッター」「サイボーグ009」「5年ひばり組」「伊賀の影丸」などあげたらきりがない。
その中でも特に「W3」が好きでした。
最終回は感動的だった。
別にドラマチックな終わり方じゃなかったのだけど、手塚先生は最後に夢を盛り込んでくれた。
その夢がぼくの中でずーっとくすぶっていたんです。
それが10年程前に突然蘇って、「W3]を読みたくてたまらなくなった。
探しましたねえ、2年間。
だってどこにもないんですよ。
北九州や福岡の有名な本屋はだいたい回りつくしたし、東京に行った時も他の場所には目もくれず、神保町の本屋をうろうろしていた。
それでも見つからないものだから、東販や日販に問い合わせてみたりもしたんです。
「廃刊」との答でした。
でも、秋田書店のサンデーコミックのリストにはちゃんと載っているんですよ。
それで秋田書店に聞いてみると「切れている」としか言わない。
2年が過ぎ、ようやく解決しました。
ハードカバーの手塚治虫全集が出たんです。
ありました、「W3」。
一気に読みましたね。
小学3年生に戻っていました。
ぜんぜん感動が変わらない。
やはり最後は考えさせられてしまうんですね。

内容はここでは書きません。
大人の目で見たら大したことではないので、馬鹿にされそうですから。
でも、ぼくとしては子供の目でそれを読めたことが嬉しかった。
実は、今日も子供の目で「W3」を読んだのです。
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2001年05月09日

再びW3

明日から、出社してから朝礼までの時間に、腕立て伏せとヒンズースクワットをやろうと思っています。
実際今日やってみたのですが、20回程度なら無理なくできるようです。
しばらくの間、朝礼中に息を切らしているかもしれません。

さて、以前W3(ワンダースリー)のことをここで書きましたが、今朝主題歌を聴きながら会社に行きました。
子供の頃覚えた歌というのは忘れないものですね。
しっかり歌うことができました。
それに、ボッコ・プッコ・ノッコがお尻を振りながら遠ざかって行く画像が、「♪ゆけ ゆけ ワンダースリー・・・♪」のところで心の中に蘇るのです。

これと似たことがスーパージェッターやマグマ大使の歌を聴いた時にもありまた。
今日は他に、ソラン,パピー,宇宙エースなどを聴きましたが、それぞれ話の内容は忘れたのに、ぼくの中にイメージが残っていて、「ソランはちょっと暗い少年、パピーはくそ真面目で堅物、宇宙エースはノー天気な少年だったなあ」などと思っていました。

子供の頃の記憶というのは、大人になってからの記憶よりも強烈に残っているものなんですね。
大人になってからの記憶で強烈に残っていることといえば、そうですねえ・・・、好きな人に振られた時のことぐらいかなあ? 
忘れたいことだから逆に残ってしまうんでしょうね。
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2001年05月10日

3つの謎

今日も漫画の話です。

1、
鉄人28号でいつも不思議に思うのは、正太郎君は自分でリモコンを操作しているのに、どうして「鉄人、頑張るんだ!」と言うんだ?ということである。
鉄人は別にアトムみたいに意志をもっているわけはなく、リモコンがなかったらただの人形である。
頑張れるかどうかは、正太郎君の操作の腕にかかっているわけで、けして鉄人が頑張るわけではない。
それを署長たちもよってたかって「鉄人頑張ってくれ〜」などと言うんだろう?
永遠の謎である。

2、
昔の漫画というのは戦争を題材にした物が多かった。
「ゼロ戦ハヤト」はもろそれだった。
W3では主人公の真一の兄光一は秘密諜報部員で、A国と戦っていたし、ビッグXはドイツらしき国(ナチス同盟)と戦っていた。
マグマ大使や遊星仮面は宇宙人と戦争やっていた。
「男一匹ガキ大将」は米軍と戦争をやった。
戦後20年、まだ戦争の後遺症が残っていた時代である。
「戦争はうんざりです。もう戦争しません」と宣言してから、あまり時間の経ってない時期である。
なぜこういう内容のものが流行ったんだろう?
時間が経つにつれ反戦物が多くなるというのも謎である。

3、
オバケのQ太郎は「少年サンデー」の他、小学館の学習雑誌にも連載されていたが、「小学1年生」と「小学6年生」の内容は同じだったんだろうか?
(そういえばオバQの中で、伸一が隣の神成さんに「ビートルズは立派な芸術です」と言い切る場面があったが、今考えると卓見だったなあ)
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2001年05月12日

痛い話

昨日の山登りで足腰が痛い。
特にすねの筋と尻筋が痛い。
おかげで今日は変な歩き方をしていた。
幸い誰にもさとられなかったけど。
腕立て伏せと腹筋もやっているから、腕や腹も痛い。
でも、この手の痛みは心地よいですね。
思えば学生時代は運動部に入っていたので、いつもこの痛みとの戦いでした。
試験休み明けの練習はとくにきつかった。
吐き気までしていました。

痛みといえば、高1の頃クラブの練習中に足の親指のじん帯をやってしまい、その激痛が引くまで3ヶ月かかったことがあります。
意地を張って休まずに練習をしたのが長引いた原因です。
でも故障個所があると、踏み込んだ練習ができないんですよね。
またやるんじゃないかと、精神面の痛みも入ってきたりして。
集中力が欠けたまま練習していると、また同じところをやってしまう。
ようやく治ったと思っていた矢先、今度は右手の小指を骨折してしまいました。
そういうわけで、その後運動選手としての成長はありませんでした。
どちらも目立たない個所の怪我だったので、誰も気づいてはいませんでしたが、本当は大変な怪我だったのです。
右手の小指は今も満足に曲がりません。

その後は高校生活を楽しもうという考えに至り、部活もいいかげんなものになり、放課後は面白おかしく過ごしていました。
でも、その心構えがその後の人生に与えた影響、今考えるとそれが一番痛かった。
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2001年05月27日

修学旅行

朝、体重を量ったところ、75sになっていた。
2週間ほど前に量ったときは78sだったから、3s減ったことになる。
ねじり運動、効果大ですね。
ちなみに体脂肪は18、4%だった。
来週の日曜日にまた測定やってみますが、楽しみです。

最近、朝の通勤時に大型の観光バスを見かけることが多くなった。
それもほとんどが他県ナンバーだ。
バスは座席が高いので、どんな人たちが乗っているのか、ぼくの車からは見えないが、時期を考えると、おそらく修学旅行だろう。
どのバスもみなスペースワールドに向かっている。
ぼくが修学旅行で行ったのは、小学校の時は中九州、中学校の時は関西、高校は中部だった。
小学校と中学校の時、騒ぎすぎて正座をさせられたことがある。
小学校の時は5人で正座だったが、中学の時はあの裸天国のホテル紅葉(びわ湖畔)で、一人で正座させられた。
酔っ払い客から「おっ、何か悪いことしたんか?」と絡まれ、赤面したものだった。
高校の時は、女子を驚かそうとして、旅館の風呂から上半身裸で下半身にバスタオルを巻いて部屋までダッシュしていく作戦を立て実行した。
女子達は「キャー」と言って顔をそむけ、作戦は成功した。(くだらん)
が、その後重大なことに気づいた。
パンツがないのだ。探し回ったがどこにも見当たらない。
風呂まで探しに行ったけど、やはりない。
どこでなくしたんだろうと考えていると、一人の女子が「これ、しんたくんのやろ?」となくしたパンツを持ってきた。
女子の前を駆け抜けた時に落としたらしい。
またしても赤面ものである。
旅行の間、そのこの顔を見ることが出来なかった。
でも、修学旅行は楽しかった。
社員旅行とかでは味わえないものがある。
もう二度と修学旅行がないのかと思えば、寂しいものである。
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2001年05月28日

気がつかなかったけど

昨日の夕方、テレビを見ていて、今更のように気づいたのだが、「サザエさん」まだやっていたんですね。
何気なく、その時間帯を過ごしていたので、そんなことを考えることもなかったが。
いったい何年になるんだろう?
番組が始まったのが、ぼくが小学6年の時、たしか7月からだったと思う。
野球の練習が雨で流れて、その日テレビを見ていたら「7月からいよいよサザエさんが始まります」といっていたのを覚えている。(ちなみにこの年の7月、アポロが初めて月に行ったんです)
とすれば、1969年だから、もう32年もやっていることになる。
当時は朝日新聞で連載やっていたから、内容よりもどういう展開でアニメをやるんだろうか、という好奇心で見ていたような気がする。
昨日見ていると、声優も変わったようだ。
でも、オープニングとエンディングのテーマ曲は変わっていなかった。
スポンサーも相変わらず東芝だった。

スポンサーで思い出したが、TBS系で日曜の午後7時からやっている「さんまのスーパーからくりTV」のスポンサーは武田薬品だ。
「それがどうした」という方もいるだろうが、この時間帯はもう40年近くも武田薬品がやっているのだ。
これはすごいことですよ。
「隠密剣士」も「忍者部隊月光」も「ウルトラQ」も「ウルトラマン」も「ウルトラセブン」も「柔道一直線」も、オープニングはすべて「♪タケダ、タケダ、タケダ−・・・」だった。
その延長上に「からくりTV」があるんですね。
うーん、「サザエさん」よりもこの感動のほうが大きい。
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2001年06月21日

ぼくのヒーロー

最近、郷ひろみがよくテレビに出ている。
彼がデビューしたのは、ぼくが高校1年の時だった。
その頃は、「軟派な奴」という印象で、好きにはなれなかった。
そこには、ぼくの嫌いだった女の子が、郷ひろみの熱狂的なファンだったというのもあった。
ちょっと見方が変わったのは、ぼくが20歳前後の頃、「あこがれ共同体」「ムー」「ムー一族」などのドラマで主演してからだった。
徐々にではあるが「軟派な奴」というイメージが、ぼくの中で払拭されていった。
あの下手な台詞の言い回しが、どうも憎めないのだ。
そういう中で、「よろしく哀愁」「林檎殺人事件」「二億四千万の瞳」などの歌が好きになっていった。
そして今は「郷さんも頑張っているなあ」と思うくらいは好きになっている。
同世代に近い人なので、これからも頑張ってほしいものである。

さて、ぼくが好きになった芸能人(全部歌手)は、43年生きてきたにしては、少ないほうだと思う。
まず、小学3年生の頃好きになった加山雄三。
この頃は、よく「平凡」や「明星」の付録の歌本を親戚の兄ちゃんからもらって、加山雄三の歌をうたっていたものだ。
レコードを買えるほどのお小遣いを貰ってなかったので、歌は全部テレビで覚えた。
次に、小学5年生の頃好きになったザ・タイガース。
沢田研二にファンレターを出したこともある。それほど好きだった。
レコードも買い、映画も見に行った。
「好きな歌は?」と訊かれると、いつも「白夜の騎士」と答えていた。
全然有名じゃない歌で、当然ベストアルバムには入ってない。
でも、この歌が今でも一番好きなのです。
その後は、もちろん吉田拓郎です。
この人については話が長くなるので、ここでは述べないが、とにかくこの人を本格的に好きになったのは、「制服」という歌を聴いてからだ。
頭をハンマーか何かで「ガツン」と叩かれたような衝撃があった。
この人の影響で、ぼくもギターを始め、作詞や作曲をやっていくようになるのだ。
コンサートは何度も見に行った。アルバムは全部持っている。
昔何かの雑誌で、「拓郎こそ『あしたのジョー』である」という記事を読んだことがあるが、確かにそのとおりだった。
拓郎もその当時は熱かった。
決して変なオヤジではなかった。

以上がぼくのヒーローです。
キャンディーズはヒロインなのでここには含めません。
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2001年07月15日

旺文社

これはいつ頃の日記だったろうか?

「落ちこぼれの歌」
旺文社のいう通りにしても、
成績は伸びなかった。
一夜漬けを教えてくれなかったからだ。

旺文社のいう通りにやって、
計画書作りが嫌になった。
でも、就寝という言葉をこれで覚えた。

「赤尾の豆単」のかわりに、
「毛沢東語録」を読んでいた。

旺文社の中間・期末対策は、
ぼくらの学校の範囲とは違っていた。

「ラジオ講座」の時間帯は、
朝鮮語放送の声のほうが大きかった。

むかし使っていたノートに書いてあったが、すべて旺文社の批判である。
今あるかどうかは知らないが、ぼくが学生の頃は「○○時代(旺文社)」と「○○コース(学研)」という雑誌があった。
上の日記を読んでおわかりだと思うが、ぼくは「時代」のほうをとっていた。
小学校の頃はろくに勉強もせず遊びまわっていたのだが、その反動からか「中学に入ったら勉強せないけん」という自覚だけは持っていた。
さて、その当時は学習塾というのはあまり一般的ではなく、勉強というのはもっぱら自分でやっていくものだった。
しかし、ぼくは小学生の頃からほとんど勉強したことがなかったので、その勉強のやり方がわからなかった。
そこで、その勉強のやり方を「時代」に求めたわけである。
それが失敗だった。
そして上の愚痴に続くのである。
高校に入ってからも「旺文社」には拒否反応を持っていて、半ば強制的であった「旺文社模試」は3年間一度も受けたことがなかった。
「おうぶんしゃ」、今でも嫌な響きである。
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2001年07月25日

コカコーラの想い出

小学校に通っていた頃は、買い食いを禁止されていたので、学校帰りに文具以外の物を買うという行為はあまりやった覚えがない。告げ口をする奴が多かったので控えていたのだと思う。

中学に入ると、学校ではそういう細かいことを言わなかったので、毎日のように買い食いをやっていた。
その中でも一番想い出深いのがコカコーラだ。
当時いくらだったのかは忘れたが、学校帰りに駄菓子屋によってコーラを飲んでいた。
今のように缶に入っているやつではなく、びん入りであった。
その店にはペプシコーラや7UPなども置いていたのだが、コカコーラにこだわったのには理由があった。
それは、キャッシュバックをやっていたからだった。
王冠の裏をめくり、「○○円」という文字が出ると、その金額をその場でもらえるのだ。最高額がいくらだったのかは忘れたが、お小遣いの少なかった時代、これはありがたかった。
最初は千枚通しなどでふたの裏をめくっていたが、「目を突いた」などの事故が相次いだため、簡単にめくれるように切れ目が入った。
ぼくはけっこう荒稼ぎをやっていたようだ。
二日に一度は当たっていたような記憶がある。
どのくらいの期間このキャンペーンをやっていたのかは忘れたが、あまりに好評だったため、その後何度かこの手のキャンペーンをやっていた。

そのうちキャッシュバックも飽きたのか、高校2年の頃は「ヨーヨー」などのグッズが当たるキャンペーンに変わった。
この「ヨーヨー」がまた大ブームを起こした。
各地でヨーヨーコンテストなども行われていたようだ。
しかし、ぼくはヨーヨーが下手だったので、わざわざ「ヨーヨーをもらうためにコーラを飲むようなことはしなかった。
というより、その頃にはすでにコカコーラに飽きてしまっていた、といったほうが正しいだろう。
とにかく、「中学時代にコカコーラを一生分飲んだ」と言っても過言ではないくらい飲みまくったからだ。

それにしても最近のコカコーラは甘くなった。
炭酸も以前に比べると、減ったような気がする。
昔は「ゲップ」をすると涙が出たものだった。
缶入りというのも味気ない。
ビールにしてもそうだが、やはり王道は「びん入り」なのだろう。
posted by 新谷雅老 at 22:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 想い出の扉 | 編集

2001年07月26日

お好み焼きの想い出

今日は忙しかった。
荷が次から次に入るし、お客さんは途切れないし、ひっきりなしに電話が入るし、心身ともに疲れてしまった。
パソコンの前に座っている今も、まだ放心状態は続いている。
一つの救いは、今夜はあまり暑くなく過ごしやすいということだ。
風はないのだが湿度が低い。
夏の夜はこのくらいがいいです。

さて昨日の続きだが、高校に入ってから買い食いの中身が変わった。
コカコーラからお好み焼きになったのだ。
高校に入学して、ぼくはすぐに運動部に入った。
当時は痩せて貧弱な体をしていたので、クラブを続けていくには、まず筋肉をつける必要があった。
どうしたら筋肉がつくだろうかと迷っていた時、ある人が「昼食を抜いて練習すると筋肉がつくよ」と教えてくれた。
さっそくぼくはそれを実践した。
おかげで2、3ヶ月すると見違えるような体型になった。
でもまだ16歳、腹が減るんです。
ある時ふと「あの人は昼食を抜けとは言ったけど、帰りに食うなと入ってなかった。それなら帰りに食ってやれ」と買い食い生活が復活した。
当時学校のそばには、お好み焼き屋が10軒近くあった。
そのせいもあり、お好み焼きが定番になった。
ぼくがよく通ったのは「美代志」だった。
そこのお好み焼きはうまかった。
ソースが独特なんです。
今でもその店は健在で、「お好み焼きのおいしい店」としてテレビでも紹介されたことがある。

その界隈のお好み焼き屋は全部行ってみたが、他においしかったのは「種ちゃん」ぐらいか。
他の店にない「モツ入り」が気に入っていた。
この間その辺を歩いてみたが、もう「種ちゃん」はなかった。
逆にひどい店もあった。
床屋の隣に店を構えていたが、食べている時に床屋の匂いがしてくるんです。
あれはたまらんですよ。
「お好み焼きの中に髪の毛が入っているんじゃないか?」と疑ってもいた。

それにしてもあの当時はラーメン屋が少なかった。
バス停の前に一軒あった程度だ。
今その界隈はお好み焼き屋が減って、ラーメン屋が増えているという状況だ。
「珍龍軒」という、ぼくが北九州で一番おいしいと思っているラーメン屋もその中にある。
仮に今高校生だったら、毎日「珍龍軒」に通うだろう。

社会に出てからは買い食いをしなくなった。
するのは飲み会ぐらいだ。
車で通勤しだしてからは、それもなくなった。
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2001年08月21日

台風の想い出

今回の台風はうまく北部九州を避けてくれたので、若干の風が吹いただけで終わった。雨も昼間にちょっと降っただけだった。
こんなことなら銀行に行っておくんだった。

台風といえば10年前の台風19号を思い出す。
この台風は、対馬海峡から日本海を通過して行った大型の台風で、各地に被害をもたらした。
青森のリンゴが壊滅状態になったのを覚えている人もいると思う。
その日ぼくは仕事だった。
大きな台風だというので、状況を見て店を閉めようということになっていたが、上の人間が優柔不断だったため、いつまでも閉店時間を長引かせていた。
午後7時で閉店の店だったが、5時を過ぎた頃から客足は途絶えて、5時半には店内にお客が一人もいない状況になった。
すでに近くのデパート「井筒屋」は店を閉めていた。
それを見て近隣の量販店や商店街の店は次々と店を閉めていった。
おそらく5時半の時点で店を開けていたのは、ウチぐらいだっただろう。
それでも上は閉店の指示を出せないでいた。
「1円でも多く売る」という店の方針がそうさせていたのだ。
テレビでは「JRが運行を見合わせた」というニュースをやっていた。
当時ぼくはJRで通勤していたが、これでバスで帰らなければならなくなった。
続けて西鉄北九州線も不通になり、6時を過ぎた頃には西鉄バスも運転をまもなくやめると言い出した。
それでも店を閉めない上司に「店にお客さんは誰もおらんやないですか。もうすぐバスもなくなるというのに、いつまで店を開けとくつもりですか!」とぼくは突っかかっり、独断で部下を帰らせた。
そうこうしていると、突然店の照明が消えた。
「やれやれ、やっと終わったか」と思ったが、消え方がおかしい。
どうしたんだろうと事務所を覗いて見ると、なんと停電したというのだ。
シャッターは下りず、店は開いたままだった。
結局店を閉めたのは6時50分、ほとんど通常と変わらない時間だった。
もはや西鉄バスも動かなくなっており、ぼくはいよいよ帰れなくなった。
仕方なく、おそらくまだ働いているであろう友人に電話し、「どうせ帰れんのやけ飲みに行こうや」と誘った。
そして2時近くまで友人と会社の不満をぶちまけあっていた。
帰る頃にはもう風はおさまっていたが、ぼくの会社に対する不満はおさまらなかった。
そしてぼくは一つの決断をした。
2ヵ月後、ぼくは11年勤めた会社を辞めた。
posted by 新谷雅老 at 17:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 想い出の扉 | 編集


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