吹く風ねっと

一生は未来の記憶を散りばめた一本の道。人生は未来の記憶をひろいながら歩く旅。

2009年11月

学生の頃、
詩の授業のたびに
「この言葉は何を意味するか」
「作者は何を言おうとしているのか」
などといった謎解きをさせられていた。
本人じゃないんだから、
そんなことはわかりもしない。
わかりもしないことを、
本人じゃない人から採点されるんだから
面白くも何ともなかった。
社会を憂う詩だとか
人生を語る詩だとかよりも、
恋愛テーマの詩だとか
未来に希望が持てる詩だとかを、
多感な若い時代に鑑賞したかった。
つまり駝鳥とかばっぷくとかは
どうでもよかったんだよ。

もう一ヶ月寝ると
もうクリスマスは終わっている。
仕事納めも終わっている。
テレビは今年の重大ニュースを流している。
ラジオは今年のベストテンを流している。
大人たちは正月の準備にいそしんでいる。
子どもたちは冬休みを楽しんでいる。
学生たちはアルバイトに精を出している。
恋人たちはカウントダウンを始めている。
独身男はカップラーメンを買いあさっている。
独身女はたまには掃除をしようと思っている。
おっさんは風呂に入っている。
おばさんはまだ韓流を見ている。
嫁はソファーでイビキをかいている。
姪はアルバイトでもいいからと情報誌を見ている。
タコさんはすでにダイエットをやめている。
イヌは主人の姿をワクワクして見ている。
ネコはいつものように知らん顔をしている。
イノシシは山から下りてきて銃で撃たれる。
サルは民家に出没して取材される。
タヌキは家族ぐるみで餌を貰える。
なぜか知らないがヒマワリが咲いている。
また人類が滅亡すると言って騒いでいる。
何度滅亡したらいいのかとぼくは悩んでいる。
もう一ヶ月寝ても
世の中はマニュアルどおりに動いている。

意識と無意識との間に
一種怯えの固まりがあって
コロコロ、コロコロ
転がってくるんだ。
それが疲れを運んでくる。
それがイライラを運んでくる。
それが夢を拒んでいる。
その部分に熱を加えて
溶かしてみたら
そういうものすべてから
逃れられそうな気がする。
だけどなかなか
その熱が得られない。
いや、そうではない、
得られても長続きしないんだ。
だから中途半端に溶けては
また一種怯えが固まって、
コロコロ、コロコロ
転がってくるんだ。
生まれてこの方
ずっとその繰り返しだ。

作曲を始めて一年過ぎた頃だった。
初めて納得のいくオリジナル曲を作った。
三拍子と四拍子の違いはあるとはいえ、
その曲がビートルズの『You Won't See Me』に
よく似ていたのだ。
作った時にはそういうことはわからなかった。
なぜならその頃はまだ、
ラバー・ソウルを聴いたことがなかったからだ。

聴いたことのない曲によく似た曲が出来る原因として
ひとつに偶然がある。
人類史上たくさんの曲があるのだから
似ている曲が一つ二つあってもおかしくない。
あとひとつ、
潜在的にどこかで仕入れている場合がある。
それが心地良い曲の場合、
潜在意識の中にすんなりと入ってくるものだが、
それが意識の中に蓄えられ
作曲をしている時にひらめきという形で、
ひょいと脳をかすめるのだ。

おそらくぼくの場合、
その曲を作った頃は作曲の経験も浅かったから
偶然曲が出来たわけではないだろう。
ということは、
ラバー・ソウルが発売されてからその曲を作るまで
つまり九歳から十六歳までのどの時点かで
知らずにその曲を聴いていて
潜在意識の中に蓄積されていたに違いない。
それが温められた結果、三拍子になって
ひょいと脳をかすめたのだろう。

ちなみにその曲のタイトルは『セミ』である。
当時はそれこそ天下でも取ったように
調子に乗って友人に聴かせていたが、
今となっては、
とても聴かせられるものではない。

北風の吹くバス停で、
ぼくはジッとバスを待っていた。
学生ズボンの生地は薄かったが、
ズボン下なんて爺臭いと言って
防寒もせず、
常にその下はパンツ一枚だった。
風はそれを知っているのか、
脚をめがけて吹いてくる。
おかげでぼくの脚には
いつも鳥肌が立っていた。
例えば手前のバス停まで歩けば
待つ時間の短縮になっただろう。
例えば待つ場所を変えれば
寒さを逃れられただろう。
だけどぼくは何もしなかった。
というか、
そんなこと考えもつかなかった。
変に意地を張っていたのか、
時間に無頓着だったのか、
そいつは今となってはわからない。
もしそういうことをやっていれば、
もう少し違った人生を
歩んでいたかもしれない。
高校時代という多感な時期を
ぼくは風に吹かれて
ジッとバスを待っていた。

何度かの思わせぶりに騙されて
ぼくは君が好きだと告げた。
それから君は豹変し、
ぼくを見ると逃げるようになった。
いちおう失恋覚悟の告白だったが、
その仕打ちはかなりこたえたものだ。
いく年月が過ぎて
ぼくは「縁」という言葉を知る。
それでようやくフラれた意味が
理解できるようになった。
でも、何で君が逃げたのか、
いまだにぼくにはわからない。
話したくないのなら
話さなければいい。
目を合わせたくないのなら、
合わさなければいい。
ぼくを見たくないのなら、
近寄らなければいい。
ただそれだけのことなのに、
わざわざぼくのいる所まで来て
ぼくを見ては逃げていく。
そんなわけのわからない
君の行動に嫌気が差して、
こちらから避けるようになった。
あげくに「何で会ってくれないの?」だ。
ただ大人ぶっていただけの、
実は幼い娘だった。
今は逃げずに生きているんだろうか。

孤独を装うことは出来ても
孤独でいることは出来ない。
いくら孤独でいると思っていても
君の息づかいは世界中の人たちに
ちゃんと聞こえているんだ。
「こんな世の中大嫌いだ」
なんて叫ぶ君がいる。
「別に生まれたかったわけじゃない」
なんてほざく君がいる。
君らはすでに忘れている、
自ら望んで
この世の中に生まれてきたことを。
人恋しさの発露が
君を形作っていることを。
それを忘れさせたのは
根拠のないプライドと、
孤独でいるという思い込みだ。
それを時代や親のせいにするなんて
もってのほかだ。
生きとし生けるものの世の中は
おかげさまが織りなす綾なんだから、
孤独でいられるわけがないじゃないか。
いくら自分が孤独だと言い張っても、
言い張る時点で孤独ではないんだ。
だから何度でも言ってやる、
孤独を装うことは出来ても
孤独でいることは出来ないと。

昔はよく車で遠出をしていた。
日帰り宮崎だとか、
日帰り鹿児島だとか、
北九州からだと日帰りがきつそうな場所にも
けっこう足を伸ばしていた。
中でも好きだったのが阿蘇へのドライブで、
雄大な風景を目にすると、
心が洗われる思いがしたものだ。
黒川だとか湯布院だとか、
帰りに立ち寄る温泉も格別によかった。

さて、そういうドライブをする際、
曲がりくねった細い山道なんかを
走ったりすることがよくある。
そこで一番困るのが後続車の運転マナーだ。
こちらとしては初めての道だから、
慎重に運転している。
ところが後ろに地元の車だとか、
道慣れたトラックなんかがつくと、
その慎重さを許してくれない。

相手は慣れているからがんがん飛ばしている。
極力よけてやってはいるのだが、
何せ曲がりくねった細い道のこと、
そのタイミングが実に難しい。
その間ずっとベタ付きされているのだ。
もし動物なんかが飛び出してきて
急ブレーキをかけたら確実に追突される。
そのくらいに引っ付いているのだ。
もうこうなると煽りというより暴力だ。

そう思うと頭に来たが、
これまで事故には到ったことはない。
せっかくドライブを楽しんでいるのに、
その最中に事故なんかに遭うと、
いい思い出が吹っ飛んで、
嫌な思い出が残ってしまうからだ。
この大馬鹿どもが追い越せる場所まで
とにかく我慢していた。

おそらくこのベタ付き野郎は
その間「このへたくそが!」
などと思っていたかもしれない。
ぼくもその間、相手のことを
「車間も取れないへたくそが!」
と思いながら運転していたのだから。

東北を旅した時のこと、
県境にある温泉宿で、
ある看板を見つけた。
そこには赤い文字で
『熊に注意』と生々しく書かれていた。
その看板を見たとたん、
ぼくはなぜか身を伏せた。
すぐそこに熊がいるように思えたからだ。
それ以来だ、
山歩きとか森林散策とかする時に
野生の動物を意識するようになったのは。
地元には熊の出るような山や森はないが、
それでも猿や猪などは生息している。
そういえば、何年か前には
野生のウサギを見たこともある。
タヌキとかもわりと近くにいるようだ。
彼らはぼくたちが見えない所から、
ジッとぼくたちを観察しているんだ。
そしてぼくたちと遭遇しないように、
ジッと身を屈めているんだ。
あのノルウェーの森にも、
実は野生の動物たちが棲んでいて、
見えない所からジッとぼくたちを
観察しているのかもしれない。

生活の蓄積が人生なわけだから
今日のちょっとした出来事も
ぼくの人生だと言える。
時には、そのちょっとした出来事が
人生の方向を大きく変えることだってある。
だからちょっとした出来事といっても
決して疎かには出来ないものだ。
ただ、それにこだわるとだめなんだな。
たとえば晩飯の中に
大っ嫌いなグリーンピースが入っていたことを
根に持ったりするとろくなことがない。
最初は「こんなもの入れやがって」という
ちょっとした怒りに過ぎなかったのに、
そのうち「あいつは殺す気だったんだ」なんて
被害妄想にまで発展することもあるんだ。
だから大っ嫌いなグリーンピースのことは
今この時点でさっさと捨ててしまうんだ。
そしてグリーピースのことを気にしない自分に
一つマルを付けて喜びとするんだ。
そのマルがたくさん貯まっている時というのが、
実は人生がいい方向に向かっている時なんだ。
きっといいことがある。

君のそういう芝居がかった演技に
騙される男は
十人に一人いるかどうかだ。
十人全部を騙そうと思ったら
そんな演技を磨くよりも
自分を磨いたほうが手っ取り早い。
それをしないから
いつまでも「ガール」なんて
君は呼ばれているんだ。
そんなふうに呼ばれたくなかったら
まず自分を磨くことから始めるんだな。
「ガール」「ガール」「ガール」
君がその演技を終えるまで
ぼくはそう呼び続けよう。

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