2022年07月09日

昭和52年の夏

 カラコロという音がすると、縁側で寝ている猫が首をもたげて「ニャー」と鳴く。
「何でこの猫は、下駄の音に反応するんだ?」
「それは幼い頃に、下駄で尻尾を踏まれたからだよ」
「なるほど。それでこの猫の尻尾の先は曲がっているんだ」
「あー、触っちゃダメだよ」
「何で?もう痛みなんて、とっくに引いているはずだろ」
「そうじゃない。この猫は今でも尻尾のことで恨みを持っているんだ」
「えっ。恨みって、猫が?」
「そうだ。だから尻尾を触られると、下駄に踏まれた昔を思い出して恨みを晴らそうとするんだ」
「まさか取り憑くわけじゃないだろうな」
「そのまさかだ。こいつももう高齢だ。もし取り憑いたら大変なことになるぞ。そっとしておけ、そっと・・」
 外からは相変わらず、カラコロと下駄の音がする。
 縁側の猫は相変わらず、首をもたげて「ニャー」と鳴く。
posted by 新谷勝老 at 07:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思い出 | 編集

2022年07月10日

王冠

 小学何年の時だったかは忘れたが、7月から8月にかけて、ジュースやビールの王冠を集めていた時期がある。
 王冠は、酒屋さんの空き瓶置き場にあったものをもらって集めていた。酒屋さんは王冠の宝庫で、数々の珍しい王冠を手に入れることが出来たのだ。県外の特産ジュースの王冠、なぜかジュース瓶に入ったコーヒー牛乳の王冠、家ではお目にかからない酒類の王冠。当時は珍しかったオリオンビールや、海外のビールの王冠もそこで手に入れたのだった。

 ただ、ぼくが一番好きだった王冠は、酒屋でしか手に入らないような珍しいものではなく、三ツ矢サイダーの青の王冠だった。
 当時の三ツ矢サイダーには、赤の王冠と青の王冠があったのだが、なぜか赤の王冠に安っぽさを感じ、青の王冠に高級感や威厳を感じたものだった。
 元々黄色や赤系の色が好きだったぼくは、ある日突然青系の色を好むようになったのだが、きっとその要因の一つに三ツ矢サイダーの王冠があるはずだ。

 さて、そういやって集めた王冠も、夏が終わると興味がなくなり、いつの間にか捨てていた。いや、捨てられていたのだろうか。もしその時捨ててなかったとしたら、缶全盛の現在だから価値が出たかもしれない。
posted by 新谷勝老 at 07:00 | 思い出 | 編集

2022年07月20日

終業式の日に

 終業式の日にもらうものの一つに、通信簿というやっかいなものがあった。中には互いに見せ合っている者もいたが、ぼくの場合、自慢できるような点数をもらっているわけでもなく、また、先生の寸評が誰のよりも手厳しかったので、誰にも見せたくないし、見られたくもなかった。

 家に帰ってから、その誰にも見せたくない見られたくない通信簿を、一番見せたくない見られたくない親に見せなければならず、それが憂鬱だった。
 父兄面談で親はすでに見ているので
「今学期は通信簿はなかった」
 などという嘘をつくわけにもいかぬ。通信簿を見せると、決まって小一時間は詰められる。その時間は必ず正座をさせられ、言い訳は一切許されず
「勉強します」
 と約束するまで解放されない。
 解放されたあとも、テレビを見ていると
「さっきの約束はどうなったと?」
 と言われ、マンガを読んでいると
「夏休みはどこにも連れて行かん」
 と言われ、想像するだけでウキウキワクワクするおよそ40日間に、暗いフィルターがかかってしまう。

 しかし、父兄面談ですでに見ているのなら、何でその日にそのことを言ってくれないんだ。と、いつも親を恨んでいたものだ。
posted by 新谷勝老 at 06:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思い出 | 編集

2022年07月26日

煤けた箱

 前の会社にいた頃、たまに倉庫で荷受けをすることがあった。

 ホームセンターだったので、毎日かなりの量の商品が入荷していたのだが、時々その中に間抜けな簡字体漢字と不格好な仮名文字が印刷してある、煤けた段ボール箱群が混じっていることがあった。

 ぼくはこの箱を触るのが嫌だった。妙な臭いがするし、虫でもいるのか触った後はいつも腕にブツブツが出来ていたのだ。
 そこでこの箱を検品する時は、それが夏の暑い時でも長袖のジャンバーを着込み、分厚い軍手をはめて、直接肌に触れないようにしていたものだ。

 側面に中華人民共和国と書かれたその箱は、ほかの荷物といっしょに大型トラックでうちの店まで運ばれてきたのだが、運転手さんはいつも同じ人だった。いい人で、よくコーヒーなどを奢ってくれたものだ。
 ある日その運転手さんから、「よかったらこれ食べて」と、小さな紙袋をもらったことがある。中身は肉まんで、これがすごくおいしかった。
「これも中華人民共和国ですか?」とぼくが聞くと、
「そんなわけないやろ」と言って、運転手さんは笑っていた。
posted by 新谷勝老 at 06:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思い出 | 編集

2022年08月07日

出張時

 昨日掲載した短歌
『出張時、新幹線の改札で、
定期券見せて、呼び止められる』
 何のことかわからないと思うので、ちょっと説明しておきます。

 今から30年以上前、広島に出張した時のことだ。日帰りの出張で、朝9時からの会議だったため、6時前に家を出た。
 会議が終わったのが、夜の7時。ようやく解放され、広島駅で食事をとり、北九州に戻るために新幹線の改札を通ろうとした。
 その頃はまだ自動改札ではなく、駅員さんが切符を切っていた。そこをぼくは、定期券を見せて通り抜けようとした時だった。駅員さんが、
「お客さん、ちょっと」と言った 。
「えっ?」と、ぼくが振り向くと、その駅員さん、
「乗車券は?」と言う。
『定期券の期限が切れたんかな』と思い、ぼくは手に持った定期券を見てみた。
 定期券には『小倉−黒崎』と書いてある。期限も切れてない。そこでその定期券を駅員さんに見せようとした。
「あっ!」
 その時ようやく、ここが広島だと気づいたのだ。慌てて、ポケットから新幹線の切符を取り出し、切符を切ってもらった。

 という話です。疲れていたんですね。
posted by 新谷勝老 at 06:33 | 思い出 | 編集

2022年08月08日

遅刻の思い出

 高校三年の頃、バスが故障して動かなくなったことがある。学校間近の路上でのことだ。もし故障してなかったら間に合っていたと思うが、その時そのバスのせいで遅刻してしまった。

 いつも遅刻していたぼくは、いつものように担任から職員室に呼ばれ、いつもと同じお小言をいただく。
「おまえはどうして遅刻したんか?」
 いつもは言い訳はしなかったが、さすがにその時ばかりは言い訳をした。
「バスが故障しました」
「何バレるような嘘を言っとるんか」
「本当です」
「バスが故障するわけないやろうが」

 バスは遅延証明が出なかったので、それを証明するものがない。頑固一徹な先生だったから、そのことで言い争いなんかすると、かなり時間がかかってしまう。そこで、もう何も言うまいと思った。

 するとその時だった。そのバスに乗っていた下級生が、同じく職員室でそのことを言っていたのだ。下級生の担任は物わかりよく、
「そうか、バスが故障したんか。それならしかたないなあ。はい、わかりました」と言っていた。えらい違いである。

 その先生がぼくの担任に向かって、
「先生、バスの故障は本当らしいですよ」と言ってくれた。
 これで言い訳が通った、と思っていたら甘かった。
「故障するバスに乗った、おまえが悪い」、である。
 結局バスの故障は認められず、ぼくは遅刻扱いになってしまったのだった。さすがに、この時は悔しかった。
posted by 新谷勝老 at 06:35 | 思い出 | 編集

2022年08月09日

運命の分かれ道(前編)

 高校三年(1975年)の12月のある金曜日のこと。その日、家にいるのはぼく一人だった。夜8時頃だったか、二階の部屋でギターを弾いていると、一階から電話の鳴る音がした。慌てて階段を駆け下り、電話に出た。

「もしもし」
「お母さんいますか?」
「母は今出かけていますが」
「そうですか。じゃあ後でかけ直します」
 聴いたことのある声なのだが、相手が名前を言わないから、誰かわからない。しかし、かけ直すということだったので、気にしないでおいた。

 母が帰ってきたのは9時を過ぎていた。
「電話かかっとったよ」
「誰から?」
「さあ?聴いたことある声やったけど、名前は言わんかった。かけ直すとは言ってたけど」
 しかし、その夜電話はかからなかった。いや、その夜だけではなく、その翌日も、そのまた翌日も、ずっとかからなかった。

 その翌週の金曜日、三者面談があり、担任と母とぼくの三人で進路の話し合いを行った。開口一番担任は、
「これは提案なんですが、X大学の推薦を受けてみませんか?」と言った。「実は先週、その件でお母さんに電話をしたんですが、いなかったんですよ。風呂に入った後にかけ直そうと思っていたんですが、忘れてしまって。ハハハ」

 聴いたことのある声だと思っていたが、あの電話は担任からだったのか。電話越しで、しかも他人行儀に話すのでよくわからなかった。
『何が「ハハハ」だ。電話をかけ直さなかったのを覚えているのなら、それに気づいた時に電話すればいいじゃないか』と、ぼくはその時思っていた。

 この担任の風呂の一件が、ぼくの運命を大きく左右することになる。

続きます──
posted by 新谷勝老 at 06:41 | 思い出 | 編集

運命の分かれ道(後編)

──続きです

 担任は続けた。
「その推薦なんですが、実は締め切りが明日の午前中なんですよ。今日願書を持って帰り、必要事項を書き込み、明日それをX大学に直接持って行ってもらわなければなりません」
「えっ!?」

 X大は福岡市にある大学だ。今でこそ野球の観戦やコンサートを見に行ったり、仕事で訪れることが多くなったが、当時のぼくはあまり福岡市に行ったことがなく、博多駅近辺以外の地理がまったくわからなかった。そこでぼくは、
「大学は福岡市のどこにあるんですか?」と聞いてみた。すると担任は、
「博多駅からバスが出ているから、それに乗って行けばいい」と言う。
「駅のどこからバスに乗ったらいいんですか?」と聞くと、担任は、
「そこまではわからんが、その辺の人に聞けばわかるだろう」と言った。

 つまり、翌日の午前中までに願書を出すためには、持って帰った願書に必要事項を焦って書き込み、翌朝早く家を出て、一時間近くかけて博多に行き、駅のどこにあるかわからないバス停をその辺の人に聞きまくって探し、そこからどのくらい時間がかかるかわからない大学までバスで行き、大学内で事務所を探し、そこで願書を提出しなければならないわけだ。どう考えても面倒だ。

 ということでぼくは、
「推薦はいいです。一般で受けます」と言って、担任の提案を断った。担任は
「そうか、一般で受けるか。お母さん、それでよろしいですか?」
「はい、本人が決めることですから」
「じゃあしんた、一般で頑張れ」

 これがぼくの運命の分かれ道になった。もし、あの日担任が風呂から上がった後に電話をくれていたら、ぼくはとりあえず推薦入試を受けていたと思う。そして余裕を持って丁寧に書いた願書を、郵送で提出していたはずだ。その後X大に入り、今とは違った人生を辿っていたに違いない。

 つまり、一般で頑張れなかったということになるのだが、もしその大学に入っていたとしたら、高校を卒業してからの波瀾万丈を体験できなかっただろうし、そのことを書き綴るブログもやらなかったはずだ。そう考えると、面白くない人生になっていたのかもしれない。


 卒業してから数年後、担任からハガキが届いた。そこには、
「その後どうされていますか。気になっています」と書かれていた。その時は返事を出さなかったが、ちょうどいい機会だ。今ここで返事を書くことにしよう。
「あなたが風呂に入ったおかげで、面白い人生を歩ませてもらっています。感謝していますよ、先生」
 先生、まだ生きてるのかなあ?
posted by 新谷勝老 at 12:12 | 思い出 | 編集

2022年08月12日

枯れた白

 20歳の頃だったか、Gパンセンターにシャツを買いに行った時の話である。
 店のお姉さんから、
「どういう色がよろしいですか?」と聞かれた。
 欲しい色はイメージしているのだが、その色の名前がわからない。さて、何と言ったらいいのかと考えているうちに、とっさに出た言葉が、
「枯れた白」だった。
「えっ、枯れた白?」
「はい」
 それ以上考えつかなかったのだ。
「枯れた白ねえ・・。ちょっとお待ちください」

 しばらくして、お姉さんが戻ってきて、
「枯れた白、これでよろしいですか?」と言った。
 お姉さんが手に持ったシャツは、ぼくがイメージした色そのものだった。
「これ、何という色なんですか?」
「薄いベージュですね」
 この時、ぼくは初めてベージュという色を知ったのだった。
 
 図画が嫌いだったぼくは、色にも疎く、例えばカーキ色やコバルト色などと言われても、頭に浮かぶのは、カーキ色は『柿色でなかったな』で、コバルトは鉄腕アトムの兄さんの名前だ。その色がどんな色なのかが出てこない。

 しかし「枯れた白」はよかったな。そのことを知らなくても、国語力さえあればなんとかなる、ということに気づかされた言葉だ。
posted by 新谷勝老 at 06:35 | 思い出 | 編集

2022年08月15日

図画が嫌い

 小学二年の秋だった。図工の時間に、前の日曜日に行われた運動会の画を描くことになった。
 ぼくは、数人で走っている場面を描いたのだが、出来がよかったので、一人で満足していた。

 ところがだ。先生が、わざわざぼくの画を黒板に貼り、皆に向かって、
「よく見て下さい。この画はおかしいですね。先生の目には、中に描かれた人たち全員が倒れているように見えるんですが、N君はどう思いますか?」
「全員倒れているように見えます」
「Kさんはどうですか?」
「はい、倒れているように見えます」
「そうですね。しんたくん、もう少し工夫して描いて下さいね」

 これで自信をなくしたぼくは、わりと好きだった図画が嫌いになった。
 以来、犬を描けない、猫を描けない、人物画などもってのほかだ。中学の頃、美術の作品をまともに提出したことがなかったのだが、それもこのことが根底にあったのだ。

 もちろん高校の芸術課目は美術を選択しなかった。同じく作品を提出しなければならない書道も却下。結局人前で歌うだけで点数をもらえる気楽な音楽を選んだのだった。

 その後、竹久夢二や谷内六郎の画に興味を持ったことはあるのだが、観るのがやっとで、画を描いてやろうなどとは一切思わなかった。
 ということで、今世のぼくは、画とは縁のない人生を歩んでいるのあります。
posted by 新谷勝老 at 06:44 | 思い出 | 編集

2022年08月19日

中三の夏休み

1,1972年夏
 1972年夏、ぼくは翌年に高校受験を控えた中学生だった。中学に入って思春期を迎え、自分の変化に戸惑いながら二年間を生きてきた。それまではその戸惑いが影響していたのか、おかしな行動ばかり取っていたが、中三で何とか落ち着くことが出来た。ただ、当時好きな人がいたのだが、その人を前にするとどう処していいのかがわからない。そのため、その人の前だけはおかしな行動をとり続けていた。

2,元気です。
 その頃、吉田拓郎さんの『元気です。』というアルバムが売れに売れ、ラジオからは連日拓郎さんの歌が流れていた。『祭りのあと』が好きだったな。ただ、その時期はまだ拓郎さんを聞いてギターが弾きたいとは思わなかった。当時好きだった人は、起爆剤にはならなかったということだ。起爆剤になる人に出会うのはそれから10ヶ月ほど先になる。アルバム内の『ガラスの言葉』という歌があるのだが、最初の頃はそれほど好きな歌ではなかった。それを気に入るのは起爆剤に出会った後だった。きっと起爆剤の人は、音楽を目覚めさせるために、ぼくの人生に登場したのだろう。いまだにその曲を気に入っていて、その曲を聴くたびにその人の面影がよみがえる。

3,あしたのジョー
 当時愛読していたのは少年マガジンで、お目当ての『あしたのジョー』は、ハリマオ登場前後だった。丈の野生化を企てた白木葉子の決断は、結果的にジョーの白い灰を早めることになる。
 葉子はやはり、ジョーの言うところの、「運命の曲がり角に待ち伏せしていて、ふいにおれをひきずりこむ。悪魔みたいな女」だったのだろう。
 あしたのジョー、ぼくとしてはハリマオからホセ・メンドーサまでの時期よりも、その一年前の力石の死のショックから立ち直り、カーロス・リベラと死闘を繰り返す時期の方が好きだったな。

4,中三の夏休み
 さて、翌年に高校受験を控えた中三の夏休みといっても、ぼくは別に勉強していたわけではなかった。ラジオを聴いたり、マンガを読んだり、友だちと泳ぎに行ったり、テレビで『肝っ玉かあさん』の再放送を見たり、親戚に行って犬をからかったりの毎日だった。志望校も決まってなかったし、受験というのが今ひとつピンとこなかったのだ。結局その後3学期になってもピンとこず、受験の前日まで超能力や呪文の勉強をしていたのだった。
posted by 新谷勝老 at 07:00 | 思い出 | 編集

2022年08月21日

赤い発疹

 四十数年前、ぼくが高田馬場で下宿生活をしていた時の話だ。
 そこは建て付けの悪い下宿屋で、人が歩くだけで揺れる揺れる。ちょっとした音を立てても響いてしまう。そういう環境の中で、ぼくはギターを弾いていた。そのため、大家からいつも苦情を受けていた。
 友だちを連れ込むと文句を言ってくるし、夜11時になると鍵をかけてしまうし、そのうちぼくと大家の中は険悪になった。
 いつも引っ越そうとは思っていたが、楽器などにお金を費やしていたため、その資金がない。それで我慢していたのだった。

 さて、そこに住んで二年目のことだった。バイト先で着替えをしていると友人が、
「背中どうしたんだい」と聞いてきた。
「どうかなってるんか」と聞くと
「赤い発疹がたくさん出来ているよ」と言う。
「そんなに酷いことになってるんか」
「かなり酷い。発疹の一つ一つが大きいし、皮膚病か何かじゃないか。早く病院に行ったほうがいいよ」
 その何日か前から背中が痒くて痒くてならなかった。しかし、まさか赤い発疹が出来ているなんて思いもしなかった。
 そこでさっそく病院に・・、とはいっても、こちとら病院嫌いの貧乏人ときている。病院なんか行きたくもないし、行けないし。しばらく痒さに耐えながら生きることとなった。

 赤い発疹の正体が何だったのかというと、杞憂した皮膚病ではなく、ダニ痕だった。埃でざらつく畳の上にゴロ寝したのが悪かったようだ。
 原因がわかるとすぐさまぼくは、畳の六畳間全体にマイペットの原液を染みこませ、何度も何度も、ゴシゴシゴシゴシと畳を磨き上げたのだった。

 もちろんその音に敏感に反応した大家は、早速文句を言ってきた。
「何やっているの?」
「何やっているのじゃないですよ。ここではダニを飼っているんですか?」
 いつも苦情を受けていたので、お返しとばかり、ぼくの方から苦情を入れてやった。
「ダニなんているわけないじゃない。他の部屋の人からも聞いたことないよ」
「じゃあ、何で噛まれてるんですか?」といってぼくは、背中を見せた。
「・・・」
 その後、大家からの苦情は、多少減った。
posted by 新谷勝老 at 07:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思い出 | 編集

2022年08月22日

災難は続いた(前)

 四十数年前に住んでいたのが高田馬場。建て付けの悪い下宿屋で、面白くない生活を送っていた。

 そこに住んで二年目のことだった。赤い発疹騒ぎから十日ほど経ったある日、ぼくは金銭的な理由から、その前日と前々日の食事を抜いていた。そのせいで腹が減って減ってたまらない。おそらくそのことが仕事に影響したのだろう、その日はえらくポカが多かった。

 それを見かねたのか、単にタイミングがよかったのか、そのへんは定かではないが、職場の人がアイスクリームを奢ってくれた。
「乳脂肪と糖分か。これはお腹が膨らむな。この際冷たくても何でもいいや」
 と、ぼくはそのアイスクリームを食べ、これまたもらったタバコを立て続けに吸った。

 さらに親切な職場の人は、帰り際に「これはもう売れないから」と、消費期限の微妙なカップラーメンをくれた。それを見てぼくは感激した。
「おお、今日は飯にありつける!」
 ぼくはそのカップラーメンを片手に、温かな気持ちで家路を急いだのだった。

 夜中、事件が起きた。
posted by 新谷勝老 at 07:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思い出 | 編集

災難は続いた(後)

 温かい気持ちで下宿に帰ったぼくは、さっそくヤカンに水を入れて、すすけたガスコンロに火を付けた。そしてお湯が沸くまでの間、バイト先でもらったマイルドセブンを三本ほど吸った。
 しばらくしてお湯が沸き、カップに注いだ。三分間後ふたを開け、箸を手にとり、つまんだ麺と濃いめのスープを空っぽのお腹の中に流し込んだ。
 一気に食べ終えたぼくは、再びマイルドセブンに火をつけた。それを吸い終わると生水を飲み、またもやマイルドセブンをくわえたのだ。
 ところが、立て続けのタバコのせいなのか、数日間空だった腹に、脂っこい麺を一気に流し込んだせいなのか、賞味期限が微妙なせいなのか、すこし気分が悪くなった。
「起きているとさらに悪くなる」と思ったぼくは、とりあえず横になり、気分の回復を待つことにした。

 そのまま眠ってしまったようだ。その眠りの意識の中、腹の奥に種のようなものがあるような感じがした。「何だこれは!」と夢で叫んだ時に目が覚めた。
 それからしばらくして、それはやってきた。みぞおち近くを鋭利なもので内側からググッと突かれるような激しい痛みだ。
「何だこれは!?」、生まれてから一度も味わったことのない激痛だった。
 一度は治まった。しかしすぐに、その次が来た。
「何だこれは!?」「何だこれは!?」「何だこれは!?」
 何度も何度も激痛が襲ってきた。その周期は三十分おきが二十分おきに、二十分おきが十分おきにというふうに時間が経つごとに狭まっていった。酷い時には三分置きで、それが一週間続いた。
 その間、貧乏人のぼくは病院へも行けず、仲が悪かった下宿屋の大家には助けを求めることも出来ず、ダニのいなくなった下宿部屋で一人のたうち回っていたのだった。
posted by 新谷勝老 at 15:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思い出 | 編集

2022年08月25日

猫の・・・

 以前猫の交尾を見たことがある。近くの本屋まで歩いている時のこと、ある民家の庭に何かを感じた。その感じのするほうに目をやると、そこで猫がやってやられてやっていた。
 最初猫は気づかなかったようだ。二匹で必死にやってやられてやっていたが、こちらの気配を感じたとたん、急にやってやられてをやめた。
 その時の猫の表情が忘れられない。いかにも悔しそうな、いかにも不愉快そうな顔をしていた。

 何においても人間というのは、気持ちのいい行為をする時は、人目をはばかるものだが、猫は違う。いつでもどこでも本能の命ずるままに、やってやられてやっている。
 とはいうものの、いっちょ前に迷惑だけは感じているようだ。
「見世物じゃないぞ、どっか行け!」
 あの時、猫は目でそう言っていた。
posted by 新谷勝老 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思い出 | 編集


Copyright(C) 2000-2022 しろげクラブ. All rights reserved.