吹く風ねっと

一生は未来の記憶を散りばめた一本の道。人生は未来の記憶をひろいながら歩く旅。

2019年06月

ぼくがトイレに籠もろうとすると嫁さんが、「トイレの中は暑いから、団扇を持って入ったほうがいいよ」と言う。
それを聞いたぼくは、「どうしてこれだけ文明の発達した今の世の中に、トイレのエアコンがないのか」と言って一人で怒っている。

トイレ用のエアコン、調べてみるとあることはある。だけどそれは、オフィス向きの大きな能力のヤツで、家庭向きの小さな能力のヤツではない。
以前は小さいヤツもあったようだが、今は生産終了になっている。おそらく売れなかったに違いない。

考えてみるとしょせんトイレだ。長くても十分位しか利用しない場所だ。
そういう場所に始動から冷えるまでに、それ以上の時間を費やすような機械を、いったい誰が買うのだろうか。
常時電源を切らないのなら別だが、そんな電気の無駄使いをやる人は、そんなに多くはいないだろう。
やっぱり夏のトイレは団扇だ。

「誰のおかげで飯が食えると思っとるんだ!?」
かつてぼくは、ある大手企業子会社の販売部門で働いていたことがあるのだが、そこでよく聞かされた言葉だ。
誰がそういうことを言うのかというと、親会社の社員さまたちだ。何かといえば子会社の人間を蔑んで、初対面から「お前」呼ばわりした上で無理難題を突きつけてくる。

世間知らずの兄ちゃんたちならともかくも、いちおう肩書きの付いた人たちがやるからしゃれにならない。
気に入らないことがあると、「どういう教育をしているんだ」と当本社にクレームをつけてくる。おかげでこちらは本社から、長いものには巻かれろ的な教育を受ける羽目になる。

そうなると面倒なので、誰も奴らに逆らわなくなる。すると奴らは調子に乗ってますます態度がでかくなる。横柄に値引きの強要をしてきては、「この会社の社長は何々君だったな」と、いかにも社長の知り合いのように振る舞って、自分の意に従わせようとする。従わないともちろん本社にクレームだ。

あげくの果てに奴らの口から出た言葉が、「誰のおかげで飯が食えると思っとるんだ!?」だ。少なくとも、無理難題を突きつけてくる偉そうなお前たちのおかげではない。
いったいどういう教育を受けているんだ、鉄頭のおっさんたちは。

保育園に通っている頃、生まれて初めて犬の交尾を見た。お尻とお尻がくっついて、いかにも困ったような顔をして、しきりに「ワンワン」と吠えていた。
そばにいた伯母に「何をしているのか」と尋ねると、クリスチャンの伯母は慌てる様子もなく、「悪いことをしたから、神様に罰を与えられて、お尻が取れなくなったんだよ」と答えた。
その時ぼくは思ったものだ。『犬にはなりたくない』と。

その行為が何であるかがわかった頃、ぼくは生まれて何度目かの犬の交尾を見た。相変わらず困ったような顔をして「ワンワン」吠えている。
『何がワンワンだ、ふざけやがって』、そう思っている時だった。近所のおっさんがバケツを持ってきて、その犬めがけて水を浴びせかけたのだ。二匹は慌てて逃げていった。
その時ぼくは思ったものだ。『犬にはなりたくない』と。

高校の頃だったか、親戚の家に遊びに行った時に、そこの飼い犬がしきりとタオルケットに攻撃をしかけていた。
何をやっているのだろうと見ていると、次第に犬はエスカレートして、ついには腰を振り出した。それを見ていた伯父に、犬は散々文句を言われ、最後に頭を叩かれていた。
その時ぼくは思ったものだ。『犬にはなりたくない』と。

今はほとんど乗らなくなったが、昔はよく自転車を利用していた。通勤時、渋滞している車を横目に、スイスイと走る自転車は心地よかった。
その頃の自転車は歩道を走るのが普通だったが、道がすいている帰りには車道に出ることもあった。でこぼこの歩道に比べると、実に走りやすかった。

さてその際、ただ走るのも面白くないと思ったぼくは、路肩の白線の上をはみ出さずに走るという、ちょっとしたゲームを楽しんでいた。考えてみると、そちらのほうが運転に集中が出来るから、ただぼんやり走るよりも安全だったのだ。

その白線走りで気がついたことがある。それは、白線をはみ出さないようにと目の前の白線を意識して走ると、運転がぶれてしまい、白線からはみ出してしまうということだ。白線から出ないで走るというゲームをやっているわけだから、その確認のためにどうしても白線を見てしまう。でもそれではだめなのだ。

では、どうすれば白線からはみ出さずに真っ直ぐ走ることができるかというと、いちいち白線を気にして走るのではなく、よそ見せずにずっと遠くを見ながら走ることだ。そうすればぶれずに走ることが出来て、白線からはみ出すことがない。

ちょっとしたことをいちいち気にしながら生きていると、いつまで経っても目標にたどり着くことができないが、自分の行き着く先だけを見据えて生きていると、気がつけば目標にたどり着いている。それと同じことだ。

いつも機嫌の悪い顔をしている奴がいた。根は優しく、実はいい奴なのに、人生のどこかの時点でその優しさにつけ込まれ失敗したらしく、本当に気を許した人間以外にはなかなか優しい顔を見せなかった。
学生の頃は、その根を知っている人が「ああ見えて、実は優しい奴なんだ」と陰でかばってくれていた。そのおかげで何とか人づきあいを彼はやっていけた。

ところが彼は、ほとんどが初対面の大人の世界まで機嫌の悪い顔を持ち込んだのだ。それで人生が狂った。
誰もかばう人がいないので、『機嫌の悪い人』が一人歩きする。機嫌の悪い顔が、吐く言葉を機嫌の悪いものに変え、その性格すらも機嫌の悪いものにする。だんだん人は彼を避けるようになり、そのうち彼のほうも社会を避けるようになった。

しかし何でだろう、何で彼は根の部分の優しさを前面に出さなかったのだろう。確かに優しさにつけ込まれて失敗したかもしれない。だけどその後人生のどこかの時点で、「実はあの失敗は成功だったんだ」と思える出来事があったはずだ。
きっと彼にはそのことが線として繋がらなかったのだろう。だから優しさは弱さだと、勘違いしたままでいたのだ。
「優しさは強さなんだ」、彼にそう言ってあげたいのだが、今どこにいるのかわからない。

若い頃、人からよく「髪が多いね」と言われていた。なるほど髪が伸びるとサイドが妙に膨らんで、影だけ見ると、まるでヘルメットをかぶっているようだった。
ハゲる家系ではないし、おそらくは死ぬまでこの重そうな頭を抱えていくものだと思い、頭の蒸れる夏場などは憂鬱な気分になることもあった。

ところが、年をとるにつれそうでないことがわかった。白髪が増えていくごとに毛細りしてきたのだ。おかげで髪のふくらみはなくなり、気分的には軽くなった。
だが、そのことで喜んだわけではない。白髪と毛細りのせいで、髪を洗うと、地肌が透けて見えるようになったのだ。『もしやハゲていっているのでは?』と心配したのだが、別に髪が減ったわけではなかった。その証拠に、床屋に行くと相変わらず「髪が多いね」と言われているのだ。
だけど、床屋はそう言いながらも、ぼくの髪をスクことはしなくなった。

いつの頃からだろう、体をちょっと動かしたり、風呂に浸かっていたりすると、頭から汗を掻くようになったのは。
とにかく汗が出る。土砂降りの雨を頭からかぶったかのごとく、背中に向けて汗が際限無く落ちてくる。おかげでシャツはびしょびしょで、車にはいつも着替えを置いている。

元来汗かきの体質ではなかったので、最初は体に異変が起きたのかと思ったほどだ。だけど体に違和感は見当たらないし、汗を掻いた後で飲むビールはおいしいし…。
一度あまり気になったので、健康診断の時に相談したことがある。ところが医者はまったく気にもかけない様子で、「ああ、そうですか」と軽く流された。
何を聞いてもそれ以外の答は出てこない。あまり馬鹿らしくなったので、それ以降は医者に汗の質問をしなくなった。

そのせいで、今は汗が出ても気にしないことにしている。びしょびしょになるのは嫌だけど、濡れた時には、「ああ、そうですか」と軽く流している。

人の顔を描いて何が面白いのだろう。画を描くことが好きな者にとっては、この作業は楽しいことかもしれない。何でも自分探しに置き換えられる者にとっては、この作業は有意義なことかもしれない。だけど画に楽しみを持てない者にとっては、この作業は苦痛なことだ。

髪型がどうもしっくり来ない。右の目が小さくて気に入らない。二重のまぶたが気持ち悪い。眉毛が笑っているように見える。鼻がどうも整わない。鼻の下の筋が鼻水みたいに見える。開いた口から覗く歯が不安定だ。
パーツを描けば描くほど気になって、しかも手先が不器用だから、なかなか全体像にたどり着かない。そうこうしているうちに時間切れになって提出できない。そのせいで、筆記試験のなかった一年生二学期の通知表は1だった。

だいたい何がうれしくて、他人の顔のあら探しなんかやらなければならないのだ。あまりの下手さに相手から、「おれ、そんな顔してないやろ」と、文句を言われたこともある。ついつい面白おかしく描いてしまい、あげくにケンカになったこともある。

そもそも絵具のにおいが苦手だし、パレットを洗うのが面倒だし、いつも服に絵の具がつくし、なぜか爪の中が汚れているし、先生は妙にオカマっぽいし…。
中学の頃ぼくは、『何でこんな授業があるんだ。人物画なんて大っ嫌いだ』と思っていた。

何かちょっと違うな。体罰なら一発二発で終わるはずだ。ところがこの技術科の教師、こちらが抵抗しないのをいいことに手加減無しのビンタ二十発だ。

このビンタ二十発の原因というのが、授業中のおしゃべりだ。小学校の時もおしゃべりでビンタを張られたことはある。だけど大概は一発止まりだった。体罰ならそれで充分なのだ。
ビンタ二十発、小学校出たての中学一年生にとって、常識外の数値だ。というか暴力だろう、これは。

「もうしませんから、許して下さい」、横で友だちが泣きながら言っている。教師は赤い顔をしてぼくを睨み、「おまえはどうなんだ?」と聞く。ビンタ二十発も張られるようなことはやってない、ぼくにはそういう自覚があるから、意地でも謝りたくない。
とはいえ、友だちが怯えきっていて、もう限界なのだ。ぼくが謝らないかぎり、この惨劇は続くだろう。渋々ぼくは「もうしません」と言う。
「次やったら、これだけではすまさんぞ」、教師の目は血走っている。

腫れ上がった顔を洗いながらぼくは思う。奴はきっと、ぼくたちをしかるつもりなんて毛頭なく、最初からビンタ二十発張るつもりでいたんだ。だからわざわざ人目のつかない保健室裏にぼくたちを呼び出したわけだ。ほてった頬がさらに熱くなる。
ぼくの教師不信はこの時から始まった。

「こいつといると、ろくなことはない」と思ったのか、それ以降友だちはぼくを避けるようになった。そしていつしか転校していった。

「無理しなくていいですよ」というのは、少しの無理を期待されているということだ。「そうしてくれたら助かります」ということだ。「よかったら、全てやってくれませんか」ということだ。
そういう意味だと思い込んでいるから、ぼくはいつも無理をしてしまう。

そういう意味に捉えているのは、もしかしたらぼくだけなのかもしれない。もしそうなら、一人だけ馬鹿を見ていることになる。
だけどいいんだ。ぼくは常々、自分が納得できるように生きたいと思っているから。だって納得できないでいると、それを気にして眠れなくなるじゃないか。

来世の自分は、「無理しなくてもいいですよ」と言われたら、言葉を素直に受け取って、「はい、お言葉に甘えて、そうさせてもらいます」と、躊躇せずにその場を去ることのできる性格で生まれようと思っております。

たとえば本を読んでいる時に、その中に書いてあるたったひとつの言葉で、その本の内容がすべて見えてしまうことがある。以降ぼくはその本を読むことをしなくなる。あとは手を替え品を替え、そのことの説明に始終しているだけだから、もうページを開く必要がなくなるわけだ。

人に関しても同じことがいえる。ちょっとした言動の端々に、その人のすべてが見えてしまうことがある。以降どんなことがあろうとも、その人の中に立ち入ることをしなくなる。その後の言動はすべて説明になるわけだから、もうその人のページを開く必要がなくなるわけだ。

若い頃にはその能力の使い道がわからず、勝手に距離を置いてしまったりして、人付き合いに支障をきたしたこともある。若い頃ぼくは「世渡り下手」と言われていたが、きっと見えてしまうことに原因があったのだろう。

今はどうかというと、その能力を利用して、その人の言動の先読みをするような、意地の悪いことをやって楽しんでいる。そのため今は「意地の悪い人」と言われている。

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