2001年10月02日

明日「井筒屋黒崎店」が移転オープンする

明日「井筒屋黒崎店」が移転オープンする。
昨年潰れた「黒崎そごう」跡に入居するのだ。
考えてみると黒崎地区は、昨年からいろいろな出来事があった。
まず「長崎屋」の倒産、ここはいまだ営業しているが、街全体のイメージとしてはあまりいいものではなかった。
続いて先の「そごう」の倒産に伴う「黒崎そごう」の閉鎖。ここが潰れたのは大きかった。街全体が死にましたからね。
今年に入って、さらに追い討ちをかけるように「トポス黒崎店」の閉店。
おまけにその間、「そごう」の後の入り手がなかなか決まらずに、JR黒崎駅の東側に巨大な空きビルが横たわっていた。そのせいで、街のイメージは悪化する一方。
20年前には2店のデパートと4店の量販店がひしめき、県内第3位の商業地区だった黒崎だが、ついに地価の下落率が県内一になってしまた。
そこで、井筒屋に白羽の矢がたった。北九州市や地元商店街などが強く井筒屋に要請した。井筒屋も最初は渋っていたものの、資金の折り合いがつき、ようやく今回の移転になったわけだ。
井筒屋は、今までの倍の売り場面積と従業員での展開をしていくのだが、この不況がどういう影響を及ぼすのか?下手すれば黒崎地区全滅ということにもなりかねない。しかし、今回は駅の西側に西鉄の複合商業ビルが2週間後にオープンすることになっている。このビルとの連動で、ぜひとも往年の賑わいを取り戻してもらいたいものだ。
ここで生まれ育ったぼくとしては、そのためにも井筒屋に頑張ってもらいたいと思っている。

井筒屋といえばねえ・・・
昔はあそこで、いろんなことやってたんですよ。ぼくは。
小学生の時、あの頃はエスカレーターガールというのがいたんです。お客がエスカレーターを利用するたびに「いらっしゃいませ」と言うんです。で、ぼくは「いらっしゃいませ」と言われるたびに、「はい、いらっしゃいました。ぼくはしんたといいます」と自己紹介をやっていた。
同じく小学生の時、仲間と井筒屋に行ったのだが、店に入るなりぼくは受付の所に行き、「すいませーん。友達とはぐれたんですけど―」と呼び出してもらった。「○○町からお出でになりました、××様。○○町からお出でになりました、××様。お連れ様がお待ちです・・・」。すぐ近くにいた、その××様は顔を真っ赤にして「ここにおるやないか!」と言って怒っていた。
高校の時はC高の生徒といざこざを起こしたこともあった。相手は三人でこちらは一人、勝てるわけないから逃げました。はい。
予備校時代は屋上でベンチに座って大声で歌をうたったりしていた。
こんな思い出も、移転とともに消えていくわけか。

あ、感慨にふけっている場合じゃない。オープンということは、駅前が渋滞するじゃないか。明日は早く出ないと。もう寝ます。
posted by 新谷勝老 at 13:36 | TrackBack(0) | 筑前八幡市 | 編集

2003年04月29日

吉祥寺

区内の、高倉健の実家近くに吉祥寺(きっしょうじ)という浄土宗のお寺がある。
藤で有名なところで、毎年この時期になると『藤まつり』を催している。
参道に出店が出るなどして、たくさんの人出でにぎわっている。

吉祥寺の藤まつりの頃になると、いつも思い出すことがある。
それは、10年ほど前、この祭に行った時に思わぬ人を見たことである。

ぼくはそれ以前にも、何度かこの祭に行ったことがあるのだが、いつものように人通りの多い狭い参道を歩いていた。
すると突然、後ろのほうで、「こらー、○○!!お前は…」という怒鳴り声が聞こえた。
どうも子供を叱っているようだった。
まあ、子供を叱るくらいは日常茶飯事のことで、大したことはないのだが、ぼくはその声に思わず振り返ってしまった。
なぜなら、とにかく声が太いのだ。
しかも、その声は女性のそれである。
その声を聞いて、どんな人なんだろうと興味をそそられた。
きょろきょろと周りを見回すと、おそらくその声の持ち主だろうと思われる人がいた。
とにかく背が高い。
周りにいる人より、頭一つ出ていた。
しかも、体格がいい。
『おそらくこの人だろうな』と思っていると、その人が口を開いた。
ドスのきいた低い声。
まさにその声の持ち主であった。

ぼくは、一緒に祭に行っていた友人に「凄いのう、あのおばさん」と言った。
すると友人は、「おい、あの人…」と言った。
「あのおばさんが、どうかしたんか」
「あの人、横山樹里ぞ」
「横山樹里?」
「おう」
横山樹里といえば、元女子バレーボールの日本代表だった人だ。
「まさかぁ、樹里はあんなデブやなかったやろうもん」
「いや、引退してからデブになったらしい」
そういえば、横山樹里もこの吉祥寺の近くに実家があるのだ。
ここにいても別におかしくはない。
しかし、ぼくは半信半疑だった。
あのおばさんの顔と、テレビで見ていた樹里の顔とが、どうしても結びつかなかったのだ。

しばらくして、その半信半疑に終止符を打つ時がやってきた。
ローカル番組で、あるママさんバレーチームの紹介をやっていた。
そこに、吉祥寺で見た、あのおばさんがいたのだ。
レポーターが言った。
「この方をご存じの方も多いと思います。元全日本のエースアタッカー、○○樹里、旧姓横山樹里さんです」
「こんにちはー」
ドスのきいたあの声である。
やはり、あのおばさんは横山樹里だったのだ。
しかも、あの時よりもさらに肥えていた。
その後樹里は、ビートたけしのトーク番組に出て、たけしからさんざんからかわれていた。
もちろん、その体型について突っ込まれていたのだ。

さて、今日は藤まつりの最終日だった。
「今年もあの人は行ったのだろうか」
と、ぼくが横山樹里を思い出す季節になった。
いよいよ初夏である。
posted by 新谷勝老 at 13:21 | TrackBack(0) | 筑前八幡市 | 編集

2003年05月20日

歩いて行ける温泉

夕方、スーパー銭湯に行ってきた。
ブームなのか、ここ最近バタバタとこの手の銭湯が出来ている。
テレビローカルのワイドショーなどでは、よく郊外にできた新しい銭湯が取り上げられている。
元々ぼくは、ひなびた温泉に行くのが好きで、こういう作られた温泉にはあまり興味がなかった。
が、テレビで紹介される風呂はどこもきれいで、いろいろ楽しい施設が設けられている。
こういうのを見るたびに、いつかそういう銭湯にも行ってみたいと思ってはいたのだが、そういう銭湯は観光地でない場所に作られているケースが多く、それだけのためにわざわざ時間を割くのももったいないと、行くのを躊躇していた。

ところがである。
気がつけば、家から車で10分以内の場所に、3軒ものスーパー銭湯が出来ていたのだ。
しかも、その中には天然温泉もあるではないか。
これは行かない手はない。
そこで、先月、5月の連休が終わってから行ってみようと、計画を立てていた。
ところが、その5月の連休中に風邪を引いてしまい、それがなかなか治らない状態が続いてた。
そのためスーパー銭湯行き計画が延び延びになってしまっていた。

ということで、今日その延び延びに終止符が打たれた。
どこに行こうかと迷ったが、まず手始めに、ということで、最も家から近い銭湯に行くことにした。
そこは近くも近く、小学校の校区内にある。
校区内ということは、当然歩いて行けるのだが、今日は昼間けっこう歩いており、その疲れもあって車で行くことにした。
しかし、歩いて行ける場所というのは、車で行くと遠く感じるものである。
ちょうど夕方の渋滞と重なったせいもあるのだが、一番の要因は、近道が使えないということにある。
小学校の校区だから、もちろんそこまで行くための道を知り尽くしている。
ところが、そういう道は、一方通行であったり、道幅が狭かったりで、使用することが出来ない。
そこに行くためには、車道を使わなくてはならないため、どうしても遠回りになってしまう。

さて、銭湯に着いた。
さすがに建物は新しい。
駐車場もまあまあの広さである。
中に入ってみて一番最初に驚いたことは、下駄箱の数の多さである。
数えたわけではないのだが、そこだけで8畳くらいのスペースをとっている。
次に驚いたのは、床のきれいさだった。
板張りだが、ピカピカと輝いている。
普通の銭湯のイメージを持って、そこに行ったため、この床のきれいさには驚かされた。
さらに驚いたのが、建物の中にある施設の多彩さである。
レストランやマッサージはもちろんのこと、焼き肉屋や床屋まである。
しかもその床屋、ヘアーカット1000円という安さである。
風呂の中にも、垢すりコーナーなどがあった。

今日は時間がなく、あまり長居が出来なかったため建物内の探検が出来なかったのだが、次に行く時はもう少し時間をとって詳しく調べたいと思っている。
posted by 新谷勝老 at 13:49 | TrackBack(0) | 筑前八幡市 | 編集

2003年07月08日

工場地帯の臭い

東京に出た頃、一番感動したのは、空気が予想以上にきれいだったことである。
もちろん排気ガスはひどかったが、北九州のように、工場から出る悪臭というものはなかった。
ある日友人が、「川崎に行ったんだけど、悲惨だったぜ」と言った。
「何が悲惨やったんか?」
「空気さ。ひどい臭いだったぜ」
他の人は「へえ、そうなんだ。で、どんな臭いだった」などと聞いていたが、ぼくには、それがどんな臭いであるかがよくわかった。
工業地帯特有の臭いである。
特にぼくの家は、北九州工業地帯の中心である洞海湾の近くにあるので、ヘドロの臭いというのも混じっており、さらにひどいものだった。
おそらく、ぼくが川崎に行っても、それほど臭いとは感じなかっただろう。

東京の下宿のおばさんに初めて会った時、「へえ、八幡出身なの。私は何年か前に八幡製鉄所を見学に行ったことがあるよ」と言っていた。
ところが、夏に帰省してから東京に戻ってくると、「田舎の空気はきれいでしょう」と言う。
「えっ!?」
「東京みたいに空気が汚れてないよねえ」
「きれいじゃないですよ。川崎以上に汚いです」
ぼくがそう言っても、おばさんはしきりに「田舎の空気はおいしいだろうねえ」などと言っていた。
「この人は八幡製鉄所に行って、何を見てきたんだろう」と、ぼくは内心思ったものだった。

ぼくは生まれた時からずっと工業地帯の悪臭の中で暮らしてきたので、そういう臭いがしても特に何も感じない。
ところが、いなかに行くと、突然においに敏感になる。
小学生の頃、夏休みに、郊外の宗像に遊びに行ったことがある。
まだバスに冷房のなかった時代だったので、窓を開けていると、突然嗅いだことのないにおいが飛び込んできた。
母に「これ、何のにおい?」と聞くと、母は「稲穂のにおい」と答えた。
見ると、バスは田んぼの中を走っていた。
ぼくが通った小学校も田んぼの中にあったのだが、稲穂のにおいなどは、工場の臭いと、牛小屋の臭いでかき消されていた。
まさに、生まれて初めて感じる、稲穂のにおいだった。

ところで、最近は郊外に行っても、何もにおいを感じなくなっている。
それだけ、郊外の都市化が進んでいるのだろうが、それと同時に、北九州の空気がきれいになったということも、理由の一つにあげられる。
八幡製鉄所の老朽化に伴い、工場が次々に閉鎖されていった。
そのせいで、我が高校校歌に『八幡の煙、君見ずや』と謳われた、煙がなくなった。
おかげで、悪臭が去り、空気がきれいになったのだ。
もちろん、人間が生活するには、そちらのほうがいいに決まっている。
しかし、明治以来、日本の近代化を支えてきた鉄都八幡の衰退は、高度経済成長という躍動感のある時代を知っている者として、寂しいものがある。
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2003年07月21日

通勤風景に見る歴史 前編

何気なく通っている通勤路だが、今日ふと、いろいろな歴史を持っているというのに気づいた。

家を出て、まず最初に目に映るのが洞海湾である。
昔は「洞海(くきのうみ)」と呼ばれたところで、その名は日本書紀にも見えている。
熊襲征伐の時、仲哀天皇は神功皇后を同行した。
その際、仲哀天皇は筑前芦屋(芦屋釜で有名である)の山鹿を経由し、神功皇后は洞海を経由して九州入りしたという。
日本書紀には載ってないが、その時、神功皇后が海の中で光るものを見つけた。
引き上げてみると、それは石であった。
神功皇后は丁重にその石をお祭りしたという。
それが、若松恵比寿神社のご神体だと言われている。

洞海湾から工場地帯に入っていく。
三菱マテリアル・三菱化学といった大工場を過ぎると、黒崎に入る。
この黒崎には、長崎街道の面影が残っている。
北九州プリンスホテルの横に、曲里の松並木という通りがあるのだが、そこがそうである。
江戸時代、下関から黒崎へ行く連絡船があった。
豊前に入らずに、直接筑前に入る船である。
太宰府などに行く場合は、そちらのほうが速い。
以前、小倉から黒崎まで歩いたことがあるのだが、およそ2時間かかった。
門司港からだと、3〜4時間は優にかかるだろう。
しかも、江戸時代は今みたいに道路の整備などされてなかっただろうし、国境には関所もあっただろうから、そんなに早く黒崎に着くことはなかったのではないだろうか。
船だとその時間が短縮される。
あの坂本龍馬もその船を利用したと、司馬遼太郎の『竜馬が行く』に書いてあった。

黒崎にはもう一つ歴史がある。
話は古代に戻る。
神武天皇が東征の際、拠点としたのが筑紫の国・岡水門(おかのみなと)である。
現在、この岡水門は、遠賀郡芦屋町にある岡湊神社のことというのが定説になっている。
しかし、黒崎の岡田神社という説もある。
ぼくはその説をとる。
なぜなら、神武天皇は豊前宇佐から登ってきたと言われている。
ということは陸伝いでも海伝いでも、地理的には黒崎のほうが手前にあるということだ。
東に攻め入るのに、わざわざ遠い場所を選ぶだろうか。
また、洞海湾は自然が作った要塞である。
現在若戸大橋がかかっているところが自然の水門になっている。
そこを固めておけば、そうそう敵に侵入されることもない。
しかるに、芦屋の場合はどう見ても門という感じではない。
ただの河口である。
これでは敵の侵入をやすやすと受け入れてしまう。
この岡湊神社と岡田神社、どちらも祭神は神武天皇だと聞く。
ちなみに、岡湊・岡田の岡は、遠賀の旧名である。
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2003年07月22日

通勤風景に見る歴史 後編

黒崎を過ぎ、数分走ったところ右手に、帆柱連山がそびえている。
この帆柱というのも神功皇后ゆかりの地で、新羅征伐の際、この連山の杉を朝鮮半島に渡る船の帆柱に使ったという言い伝えがある。

その連山の一つに、花尾山というのがある。
ここは昔、山城があったところで、今も尚、その当時の井戸の跡や、階段が残っている。
高校時代、ぼくはよくこの山に登っていた。
階段がくせもので、細かい石がたくさん敷き詰めてある。
そのため、靴を履いて上っても足の裏が痛い。
昔は草鞋くらいしか履き物がなかったはず。
よくこの痛さを我慢出来たものだと思う。
よく友人と「その頃の人は、階段を上り下りするたびに、『痛いでござる』とか言いよったんかねえ」と、冗談を言ったものだった。

さらに進んで、左手に新日鐵八幡製鉄所がある。
日本史の教科書に、官営八幡製鉄所の溶鉱炉を建設中に撮った写真(下記参照)が掲載されているが、あの溶鉱炉、実はまだあるんです。
真っ白に化粧をされて、『1901』という看板がついている。
つまり、1901年創業というわけだ。
写真を見ればわかるが、その当時の写真には、溶鉱炉の他は何も写ってない。
まことに殺風景である。
まあ、九州の一寒村に、インフラ整備もないまま一大製鉄所が出来たのだから、それもしかたないことではあるが。
で、今はどうなっているかといえば、その上を都市高速が走り、その後ろをJRが走っている。
その差が百年の歴史である。

さて、その溶鉱炉の隣には、北九州市最大のテーマパーク、スペースワールドがある。
スペースキャンプが体験出来るというのが売りだったこのテーマパークも、今ではそのへんのテーマパークと同じくアトラクションでしかお客を呼べない状況になっている。
あいかわらずお客さんは多く入っているようだが、もしも予定通り県内にパラマウント映画のテーマパークが出来たら、終えてしまうだろう。
ぼくは会社帰り、いつもそこにあるアトラクションの一つである大観覧車を眺めている。
しかし、それを眺めてこころを癒やしているのではない。
この観覧車は、夜になると色とりどりのネオンがつくのだが、そのネオンがたまに所々切れていることがあるのだ。
それが気になって、つい眺めてしまう。
「あのネオンを付け替えるのは大変やろう」「脚立で上るんやろか」「落ちたら死ぬわい」などと思いながら、見入っている。

スペースワールドから先はバイパスを通っていく。
このバイパスは、ぼくが小学生の頃に開通した。
その頃の社会科の副読本『よい子の社会』には、そのことが誇らしげに書いてあった。
バイパスとはいうものの、曲がりくねって走りにくい道である。
しかし慣れとは恐ろしいもので、みんなここを時速80キロ以上出して走っている。
また、大型トラックなどが頻繁に走るため、水はけが悪くなっている。
雨の日は、決まって対向車線から跳ね飛んできて、一瞬何も見えなくなってしまうが、これが怖い。
その上、毎年交通量が増えているにもかかわらず、出来た当時からずっと片道二車線である。
土地がないといえばそれまでだが、主要幹線なのだから、何らかの手を打って欲しいものである。

さて、ぼくの家から会社までの所要時間はおよそ20分である。
今まで見てきたように、その20分の間に、千年以上の旅をしていることになる。
何気なく走っている道ではあるが、その歴史は実に重い。

ちなみに、ぼくの住んでいる場所であるが、源平の合戦の時、源氏側が平家を迎え撃つために立てた城があったという。
実際、壇ノ浦で敗れた平家が、ここまで落ち延びたどうかは知らない。
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2003年11月17日

起業祭には雪が降る

ぼくが小学生の頃、八幡製鉄創業の日である11月18日は学校が休みだった。
その日を中日とした3日間、八幡製鉄所が主体となって起業祭という祭を行っていた。
目玉は何と言っても八幡製鉄所の工場見学で、当時は一般の人が工場を見学することが出来なかったから、この工場見学は貴重であった。
学校が休みだったのは、この工場見学をさせるという意図があったのかも知れない。

街はというと、普通の祭と変らない縁日風景。
メインステージに有名な歌手が来て歌い、サーカスやモーターショーといったイベントが祭を盛り上げていた。
そこに多くの市民が集まっていた。

さて、その頃は何故か寒かった。
ぼくは毎年行っていたのだが、いつも雪が降っていたような記憶がある。
いや、正しくは雪が降らない時もあった。
が、かなり厚着をして起業祭に行っていたものだ。

これはぼくだけの記憶ではなく、多くの人がそういう記憶を持っている。
「昔、起業祭は雪が降っとったもんね」
今でも、よく聞く言葉である。
それだけ昔は寒かった。
また、それだけ今は暖かいということだ。
これも地球温暖化のせいなのだろうか。

ところで、現在この祭は11月3日前後に行われている。
祭の名前も『八幡製鉄起業祭』から『まつり起業祭』と変わり、主催者も民間の手に移った。
文化の日を利用しているので、起業祭単独で学校が休みになることもなくなった。
おまけに寒くもなくなった。
今夜、ぼくは半袖を着てコンビニに行ったのだが、それでも寒くはなかった。
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2003年12月13日

えびす谷とアケビ谷

家から歩いて20分ほどの場所に、けっこう大きな公園墓地がある。
いつの頃に出来たのかは知らないが、ぼくが小学校に通っている頃にはもう出来ていた。
ぼくたちのクラスは、運動会のリレーやマラソン大会の練習で決まってここを使っていた。
その公園墓地の一番見晴らしのいい所からは、小学校の校区が見渡せた。
東側は一面田んぼの風景で、西側は深い森になっていた。
その西側の深い森のことを、地域の人は『えびす谷』と呼んでいた。
なぜ『えびす谷』なのかという詳しいことは知らないが、友人から「そこにえびす様の祠があるからだ」と聞いたことがある。

夕闇がかかると、そのえびす谷にぼんやりとした灯りが、一つ二つ浮かんだ。
しかし、それはえびす様の祠の灯りではなく、民家の灯りだった。
人が住んでいたのだ。

さて、時は流れて、現在その地がどうなっているのかというと、高級住宅地になっているのだ。
近くに医大が出来たせいか、その付近にたくさんの病院が出来た。
市は、そこの医者のためにえびす谷を切り開き、分譲地にしたのだ。
そこに建っているのは建売り住宅ではなく、どの家も注文住宅である。
何年か前に、そこを歩いてみたことがあるが、新たに小学校が出来、どこまでも住宅が続いており、まさかそこがかつて『えびす谷』と呼ばれていた場所だとは思えなかった。

さて、校区内にはもう一つ『谷』のつく、『アケビ谷』という場所があった。
その名の通り、アケビの木が多く生えているところで、秋になるとたくさんのアケビの実がなるという。
残念ながら、ぼくはそこに行ったことがない。
理由はアケビが好きではなかったからだ。
まあ、仮にアケビが好きだとしても、当時は忍者マンガの影響で『谷』のつく場所には毒ガスが出ると思っていたので、行かなかっただろう。
もちろん、当時のえびす谷にも行ったことはない。
ということで、その『アケビ谷』の所在は今もってわからない。
おそらくそこも、宅地になっていることだろう。
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2006年04月20日

新しい道

今日の午後3時、新たな道が開通した。
その道は、県内でも有数の渋滞スポットである、黒崎地区の渋滞緩和策のひとつとして出来たものである。

いつもこの日記に「渋滞渋滞」と書いているが、その渋滞がどのくらいひどいのかというと、かつて路面電車が走っていた頃に黒崎車庫前というバス停があった。
そこから次のバス停である黒崎駅前までは、歩いて2,3分程度だった。
ある日バスに乗って黒崎に行った時、その2,3分を歩くのが面倒で、次の黒崎駅前で降りることにした。
それが間違いだった。
何と30分以上もかかったのだ。
いや、事故があったわけではない。
それは自然渋滞がさせた業なのである。
まあ、これは極端な例かもしれないが、それに近い渋滞が交通戦争と呼ばれた時代から何十年も続いているというわけだ。

その緩和策として、かなり前から黒崎バイパス構想があった。
だが、ずっと計画だけで、着工したのは2年ほど前である。
しかも、その道が開通するのは10年以上先と、気の遠くなるような話だった。
となると、高校時代から会社を定年退職するまで、ぼくの人生は、ずっと渋滞に悩まれた人生ということになってしまう。

ところが先月、ひとつの朗報が入った。
ある人が「黒崎から東田(スペースワールドのあるところ)まで、新しい道が開通するらしいよ」と言ったのだ。
それを聞いてぼくは「えっ、10何年後の話じゃないんですか?」と言った。
「いや、新聞に今年の4月開通と書いてあったよ」
「そうですか…?」

ぼくは半信半疑だった。
というのも、バイパスは高架上を走るのだ。
しかし、その高架はまだ橋げたを造っている段階である。
毎日ぼくはその横を通っているが、素人目で見ても、それが1ヶ月そこらで完成するとは思えない。

そこで、その新聞の記事を読んでみた。
なるほど、4月開通と書いてある。
が、よく読んでみると、それはバイパスではなく、その側道的なものが開通するという話だった。
ぼくはてっきり、10数年後に開通するバイパスの工事だけやっているのだと思っていた。
が、それと並行して側道も造っていたのだ。

ということで今日、新しい物好きなぼくは、さっそくその道を走ってみた。
これまでは、工場と一方通行で遮られていた道が、ちゃんと通れるようになっている。
これまで、そこが通れないおかげで、渋滞のひとつの原因となっている難所『筒井交差点』を通らなければならなかった。
それが通れるのだ。
これは感動である。

さらに感動したのは、スペースワールドがわりと近くにあるということだった。
これまで国道を利用してスペースワールドに行っていたが、2,30分かかっていた。
ところが、その道を通ると、10分少々で着くのだ。
10分少々で着くというのは、つまりは庭みたいな場所だということである。
そこで、さっそくぼくは、その庭の中にある『ザターン』に乗る計画を立てたのだった。
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2006年04月30日

ザターン稼働

先日ここに書いた『ザターン』が、とうとう稼働を始めた。
初日の昨日は、朝からザターン目当ての人が多く来場したらしく、午前中のラジオでは「すでに2時間待ちの状況」だと言っていた。
スタートからゴールまで1分もかからないアトラクションで2時間待ちとは、いったいどのくらいの人が並んでいたのだろうか。

さて、そのザターンだが、幹線道路に面して設置してある。
そのおかげで仕事中に試運転を見ることが出来たわけだ。
で、昨日も仕事中にザターンの横を通ったのだが、十数台の車がそこに列をなして停まっていた。
駐車場は別の場所にあるので、別に駐車場待ちをしているのではない。
いったい何をやっているのだろうと見てみると、みな車の窓を開けてザターンの方向を向いている。
どうやらギャラリーらしい。
「こんなところで見るくらいなら、ちゃんと入場して乗ればいいのに」と思ったものだ。
まあ、フリーパス付きのチケットが4200円だから、たった1分のアトラクションのために遣うのはもったいない気もする。
しかし、そこにいた子供たちのゴールデンウィークの想い出は、「ザターンを見学した」ということになるのだから、かわいそうな気がする。

ところで、前に議論を闘わせたザターンのエンジンの件だが、他の絶叫マシン同様にワイヤーで引っ張っていることがわかった。
そうだろう、ロケットエンジンを使うわけがない。
ましてやペットボトルの応用とかありえない。
バネなんてもってのほかだ。
パチンコの玉じゃあるまいし。
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2006年05月20日

坂の町(前)

ぼくの本籍地は、ぼくが生まれ育った北九州市八幡西区にあるのではなく、お隣の八幡東区にある。
そこは父がかつて住んでいたそうで、そのまま当時の住所を本籍地にしているそうだ。
そのため、本籍地は旧区画(つまり『大字』表記)で書かれており、そこが現在何町の何丁目何番地何号に当てはまるのか、まったくわからない。

さて、その八幡東区だが、かつて北原白秋が、
「山へ山へと
 八幡はのぼる
 はがねつむように
 家がたつ」
とうたったように、実に山の多いところである。
平地はスペースワールド周辺だけで、人の住むところのほとんどは、坂の途中にある。

まずJR八幡駅を降り、大通りに出るまでは緩やかな坂になっている。
その上の通りに行くには、最初の坂の倍の勾配の坂を登らなければならない。
さらにその上の通りまでは急坂で、その上はすでに山道である。
そして、その山道は最終的に皿倉山山頂に行き着く。
駅から山道までの距離を測ったことはないが、おそらく2キロ程度ではないだろうか。
その2キロ程度の斜面に、家がぎっしり詰まっている。

なぜこういうことになっているのかというと、その昔八幡製鉄所がいいとこ取りをしたためである。
製鉄所の敷地を線路で囲み、平地に人が住めないようにしてしまったのだ。
しかし、そこで働くには住む場所がいる。
そこで、山に向かって家を建てていったわけだ。
おかげで道のないところにも家が建ってしまった。
そこに行くためには、階段を利用しなければならない。
ぼくたちでさえきついのだから、お年寄りにはこの坂や階段はかなり応えるはずだ。

ということで、このことは八幡の町づくりを始めた、明治の昔から問題になっていたものと思われる。
だが、別段騒ぎもしなかったようで、ぼくたちが小学校の頃に習った社会科では、公害問題は書いてあっても、「お年寄りがきつい町」などということはまったく書かれてなかった。
実は、このことが表沙汰になったのは、つい最近のことなのである。
高齢化社会の到来が、問題に火を付けたのだ。
子育てが終わり、定年を迎え、「さあ、これからのんびりと暮らそう」と思っていたら、きつい坂の生活が残っていたというわけだ。

この坂の問題は、『坂の上のマリア』という映画にもなっている。
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2006年05月21日

坂の町(後)

平成16年9月の資料で見ると、八幡東区の全人口に対する65歳以上のお年寄りの割合は27.6%になっている。
全人口が7万6千人ということだから、お年寄りの数は2万1千人ということになる。
若い人でさえ疲れるきつい坂や階段の上に、2万1千人のお年寄りが息を切らして生活しているということになる。

別に歩かなくても、車を使えばいいじゃないか、と思われるかもしれない。
しかし、お年寄りの住んでいるところは、決まって道が狭いのだ。
車一台がやっと通れるところや、車でさえ通れない道も数多くある。
ということで、坂道が社会問題になった背景には、もしかしたら車の普及というのもあるのかもしれない。
つまり、車を買っても、車の入れない地区に住んでいる人は、家に車庫を持てないわけだし、仮に車庫を借りるとしても、家から遠く離れた場所にしか借りることが出来ないので、坂道や階段からは逃れられないということになる。
もしかしたら、そういう事情がわかってから、初めて『不便』というものに気づいたのではないのだろうか。

文明は人にいろいろな便利を与えてくれたが、それによって発生した不便もあるということだ。
その一つがこの坂道と車の因果関係である。

さて、それに関連して見逃せないことがある。
それは家電製品の普及である。
昔に比べて、家電製品は図体のでかいものが増えている。
テレビ、冷蔵庫、全自動洗濯機などなどである。
そういう機械は、図体に比例して、とにかく重い。
中には人の体重よりも重い物もある。
ということで、急坂や階段のあるところに住む人は、買うことを躊躇するのかというと、そうではない。
そういうところに住んでいる人は、けっこうそういう物を好んで買う傾向があるのだ。
経験上それがわかる。

とにかく、配達人泣かせなのだ。
重たい商品を抱えて、「ヒーヒー」と息を切らしながら長い急坂を登り、ようやく登り詰めたと思ったら今度は階段が始まる。
階段も2段3段ではない。
2,30段はざらで、中には100段近い階段もある。
そこを登る頃には、すでに手の感覚は麻痺し、膝は笑ってしまっている状態である。
どうにかこうにかそれを納め、ホッと一息をつく間もなく、今度は古い機械の引き取りである。
何十段もある階段を下り、長い急坂を下りていなかければならない。

ここでようやく5月18日に、なぜまともな更新が出来なかったという理由になる。
実はその日、宅配業務をさせられたのだ。
内容は上に書いているとおりで、家電製品ではなかったものの、けっこう図体のでかい商品を、「ヒーヒー」言いながら運んだのだった。

その際に軽トラで登った坂道は、半端ではなかった。
まるでジェットコースターの登りにも似ていた。
ギアもセコでは後ずさりしてしまうので、ローで登らなければならない。
そして、結局行き詰まっとところに段があり、そこからさらに急な坂道を登らなければならなかった。
そして階段。
また坂道、そしてまた階段。
これで一気に体力を消耗してしまったわけだ。
家に帰ってからも疲れは取れず、結局飯を食ったあと、何も出来ないまま眠ってしまったというわけだ。

八幡は坂の町である。
その町で生活するには、必要以上に体力を消耗してしまう。
これが八幡に生まれた者の宿命なのだ。
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2006年06月01日

蛍の光

【河内(八幡東区)】
何日か前に「大蔵で蛍が飛び交っている」という話を聞いた。
地元の蛍スポットとしては河内が有名だが、大蔵はそこに流れている川の下流になる。
その話を聞いて、ぼくはさっそく行ってみたいと思った。
実は、それまで何年か続けて見に行っていた蛍を、昨年は見ることが出来なかったから、「今年はぜひ」という思いがあったのだ。

ということで、今夕、大蔵に行ってきた。
ところが、大蔵どころか、その上流の河内にも蛍は出てなかった。
いや、河内にいることはいたのだが、ほんの数匹程度だった。
しばらく見ていたが、そのうち数匹も消えていった。
情報の主は、いったい何匹の蛍を見て「飛び交っている」などと言ったのだろうか。

しかし、せっかく蛍を見に来たのである。
ここはぜひとも見ておかなければ、今度はいつ来れるかわからない。
そこで、別のスポットに行くことにした。
どこに行こうかと迷ったが、手っ取り早いのは区内にある黒川である。
しかも、そこは河内のように山の中ではなく、幹線沿いの平地なので、運転も楽だ。

「黒川に行こう」と決めた時に、ちょうど出張に行っていた嫁ブーから「仕事が終わった」と連絡が入ったので、河内から駅まで迎えに行った。
結局、河内には10分程度滞在しただけだった。

【黒川(八幡西区)】
さて、嫁ブーを乗せてから、そのまま黒川に直行した。
時間はすでに午後9時を回っていた。
「もう店じまいしとるかもしれんの」
「蛍に店じまいとかあるんね?」
「だって、一晩中火を灯しとるわけじゃないやろ」
「ああ、そうか」

黒川に着いてみると、川沿いに何台かの車が停まっていた。
そして川のほうから、人の声が聞こえてくる。
「人がおる。たぶん、まだ店じまいしてないんやろの」
と、車を降りて、川べりに降りてみた。

「うわー」と、嫁ブーが思わず声を上げた。
川べりに生い茂ったけっこう広範囲の草むらで、淡い光がフワーと浮かんでは消えていくのだ。
色はというと、蛍光色とはよく言ったもので、その通りの色をしていた。
街灯や車のライトで、周りはけっこう明るいのだが、それでもしっかりと光っている。
時々こちらに近づいてくる蛍もいて、嫁ブーの肩にとまって光を放っていた。

こういう時、昔のぼくなら詩の一つでも書いていたのだろうが、今はそれが出来ないでいる。
それだけが残念である。
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2006年06月13日

飛行船

昨日小倉に行く途中でのことだった。
信号待ちしている時に、嫁ブーが突然「あれ何?」と大きな声で叫んだ。
「どれか?」
「あれよ、あれ」
と空の方を指さした。
昨日、こちらの天気は基本的には晴だったが、薄雲が空を覆っていた。
ということで、嫁ブーの指さした方を見ても、白い空しかなかった。
「何もないやないか」
「あるよ、ほら、あの木のところ」
よく見ると、そこに白いものが浮かんでいるではないか。
そこでぼくは携帯を取り出して、写真を撮った。

hikousen.jpg

信号が青になり、車を進めて行くうちに、その白い物体が近づいてきた。
「あっ、あれ飛行船やね」
「ああ、そうか」
「横に何か書いとるよ」
「どこかの宣伝やろう」
「人乗っとるんかねえ?」
「人が乗ってないと飛ばんやろ」
「リモコンとかで動かせるやん」
「動かせるやろうけど、あんな大きなものをリモコンで動かして、失敗でもしたら大変やろ」
「ああ、そうやねえ」

飛行船は、ぼくが走っている場所までくると急に向きを変え、ぼくの車と並走する格好になった。
せっかくだから、その飛行船をアップで撮りたかったのだが、なかなか信号に引っかからない。
こうなれば、信号に引っかかるまで追いかけっこである。

そうやって5分ばかり走ったところで、ようやく信号に引っかかった。
車が停車すると、さっそくぼくは、先ほど撮りだしていた携帯を手に取り、目一杯ズームアップしてシャッターを押した。
が、うまく撮れない。
そこでもう一度撮ろうと携帯を構えた時だった。
無情にも信号は青になってしまったのだ。

結局撮るチャンスは、その時しかなかった。
その後、飛行船はスピードを上げていき、次に信号に引っかかった時には、もう姿が見えなかった。
ということで、失敗写真だけしか撮れなかったのだった。

hikousen2.jpg

まあ、何とか格好になってはいるが、ぼくとしては全体像を撮りたかったのだ。
それにしても、もう少し色を考えてくれないだろうか。
青空が広がっている時なら白でも映えるだろうが、昨日のような薄雲が張った日には非常に見づらい。
横に広告入れているのだから、下界の人に見てもらうためにやっているのだろうから、もっと簡単に確認できるよう色にしてもらいたいものである。
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2006年11月03日

懐古

今日から『起業祭』が始まった。
いちおう北九州では秋の風物詩となっている。
元々は官営八幡製鉄所の創業を記念した製鉄所の祭だったのだが、いつからか製鉄所の手を離れ、市民の祭となった。
そのため元々は製鉄創業の日である11月18日を中心とした三日間に行われていたものが、文化の日を利用して行われるようになった。

ぼくが子どもの頃は、その創業日である18日は学校が休みになっていた。
「明日は起業祭で学校は休みです。必ず保護者の方と出かけるようにしてください。決して友だち同士で行くことのないように」
毎年その前日の全校放送で、先生はこんなことを言っていたものだ。

その頃の祭は、見せ物小屋や出店がたくさん出て、かなりの賑わいだった。
見せ物小屋はサーカス、モーターショー、お化け屋敷が中心で、メインステージでは有名な歌手のコンサートも行われていた。
また出店のほうは、かなりの広範囲でやっていた。
ぎっしりと沿道を飾る出店には夢があった。

さて、今日久しぶりにその起業祭に行ってきた。
別に行きたくはなかったのだが、うちは八幡製鉄所の遺族会に入っているため、毎年慰霊祭に呼ばれている。
これまでは母が行っていたが、今回は母の都合が悪く、ぼくが行くことになったわけだ。

その慰霊祭だが、昔に比べると規模が小さくなった。
以前は2時間の式典で、近郊の神主と僧侶が毎年交代して慰霊を行っていた。
ところが、最近はそこまで長くやらないようだ。
今日の式典時間は1時間だった。
神主や僧侶は来ず、祝詞やお経の代わりにキーボード奏者の暗い演奏が行われていた。
その合間に、新日鐵の業績の報告などが行われ、最後に献花で締めくくられた。

昔は「ご起立下さい」「黙祷して下さい」「ご着席下さい」と繰り返しやっていたが、そういうのもなくなったようだ。
また、慰霊祭特有とも言えるナフタリンの臭いもなくなっていた。
以前、多くの遺族は礼服や紋付きなどで来ていたために、そういう臭いが会場に立ちこめていた。
最近は、みなラフな格好で来ているようだから、そういう臭いもなくなったのだろう。

さて、祭の方だが、これがまた昔と比べると閑散としたものだった。
まあ、初日の午前中だったから人出が少ないのはわかるが、出店の数がえらく減っていたのだ。
以前は所狭しと出店が軒を連ねていたものだが、今日は出店と出店の間には多々隙間があった。

イベントのほうも、パンフレットを見ると、カラオケ大会なんかが中心で、えらく興ざめしたものに思えた。
かつては市の一大イベントであった起業祭だが、今は市民の文化祭に過ぎないのだろう。
ちょっと寂しい。
posted by 新谷勝老 at 10:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 筑前八幡市 | 編集


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