2000年12月03日

予備校時代(1)

ぼくはわりと長い浪人時代を経てきている。
昭和51年春から昭和56年春までの5年間だ。
進学校だったにもかかわらず、ぼくは高校三年になっても進路が定まらなかった。
担任から「しんた、お前はどうするんか? 進学か?就職か?」とよく聞かれたものだった。
そのたびにぼくは「さあ?どうしましょうか?」と、他人事のような返事をしていた。
親が進学を希望していたので、とりあえず進学希望としたものの、音楽と文学にうつつを抜かしていたぼくに、合格する大学なんてあるはずもなかった。

課外授業や模試なんかも一切受けたことがなかった。
担任も、ぼくがいつもボーっとして勉強してないのを知っていたので、一般受験は無理だと思ったのか、F大の推薦入学を薦めた。
「どうだ、推薦にしてみらんか?するならすぐ手続きをとってやるぞ」
ぼくは『どうでもいいや』という気持ちで「じゃあお願いします」と言った。
「そうか、そうするか。よし、それなら・・・。・・・・・締め切りは今日やった。まあ、一般受験で頑張れ」 担任はその後、ぼくの進路について、とやかく言わなくなった。
一般受験と決めてからも、ぼくは何も勉強しなかった。
相変わらず、課外も受けずに、早く家に帰ってはギターのコピーや作詞作曲などをしていた。
そんなことをしながら三学期になった。ぼくの関心事は「大学に受かるか」よりも「無事卒業できるか」だった。
『卒業できないと、カッコ悪いな』ぐらいの感覚で、ギターを引く合間に少し勉強した。
何とか卒業は出来た。
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2000年12月04日

予備校時代(2)

しかし、やはり大学には合格しなかった。
母は「いつも勉強せんでギターばかり弾いとるけ落ちるんよ」と言って、何も同情しなかった。
結局、予備校に通うことになった。
が、ここでも勉強しなかった。
朝は遅刻し、昼飯を食ったらすぐ帰る生活が始まった。
遅刻は毎日で、予備校とは直接関係のない清掃のおっさんからも顔を覚えられ、「おう、また遅刻か」と言われるようになった。

授業にも実が入らず、詩を作ったり歌をうたったりしていた。
第一回目の公開模試の時だったと思うが、、数学がまったくわからず、時間がきても白紙状態だったことがある。
『どうせ白紙なんやけ、出さんでもいいやろ』と思い、答案用紙をくしゃくしゃにして家に持って帰った。
その夜、担任から「数学の答案用紙が出てないけど、どうしたんか?」という電話があった。
「はあ、全然わからんかったけ、持って帰りました」と答えると、担任はあきれた声で「はあ、そうですか」と言って、電話を切った。
翌日、いつものように遅刻して予備校に行ったぼくは、教室のドアを開くなり大爆笑の出迎えを受けた。
よく見ると担任がぼくのほうを指差しニヤニヤしている。
後で友人に「何があったんだ?」と聞くと、「担任が『昨日の模試で、数学がわからんと言って、答案を出さずに帰った奴がおる。白紙でも答案は出すように』と言った時にお前が入ってきた。そこで担任が『こいつです』と言ったので大爆笑になった」ということだった。

予備校時代はよく本を読んでいた。
そのおかげかどうかはわからないが、国語が異常によく、偏差値が東大の合格ラインに達していた。
しかし、英語と数学が最低の偏差値で、この成績で入れる大学なんてなかった。
他の教科は日本史がかろうじて平均以上だったぐらいだ。
勉強しないくせにこの結果を見て「おれには国立文系は合ってない!」と勝手に決めつけ、教科の少ない私立文系に移籍した。
結果は同じで、ここでも勉強しなかった。
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2000年12月05日

予備校時代(3)

この頃から中原中也に傾倒していった。
中也の年表を読んでいくと、彼も文学にのめり込み学校の成績ががた落ちになっていった、と書いてあった。
単純なぼくは「おれと同じやん」と、中也と同じ道をたどっている自分を誇らしげに思っていた。
中也、中也の毎日だった。

中也のどこに傾倒していったのか?
詩、それだけです。(生き方などはあまり参考にはならなかった)
ぼくは予備校時代まで、詩は作っていたものの、人の詩集なんて読んだことがなかった。
詩を作り始めたのは高校の頃からで、吉田拓郎の歌から入った。
その後ボブ・ディランに走り、ディランのわけのわからない詩を真似ていた。
無理矢理韻を踏ませたり、内容が突然飛んだりで、今読んでもよくわからない。(そういえば、ディランがあるインタビューで「ぼくの詩はでたらめです」と言っていたのを本で読んだことがある。)
詩を読むとなるとチンプンカンプンだった。

これはすべて現国のせいだと思っている。
だいたい詩の鑑賞というのは、読む人それぞれで感じ方が違うのであって、決まった答なんかあるはずもない。
それを重箱の隅をつつくように、「この言葉は何を象徴しているか?」とか「作者の意図するものは何か?」なんてやるものだから、暗号解読みたいな読み方になってしまう。
ということで、詩を作るのは好きだが、読むのは嫌いという状態に陥っていた。
その状態を救ってくれたのが中也の詩だった。

予備校帰りに本屋に立ち寄った時、中原中也という変な名前が気になり、その本を手にとってみた。
『朝の歌』や『臨終』という教科書に出てくるような作品で始まっていたせいもあり、相変わらずぼくは、―「この言葉は何を象徴しているか?」読み― をやっていた。
うんざりしてページをめくっていたら、『頑是ない歌』他数編に出会った。
暗号解読なんかとは程遠い詩だった。
「愚痴じゃないか。愚痴を詩の形に並べただけだ。こういう詩もあるんだ。これは面白い」とぼくはその本を購入し、それ以来中也への傾倒が始まった。
自ずと自分の作風も変わっていき、この長い浪人時代が終わるまで、ずっと愚痴ばかり書いていた。
投稿もこの頃から始めたが、当時のぼくの詩を読んだ人は、ぼくの愚痴を読んだことになる。
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2000年12月06日

予備校時代(4)

詩と読書とギターの予備校時代・・・
いや、もうひとつあった。
姓名判断である。
ぼくは自分の名前が嫌いで、いつか名前を変えてやろうと思っていた。
予備校に入った頃、野末陳平さんの「姓名判断」という本を買った。
それから姓名判断を、自分で研究するようになった。
今でもそうだが、とくに自分の興味あることに関しては、人の受け売りが嫌だ。
とにかく自分流を作り上げようとする。
姓名判断もそうだった。 
オリジナルを作ろうとした。
これは今もって完成していないのだが、いいところまでは来たつもりだ。

姓名判断はいい勉強になった。
それから何年か後、社会に出てから一応名刺交換をする身分になった時に役に立った。
初対面の人の性格や行動がわかるのだ。一目名前を見るだけでいい。
とくに性格は、外れた覚えがない。

予備校時代、この姓名判断の勉強が意外なところで役に立った。
国語である。
姓名判断をやっていると、自然に漢字を覚えるという特典が付いてくる。
ぼくが国語だけ偏差値が良かったというのは、姓名判断と無縁ではなかった。
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2000年12月07日

予備校時代(5)

予備校時代というのは、ぼくにとって小学校から続く一つの流れに過ぎなかった。
何ら生活に変わりはなかった。
相変わらず怠け者だった。
好きなこと以外にエネルギーを使うことをせず、暇があれば寝てばかりいた。

さて、一年間全然勉強しなかったのかというと、そうでもなかった。
受験前の一ヶ月間はみっちりやった。
1月に高2の同窓会があった。
みな大学や短大に行っている。
予備校通いはぼくを含めて3,4人しかいなかった。
引け目こそなかったが、やはり何かが違う。
何か余裕みたいなものがあって、充分青春している、という感じがした。
またこいつらと真剣に遊びたいな、という気持ちでいっぱいになった。
でも、そうするためには大学に入らなくてはならない。
そのためには受験というものに興味を持たなければならない。
もうその頃には、予備校には行ってなかった。
一生懸命勉強している人の邪魔をしたら悪い、という理由で勝手に退学したのだ。
「飽きた」というのが本音だったのだが。

とにかく机に向かった。自宅浪人の開始である。
まず不得手科目の克服だ、と英語の参考書を開け取り組もうとした。
その時、ぼくはふと英語の前にもっと不得手なものがあることに気がついた。
「そうだ! おれの一番不得手なものは勉強だったんだ!」
もう笑うしかなかった。
勉強の仕方がわからない。
かといって、今さらそんなことを言っても始まらないので、英語は「試験に出る英単語」で単語だけ覚えることにした。
日本史は、年表を覚えることに専念した。
意味もなく年表を覚えるのも重労働だった。(後年大の歴史好きになるのだが、この頃はまだ何の興味もなかった)
国語は、詩作と姓名判断でまかなった。
受験勉強とはいっても、一夜漬けを一ヶ月続けたに過ぎなかった。
結局、また落ちた。

              < 予備校編 完>
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2000年12月08日

孤独と焦燥(1)

浪人1年目の正月(昭和52年)に太宰府天満宮に行った。
ここは好きな場所で今でもちょくちょく行っているが、この時は受験生だったので、それまでとは違う何か張りつめたものがあった。
「天神様、奇跡が起こりますように」と祈り、おみくじを引いた。
一瞬固まってしまった。
<大凶>だった。
「これはいかん!方位が悪かったんだ」と思い、慌てて電車に駆け込み、福岡市内へと向かった。

天神に着き、警固神社におみくじを引きに行った。
また固まった。
<大凶>だった。

何かの間違いだと今度は住吉神社に行った。
勘弁してくれ。
またまた<大凶>だった。
泣きたい気持ちで愛宕神社に行き、「これが正しいんだ」と念じながらおみくじを引いた。
結果は<凶>だった。
目の前が真っ暗になった。
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2000年12月09日

孤独と焦燥(2)

そのおみくじが現実になる時が来た。
3月、受験した大学に全部落ちた。
真っ暗な時代が幕を開けた。

受験したすべての大学に落ちたことで、「もう大学なんかに行くものか!」という気分になっていた。
「とりあえず夜間の短大でも入って、そこで将来のことを考えたらどうか?」という知人の助言もあり、近くのK短大を受けることにした。

ここは願書を出すだけでOKという短大で、授業料もさほど高くなく、場所は家から1、5Km位の位置にあった。
ぼくは自転車で願書を取りに行った。
退屈そうな男の事務員が、面倒臭そうに「ああ、ここを受けるんかね。ふーん」と言いながら願書をくれた。
家に願書を持って帰り、早速書き始めた。

翌日、願書の続きを書いていると突然テレビから「北九州市にあるK短期大学が倒産しました」というニュースが流れてきた。
唖然としたぼくは「あのおっさん何も言わんかったやないか!」と文句をいいながら願書を破り捨てた。
「さあ、どうしよう?」
ぼくはそこからのことを何も考えられずにいた。
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2000年12月10日

孤独と焦燥(3)

その翌日、とにかく何かしないとと思い、アルバイトニュースを片手にバイト探しを始めた。
もう4月に入っていた。
アルバイトニュースを開いてみると<小学館>という文字がぼくの目に飛び込んできた。
『おお、これは幸先いい。しかも職種が企画と来ている』 出版関係に興味を持っていたぼくは、すぐにここを選んだ。

電話してみると「面接するから来てくれ」ということだった。
ぼくは慌てて履歴書を書き、その会社まで持っていった。
そこにはスーツを来た5,6人の男性社員がいた。
面接らしきことをして,「明日から来てくれ」ということになった。
『何だ。面接なんか意外と楽やん』とたかをくくった。
この慢心が後々命取りになるのだった。
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2000年12月11日

孤独と焦燥(4)

その夜電話が入った。
伯母からだった。
内容は、「じいちゃんが死んだ」だった。
祖父は1年程前から入院していた。
死因は老衰だった。
好き勝手に生きたのだから、いい人生だったのだろう。

翌日バイト先に電話して、休みを取らせてもらうことにしたが、「もういいです」と言われ断られた。
初七日がすみ、またバイト探しを始めた。
アルバイトニュース,新聞の求人欄,職業安定所などの情報を元に、これはというところを手当たり次第に電話しようと思った。
が、やる気が起こらない。
また明日、また明日ということで先延ばしにし、5月になった。
親にはゴールデンウィークが終わったら真剣に探すからといいながら、家でギターを弾きボーっとしていた。
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2000年12月12日

孤独と焦燥(5)

さてゴールデンウィークが終わりバイト探しを再開したが、相変わらずやる気が起きない。
面接を受けるのは受けたが、こんな状態の人間を雇う企業なんかどこにもない。
職種も一貫したものがなく、手当たり次第だった。
あるオーディオメーカーの販売員派遣会社を受けたのだが、その時「君はこういう仕事には絶対に向いていない」と断定された。
でもそれから数年後ぼくはそういう職種に就いており、その時の評価は「販売の仕事をするために生まれてきた男やね」だった。
その時の状況で、評価が180度変わってしまう。おかしなものである。

最後に目先を変えて、福岡天神にある『照和』というライブハウスに挑戦してみた。あわよくばここで雇ってもらおうという考えだった。
ここはチューリップや井上陽水などを世に出した伝説のライブハウスで、アマチュアミュージシャンの聖地である。
汚い格好をして行った。
頼み込んで20分ほど歌わせてもらった。
が、気分が乗らない。反応もよくない。
結局期待していた「歌いに来て下さい」という声はかからなかった。
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2000年12月13日

孤独と焦燥(6)

バイト探しは、大学受験と同じように次から次に落とされて、数えてみたら3週間で26回落とされていた。
「照和」の翌日から、ぼくは外に出ることをやめた。
いや、外に出ることが怖くなったのだ。

こんなことは初めてだった。
電話に出るのにも、びくついている状況だった。
どんなに晴れた日でも、フィルターがかかっていて、見るもの見るものが暗く見えた。
自分の世界に閉じこもってしまい、ヘンな夢ばかり見てしまう。

昔のことを思い出してばかりいた。
高校時代の仲間達は今頃どうしているんだろう? きっと充実した青春を送っているんだろう。
彼らとぼくのどこがどう違うのだと、運命を呪ったりもした。
このままの状態で、何も出来ず一生が終わるんじゃないかと思うこともあった。
友人が遊びに来たりすることもあったが、以前のような付き合いが出来ない。
たまに行きつけの喫茶店に行ったりもしたが、「あんた暗いねぇ」などと言われ、また落ち込んでしまう。

当時の写真を見てもやはり暗い。
今でもこの時代をぼくの人生から削除したい、と思うことがある。
本当に辛い時期だった。
何もしないぼくを見て、親はいつも小言を言った。
けんかになった。
怒りは親に対してのものではなかった。
自分の運命やふがいなさに対してのものだった。
こんな状態が5月末から7月末までの2ヶ月間続いた。
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2000年12月14日

孤独と焦燥(7)

この2ヶ月間何もしていなかったのかといえばそうではなく、読書と求人チェックだけは欠かさずやっていた。
その頃はもう中也の詩は一段落しており、代わって中国思想シリーズへと突入していた。
「自分を鍛えなおさなければ」といった意味ではなく、なにか心の拠り所になるものを求めていたのだ。
一種ノイローゼ気味な生活の中に、どこか心を遊ばせようとしていたもう一人の自分がいたことは嬉しい。
もしこのバランス感覚がなかったとしたら、今頃こうやってHPの更新をしている自分なんかいなかったと思う。
おそらくもう死んでいるか、廃人同様に生きているかしていただろう。

その頃は格式ばった孔孟には興味はなく、自由奔放な老荘ばかり読んでいた。
漢文で習った老荘というのは何か古めかしく堅苦しい感じがしたものだが、現代語で読む老荘は新鮮で面白く且つためになる。
この老荘学習は、ぼくのその後の人生において大きな影響を与えた。
老荘の言葉を勉強したということにはさして意味はないが、自分の人生や経験に照らし合わせながらする勉強がある、ということを発見できたことは大きい。
これに比べると、受験のためにする勉強というのはなんとくだらないことなんだろう。
これからのち、ぼくはそういった意味での勉強ばかりやって、今に至っている。
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2000年12月15日

孤独と焦燥(8)

さて、求人チェックは毎日やっていたのだが、なかなかこれはというバイトに巡り会わない。
7月末、ノイローゼ生活に飽きてきた時に一つの求人広告を見つけた。
A競艇場の警備員募集だった。
競艇の開催期間に人員整理をする仕事だった。
簡単そうな仕事だと思ったぼくは、早速その会社に連絡を取った。
そして2ヶ月ぶりに面接を受けた。
結果は採用だった。
履歴書を見るなり「来週から来て下さい」と言われた。
「何でこんなに簡単に受かるんだろうか? 前の26回はなんだったんだろう?」とぼくは思った。
とりあえずそこでバイトすることにした。

警備員といっても、周りは年寄りばかりだった。
2、3人若い奴がいたが、休憩中にいつも本を読んでいるぼくを見て「あいつ変わっとる」などと陰口をたたいていた。 そいつらとは友達にならなかった。
さて仕事のほうはと言えば、これがまた退屈な仕事で、入場券の自動販売機の前に立って見張りをするだけだった。
これを30分して15分休憩する。一日この繰り返しだった。
最初は、開場前入場ゲート前に並んでいる客の整理をやらされていた。割り込みがないか見張るのである。
「もし割り込みをする人がいたら注意するように」と言われていた。

このバイトを始めて2日目に割り込みを見つけた。
やくざ風の男だった。
『これは注意しないと』とぼくは思い、「割り込まんで下さい!後ろに行って下さい!」と大声をあげて言った。
すると、そのやくざ風は「コラ??、誰に口をききよるんか!」と声を凄んで言った。
「あんたに言いよるんですよぉ。割り込むなっち言いよるでしょうが!」とぼくは応戦した。
「おい、ここでそんなこと言いよったら、命がいくつあっても足らんぞ!」
「わかったけ、後ろに並んで下さい!」

そのやりとりを見ていた上司が血相を変えて止めに入った。
「ここはいい。事務所に戻って」と言った。
納得のいかないぼくは「あんたが注意せえと言うたんでしょうが!」と上司にも食いついた。
顔色を変えているのは、ぼくとやくざ風と上司の3人だけで、それを見ていた多数のお客は笑っていた。
ということでぼくは自動販売機の仕事に回され、客の整理は二度とさせてもらえなかった。
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2000年12月16日

孤独と焦燥(9)

自販機の仕事は本当に退屈だった。
BGMにポール・モーリアの「オリーブの首飾り」が繰り返しかかっていた。
このときから、ぼくはこの曲が嫌いになった。
この曲を聞くと、大半の人はマジックショーを思い浮かべるだろう。
でも、ぼくは夏の競艇場の自販機を思い浮かべる。

「オリーブの首飾り」を午前10時から午後3時まで聞いて、そのあと4時半に帰るまで場内の後片付けや清掃などをする。
その中に国旗を降ろすという仕事があった。
国旗掲揚台から国旗を降ろすという単純な仕事なのであるが、ここでまたぼくは問題を起こした。

ある日「国旗を降ろしてきて」と例の上司から言われ、ぼくは事務所の2階にある国旗掲揚台に行った。
降ろそうとするとハンドルが回らないので、事務所に戻り「あのー、ハンドルが回らないんですけど」とぼくは言った。
上司は「そんなことはないやろ。力を入れんと回らんよ」と言った。
「力は入れてるんですけど」
「じゃあ、力の入れ方が足りんとよ」
「そうですかねぇ」と言って、ぼくは2階に行った。
やはり回らない。
また上司の顔を見るのが嫌だったので、今度は力任せに回してみた。
すると、真鋳で出来ているハンドルが折れてしまった。
『あーあ、どうしよう』
とりあえずぼくは事務所に戻り、上司に報告した。
「えぇっ!? 折れるわけないやろ。真鋳で出来とうのに」と言いながら上司は2階に向かった。
「あ??あ・・・ 何で折れたん?」
「力を入れて回したらこうなったんです」
「力がありそうに見えんのやけど・・・ しょうがない。もういいよ」と上司は憮然とした顔で言った。
その日以来、国旗は降りなかった。
バイトをやめて1ヶ月ほど後、この競艇場の前を通ったことがある。
競艇期間ではなかったのに国旗はあがっていた。
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2000年12月17日

孤独と焦燥(10)

国旗掲揚台事件があってから何日か後、ぼくはバイトを辞めた。
別にクビになったわけではなく、次のバイトの採用が決まったからだった。
でも、嫌気がさしていたのは確かだ。
結局警備のバイトは8月から9月の中旬まで、競艇の開催日が1週おきにあるため実質3週間働いたことになる。
やる気のなさから抜けきれなかったために、このバイトは何も得るものはなかった。
また、浮いた存在になってしまっていたせいか、人間関係も築けなかった。

さて、このバイトを辞める前に、ぼくはあるところの面接を受けていた。
「北九州市政だより」で募集していた中国展のバイトだった。もちろん市の仕事だった。
期間限定だったため始めは躊躇したが、とりあえず受けてみようという気になったのは、先に書いた通り警備のバイトに嫌気がさしていたためだが、それと同時に警備会社の面接に受かった時の感触を忘れないうちにもう一度味わいたかったというのもあった。
つまり勝ち癖をつけたかったのだ。

面接には汚いなりをしていった。
サンダル履きで、ジーンズを捲り上げ、首にはタオルを巻いて面接に挑んだ。
面接は5人単位で行われた。
一人一人に質問をしていった。
ぼくへの質問は「体力がありそうですねえ」だけだった。
ぼくは「はい・・・」と言っただけだった。
次の人へ質問は移り、およそ10分ほどで5人の面接は終わった。
他の人への質問はぼくよりは長かった。

おそらく落ちただろうと諦めていたら、8月末に採用通知が来てしまった。
まったく、5月に受けた26回の面接はなんだったんだろう、と思わずを得ない。
ぼくはこの時から現在に至るまで、バイトを含めて二十数回の面接を受けたが、落ちたのは、失業保険を受けるためにたてまえの面接をやった2〜3度ぐらいで、あとは全部受かっている。
中国展の面接に合格したことが、今でも大きな自信になっている。
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