吹く風ねっと

一生は未来の記憶を散りばめた一本の道。人生は未来の記憶をひろいながら歩く旅。

2011年03月

男なんだから
志を胸に抱いて
生きていこう

男なんだから
時には武士の遺伝子を
思い起こそう

男なんだから
チャラチャラしないで
やっていこう

男なんだから
人に誇れるものを
一つは持とう

男なんだから
女なんかに
弱みを見せまいぞ

男なんだから
肉食獣を食べるくらいの
気概を持とう

男なんだから
ネチネチとグチを
こぼすのはやめよう

男なんだから
ズラなんかで人生を
隠すのはやめよう

男なんだから
体臭を変なにおいの
香水なんかでごまかすな

男なんだから
ゴキブリが出たぐらいで
ギャーギャー騒ぐな

男なんだから
プライドを持って
立小便しよう

男なんだから
 男なんだから
  男なんだから

・・・・えーしー

食べている時は少量で充分なのに
わずかな時間が過ぎると
腹が鳴り出す始末です。
これは健康である証なんだろうか
それとも何かの病気なんだろうか
もしも病気であるならば
夢や第六感の類いを通して
何らかの知らせがあるはずだけど
ただいまのところ、そういう
予知予感はないのであります。

とはいえ、そういう予知予感なんかを
じっと待っているよりも、ただ今現在
「私は健康なんだ!」と信じ切って
疑わないことが大切でありまして
そうすることで大概の病気は
「気のせい」という範疇で
すますことが出来るものなのです。
つまり病気というものは
気にさえしなければ
一過性だということであります。

難しい数値とかもあるでしょうが
自分が健康だと思っていれば
その数値が高かろうが低かろうが
まったく問題はないのです。
健康な人は健康なわけだから
そこに完璧とは言えない医学だとか
生半可な家庭の医学知識だとかが
介入する余地はまったくないのです。
ゆえに人の心を乱すような言動は
やめてもらいたいのであります。

犬がぼくの膝に絡みつき
しきりに腰を振っている。
振り払っても、振り払っても
ぼくの隙を狙っては
シッポ振り振り寄ってきて
膝に絡みついてくる。
おいおい、やめんか。
こんな膝で腰を振っても
子孫繁栄なんて出来ないぞ。
いや、彼らの中には
子供繁栄のために腰を振るという
意識なんかないに違いない。
彼らが腰を振るのは、きっと
彼らの「生」のプログラムの中に
腰振りが含まれているからなのだ。
だから飽きずに腰を振っていられるのだ。

ところで犬は、快楽のために
腰を振っているのだろうか。
それとも苦痛を解消するために
腰を振っているのだろうか。
もし苦痛を解消するためだとしたら
その苦痛というのは
体液が溜まるがために起きる
膨張感という肉体的な苦痛だろうか。
快楽を知ったがために起きる
モヤモヤという精神的な苦痛だろうか。
それともその両方だろうか。
ぼくはそういうことに興味を抱く。
犬はぼくの膝に興味を抱く。
いや実際ぼくの膝を抱いている。
いいかげんにしてほしい・・・・。

たとえ送迎バスの予定がなかったとしても
夜中にバスの音がしたりすると
ぼくを迎えにきたのではないかと思い
その行き先がどこであるかも考えずに
ぼくはそのバスに心奪われていく。
そしていつしかぼくはそのバスに乗り込み
どこそこに出かけていくのだ。

たとえ送迎バスに乗り遅れたとしても
国道沿いのバス停にたたずんで
人目を憚らず、雨風に頓着せず
時間を元に戻そうと一心不乱に祈りを捧げ
ありもしない実現に人生を費やす。
そしていつしかぼくはバスと同化し
どこそこに出かけていくのだ。

たとえ送迎バスが来なかったとしても
その現実を認めることなく
信念のもとにバスを待っている。
そして自転車ひとつの音も逃さずに
ぼくはタイヤの声を追いかけていく。
そしていつしかぼくはバスを呼び寄せ
どこそこに出かけていくのだ。

今朝、ぼたん雪が列をなして降っていた。
この時期この地方での降雪は非常に珍しい。
そんな寒そうな窓風景を見ていてぼくは、
そういえば昨年夏は猛暑だったとか
今年の一月はえらく寒かったとか
春の訪れに浮かれて忘れていたことを
一気に思い出した。

そして「そういえば昨今、
地球規模の天変地異や
その原因ともなるような人災が
繰り返し繰り返し起きているが、
もしかしたら、この地球という星に、
変化の時がやってきたのではないだろうか」
と思うに到った。

氷河期の記憶、ムー大陸の記憶
アトランティス大陸の記憶
縄文大海進やノアの方舟の記憶など
われわれの遺伝子の奥深くに眠っている
平時には決して触れてならない
記憶の開示が今、神の手によって
行われているのかもしれない。

ぼくは永遠を持っている。
もしかしたらそれは、
あなたとは結ばれないという
永遠なのかもしれない。
 あなたとは相容れない仲という
 永遠なのかもしれない。

ぼくは永遠を持っている。
もしかしたらそれは
あなたを理解出来ないという
永遠なのかもしれない。
 あなたから理解されないという
 永遠なのかもしれない。

ぼくは永遠を持っている。
もしかしたらそれは
あなたを避けていくという
永遠なのかもしれない。
 あなたから避けられるという
 永遠なのかもしれない。

ぼくは永遠を持っている。
もしかしたらそれは
あなたに痛み感じるという
永遠なのかもしれない。
 あなたにむず痒さを感じられる
 永遠なのかもしれない。

ぼくは永遠を持っている。
つまりそれはあなたとは
何の因果も持たないし
それが永遠に続くということだ。
 夢を見られる存在ではないが
 平和な存在であるということだ。

ある本に「毎日日記を書かねばならない、
などと自分を縛ってしまうと、
字数ばかりを整えるようになり
冒険が出来ずに面白味がなくなる」
といったようなことが
別のたとえで書いてあった。
冒険が出来ずに面白味がないということは
ありふれた内容になるということだ。

長いこと日記を書いてきたおかげで
そういうことがわかりすぎるほどわかる。
数年前、自分に「毎日書く」という
宿題を課してしまったために
あまり冒険をしなくなったことがある。
そうなると何を書いても面白くない。
ということで、それが吹っ切れるまで
書くことをやめたのだった。

今は違う。以前のように
自分に宿題を課したりせず、
日記の神様に頼むことにしたのだ。
おかげで冒険を超えた冒険が出来るようになった。
時には神様との交信がうまくいかず
日記の更新が遅くなることもあるが
神様はいつも答を用意してくれる。
・・・・ほらね。

ぼくは若い頃からずっと
ここが人生の要所だと思った時には
自分の勘に頼ることにしている。
そのせいなのか、ここまでの人生は
やや波乱含みのものになっている。
「こいつは悪人だ」という勘が働いて、
上司に思いっきり反抗し
左遷の憂き目に遭ってしまったり、
「ここにいると死んでしまう」
という胸騒ぎがして
突然会社を辞めてしまったりだ。
きっと周りの人からは、『いい年して
何やっているんだこいつは』的に
思われているにちがいない。
だけどそのいちいちの行動は
理屈や思いつきで起こしたものではなく、
勘という心の声に従ったものなので
ぼくにとっては、実に楽しく
有意義な経験となっている。
おかげでその延長上にある今も
毎日が飽きない。

こういう非常事態のさなかでも
「ぽぽぽぽーん」などという
ノー天気なCMを見せられると、
この国の人たちは妙に盛り上がる。
ぼくの周囲には
「今年の流行語大賞だ」
という人さえいる。

それはともかく、将来この
「ぽぽぽぽーん」という言葉は
『非常時を忘れるな』とか
『防災を怠るな』とかいう意味の
防災用語となるかも知れない。
もしかしたら九月一日防災の日は
「ぽぽぽぽーんの日」となるかもしれない。
そして毎年テレビやラジオで
「ぽぽぽぽーん」と防災意識を
呼びかけるかもしれないな。

春一番が飛んでくる。
海を渡って飛んでくる。
山を越えて飛んでくる。
谷をまたいで飛んでくる。

 寒さの中を飛んでくる。
 春を告げずに飛んでくる。
 ぼくらは黙って見てるだけ。
 なすすべもなく見てるだけ。

春一番が飛んでくる。
田畑めがけて飛んでくる。
家畜小屋にも飛んでくる。
声張り上げて飛んでくる。

 吸えない息吐き飛んでくる。
 飲めない水巻き飛んでくる。
 識者たちは見てるだけ。
 能書きたれて見てるだけ。

春一番が飛んでくる。
至る所に飛んでくる。
所構わず飛んでくる。
夢を壊して飛んでくる。

 石油もないのに飛んでくる。
 電池もないのに飛んでくる。
 先生たちは見てるだけ。
 大丈夫ですよと見てるだけ。

あとひとつがんばれば
冬は去り
あとひとつがんばれば
春は来る

あとひとつがんばれば
芽が吹いて
あとひとつがんばれば
花が咲く

あとひとつがんばれば
雨は止み
あとひとつがんばれば
青空になる

あとひとつがんばれば
日が差して
あとひとつがんばれば
歌が流れる

あとひとつがんばれば
歌を口ずさみ
あとひとつがんばれば
笑顔になれる

あとひとつがんばれば
心根に触れ
あとひとつがんばれば
優しくなれる

あとひとつがんばれば
夢に近づき
あとひとつがんばれば
夢がかなう

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