吹く風ねっと

一生は未来の記憶を散りばめた一本の道。人生は未来の記憶をひろいながら歩く旅。

2007年10月

悔いよ己を 我が恥ずべき過去を
乱るる心を 偽りの行いを
後悔による賛美を 我が醜き身を

悔いよ己を 我が恥ずべき現在(いま)を
偽りの中の沈黙を 沈黙の中の偽りを
鏡の中の虚像を そのうそで固めた眼光(ひかり)を

悔いよ己を 我が恥ずべき未来を
偽才に溺るる弱身を またその過程を
怖れを知らぬ過信を 冷たく映るその影を

新しいブログには書いたが、今日新しいホームページを作った。
ブログを替えたのに、ホームページがそのままというのもおかしいので、取り急ぎ作ってみたわけだ。

http://mengly.michikusa.jp/

とりあえず作ったのはパソコンだけだが、追って携帯用も作っていこうと思っている。

しかし、ブログがこれだけ普及しているので、もうホームページを作ることもないだろうと思っていたが、ないと困ることもある。
やはり何かと便利ということか。

一昨日書いた「ありがとう」とか「感謝します」とか言っていたらいいことが起きるようになるという件だが、何となく理屈がわかってきた。

「楽しい、楽しい」と言っていると本当に楽しくなったり、どんな質素な食事でも「おいしい、おいしい」と言って食べると、本当においしくなったりするが、それと同じことだ。
つまり、「ありがとう」と言っていると、本当に「ありがとう」と言いたくなるようなことが起きるということだ。
きっと潜在脳なるものが、そういうものを誘導してくるのだろう。

その本の中には、「(願い事が)叶いました。ありがとう」とすでに叶ったように言うと、本当に願い事が叶うとも書いてあったが、それも同じ理屈である。

その本を初めて読んだのが、昨年の6月だったから、1年5ヶ月して、ようやく理解できたことになる。
本というのは、こういうふうに納得できて、初めて読んだということになるのだと、何かの本に書いてあったが、50歳を前にして、ようやくそういう読み方が出来たということか。
今までの膨大な読書は、いったい何だったのだろう。

今にも消えそうなろうそくが
パチパチと音を立てて燃えていた。
いつまでその状態が続いていたのか、
気がつくと一瞬火が消えたように見えた。
それは確かにそこで消えた。
だがそれは一瞬だけだった。
昇り行く一筋の煙の中から、
かすかな火が見えた。
確かに見えた。
ぼくはその火を信じることにした。
それが幻であろうとも、
ぼくはそれを信じることにした。
その時からすべては変わった。
一瞬の闇を、
小さな火が照らした。
それは嘘ではなかった。
次第に明るさを増しながら、
その火は膨らんでいった。
膨らんで、膨らんで、
その火は大きな火になった。
誰も疑うことの出来ない、
大きな火になった。
これがすべての過程だと、
ぼくは信じた。
これがあらゆる過程だと、
そして、わかった。

今きみがどこにいて、何をしているかなんて
ぼくには関心ないことなんだよ
もっと大切なことは、きみを心の中から
離したくない、それだけなんだよ

 いつも、きみはぼくの中にいる
 もっと、素敵な笑顔見せてくれ
 早く、もっと早く目の前に
 明るい風を吹かせてくれ、いいね

もう時を急ぐこともない
ぼくは時を超えているんだから
今きみがどんなに変わり果てていても
吹き過ぎる風は、ぼくに優しい

 いつも、きみはぼくの中にいる
 もっと、素敵な笑顔見せてくれ
 早く、もっと早く目の前に
 明るい風を吹かせてくれ、いいね

飲み友だちに、寂しがり屋の先輩がいる。
一人でいるのが辛いのか、しょっちゅう誰彼に電話しているし、意味もなく飲み会の招集をかけたりもする。
年上だし、無碍には出来ないから、スケジュールに多少の無理があっても、なるべくぼくはその飲み会には参加するようにしている。

しかし、50歳を過ぎた寂しがり屋というのも困りものだ。
夜遅くに、泥酔した声で「しんちゃーん、何してんの~♪」なんて電話をかけてきてグダグダ言われるのも、何の前触れもなく突然「何月何日飲み会するぞ。場所決めとってねー。(ガチャ)」とやられるのも、あんまり気分のいいものではない。

先輩、いい年なんだから、もう寂しがり屋なんて卒業して下さいよ。
出来たら、楽しがり屋になって下さい。
そうすれば、一人でも充分に楽しめるはずですから。

一年前、「ありがとう」とか「感謝します」とか言っていたらいいことが起きるようになる、と書かれた本を読んたのだが、それ以来ぼくは素直にそれを実行している。

最初は別にこれといった変化はなかった。
特に思い入れもなかったので、それについて疑問など感じなかった。
ただ、それを言っている間は、余計なことを考えなくてすむので、何となく心地よかった。
それで充分だったわけだ。

ところが、どういう変化があったのかは知らないが、例えば嫌なことがあっても、「幸運の前触れはこういうもんだ」などと自然に前向きな受けとめ方が出来るようになった。
さらに最近は、ポイントサイトとかで、予想が的中したり、ゲームで当たりが出るようにもなってきた。
これまでクジ運が悪いと思っていただけに、この変化は嬉しい。

これからドンドンこういう事が起きるのかなと思っていたら、今日、以前応募していた懸賞が当たった。
賞品は魚沼産のコシヒカリ(新米)である。
何の前触れもなく送ってきたので、うれしさ倍増だった。

そういえば、昨日も新米をもらったのだが、これもまた予期しないもらいものだったので、うち中で喜んでいた。
やはり「ありがとう」効果なのだろうか。
もしそうであれば、近々夢も叶うことだろう。
いや、叶うに違いない。
ありがとうございます。

ああ、こんなことだったのか、
と煙草をふかす。
すべては目の前を通り過ぎる白い煙。
幾層に重なってはいても、
いつかは消えて何もなくなる。
そう、
目に映るだけのことで
実は何もない。
それを見ているぼくがいる。
随処作主、立処皆真
―そういうことか。
煙草をふかす。

「大丈夫」と書いたカードを、部屋のあちらこちらに貼っている。
気落ちした時に見るためだ。
そういうつもりで貼ったのだが、不思議と気落ちする前にこのカードが目に入る。
おかげで気落ちする暇がない。
これは偶然なのだろうか、それとも何者かの計らいなのだろうか。
ものの本によれば、こういう場合は自分の信じる方が正解だということだ。
ということで、ぼくは何者かの計らいだと信じるようにしている。
そう思ったほうが夢があるし、より人生を楽しめる。

旅に出てきます
今吹いている風が
想い出を何もかも
持って行ったので

駅員もいない
小さなホームで
ぼくひとりだけの
汽車を待ってます

見る景色もなく
トンネルばかりの
冷たい闇の中を
汽車は走ります

すれ違う汽車も
そこにはなくて
ただ二本のレールが
迷い道のよう

旅に出てきます
今吹いている風が
想い出を何もかも
持って行ったので


旅に出てきます

思い通りになる人生を
ぼくは求めてきたけれど
そんな自分の居場所だって
思い通りにはならない

心地よい秋の風だって
思い通りには吹いてこず
嘲笑うかのように
雨が降り出す

すべては心のあり方だと
わかってはいるのだけど
そんな心のあり方だって
思い通りにはいかない

思い通りになる人生を
ぼくは求めてきたけれど
そんな自分の居場所だって
思い通りにはならない

このページのトップヘ