吹く風ねっと

一生は未来の記憶を散りばめた一本の道。人生は未来の記憶をひろいながら歩く旅。

2007年02月

昨日ちょっと酒のことを書いたが、実は二月に入ってから、ぼくは酒を口にしてない。
体調が悪いとかいうのではなく、今月に入って朝早く嫁ブーを会社に送っていく機会が多くなった。
そのため、酒が残っていたらまずいと思ったからだ。
おかげで体調はいいのだが、困ったことに体重が増えてしまった。
昨年同時期と比べると5キロも太ってしまっている。
肩こりや背中痛の緩和のために、腹筋だの背筋だのを鍛えていると日記に書いたが、実は体重減らしの意味もあるのだ。

しかし、体重というものはなかなか減るものではない。
特に運動で減らそうとすると、かなり時間を要する。
ぼくの場合、それまで気力がついていかないのが常だ。
それよりも晩飯を抜いたほうが効果がある。
1週間も抜けば、かなり体重は落ちている。
だが、今はそれはできない。
なぜなら、朝昼まともに食事をとってないからだ。
この上、夜を抜くとなると、確実に栄養失調になってしまう。
今は気力に鞭打ちながら、運動に取り組むしかない。

ところで、これまでの経験からすると、減量に必死に取り組んでいる時は体重が落ちないことが多い。
逆に他のことに夢中になっている時のほうが、体重が落ちる。
よく「気がついたら、体重が3キロ減っていた!」ということがあるが、それは他のことに夢中になっている時が圧倒的に多い。
必死に減量している時は、1キロ減らすのに四苦八苦しているものだ。
ということで、運動と何か夢中になれるものを探すことで、この5キロを落としていくことにしよう。

(1)
ウォーキング中、国道沿いで鴬の鳴き声を聞いた。
今年初めてである。
ここ何十年か、鴬の声を聞こうと思ったら山や森に行くしかなかった。
ところが、今日鳴いていたのは住宅地だった。
まさか人が飼っているとは思えないし、わざわざ山から春を知らせにきてくれたのだろうか。

いつもは沈丁花の香りを嗅いだり、鴬の鳴き声聞いたりすると、肩にのしかかった重たい荷物がとれたような気がするのだが、今年に関してはそれはなかった。
それだけ、この冬が暖かかったということなのだろう。

(2)
鴬といえば、県産筑後の酒に『庭の鶯』というのがある。
『夏子の酒』でも紹介されたことがある酒だ。
ぼくはこれまでずっと『西の関』を飲んでいた。
昨年その『西の関』を近くの酒の専門店買いに行った時、その横にその『庭の鶯』が置いてあった。

もちろん『夏子の酒』でその存在は知っていたが、実際にお目にかかるのはその時が初めてだった。
そこで、急きょ『西の関』を買うのをやめ、『庭の鶯』を買って帰ったのだった。
飲んでみると、これが旨い。
ということで、それ以来酒は『庭の鶯』にしている。

(3)
古来から、日本人は法華経を深く信仰してきた。
そのため、鴬の鳴き声は「ホーホケキョウ(法、法華経)」となっている。
これを仏教の影響のない国の人が聞いたら、何と聞こえるのだろうか?
犬の鳴き声のような簡単な鳴き声も、その国その国で違っているようだから、鴬のような複雑な鳴き声は、かなり違ったものに聞こえるに違いない。

会社勤めしていた頃、通勤途中にぼくはよく歌をうたっていたものだ。
なぜそんなことをやっていたのかというと、朝はまだ声帯が眠っているのか、声がひっくり返ったり、かすれたりして充分に声が出ないからだ。
客商売だったので、こういうことでは困る。
ということで、通勤中に声を出す体操代わりに歌をうたっていたわけだ。
ラジオ体操やストレッチをすると体がほぐれるが、歌をうたうというのはそれと同じようなもので、声をほぐしてくれる。

さて、最近は朝の通勤もないので、朝に歌をうたうということはなくなったが、昼間はよくうたっている。
もちろん昼間なので声は出るのだが、昔に比べると声が続かなくなっているのだ。
つまり肺活量が落ちているということである。
まあ、本職ではないので、続かなければ続かなくてもかまわない。
とはいえ昔はちゃんと続いていたものだから、けっこう悔しい思いをしている。

そういえば、小学生の頃は、よく2分近く風呂に顔をつけておくことができたのだが、今は2分はおろか、1分も顔をつけておくことができない。
つまり、昔に比べると肺活量は半分以下に低下していることになる。
ということは、潜水なんかは当然出来ないわけで、もし車の事故で海や川に飛び込んだとしたら、一発で死んでしまうだろう。

昨日も書いたが、今腹筋や背筋を鍛えている。
その効果で、もしかしたら肺活量が上がるかもしれない。
しかし、その程度の運動で、肺活量が倍になるとは思えない。
前に、腹式呼吸を修得すれば、肺活量が上がると聞いたことがあるが、わざわざそういうことを習いに行く気もない。
とはいえ、我流だとあまり効果はないだろう。
やはり、これも歌をうたって鍛えることにするか。

最近、夜寝る前に必ずやっていることがある。
それは、肩から背中にかけての筋肉を動かす運動である。
前は朝起きると、決まって背中や肩が痛かった。
そのため、枕を替えたり、寝相の工夫をしたりしていたのだが、おかげで少しは楽になった。
とはいえ、それで治ったわけではない。
やはり朝起きたときは背中に痛みがあったのだ。

この痛みはコリなどではなくて、おそらく背骨のずれからくる痛みだと思っている。
寝起きなどに、ちょっと無理な姿勢をすると痛みがとが走ることがあるが、それと同じ痛みなのだ。
運動不足のせいで、骨がずれやすくなっているのだろう。

ということで、背骨をずれにくくするために、周りの筋肉を鍛えているわけだ。
これがけっこう時間を食う。
まず柔軟体操をやってから、肩胛骨周辺の筋肉を鍛え、そのあとで背筋を鍛えている。
それに加え、腹筋や胸筋なども鍛えているのだ。
終わった後は、いつも「フゥフゥ」言っている。
呼吸を整えたあとで布団に潜り込むのだが、体が興奮しているのだろうか、しばらくは寝付けない。

おかげで最近は少し寝不足気味であるが、背中の痛みで泣かされることはなくなっている。
それにその運動の効果は、違う部分にも現れている。
例えば背筋だが、フトした時にその存在を感じることがある。
それが何となく快感になっている。
また、腹周りの贅肉も少しは取れたような気がする。
これで寝不足さえ解消されたら、万全だろう。

夜中に日記を書くと翌日に、気持ちや時間のゆとりが持てる。
それはそれでいいのだが、書くことがまとまらなかったり、書くことがなかったりすると、どうしても夜更かししてしまう。
そうなると寝不足になり、体にいろいろな異変が起きてくる。
例えば、小便するときに痛かったり、血圧が上がったり、頭痛がしたりするのは、ほとんどが寝不足からきている。
いくら気持ちや時間の余裕が出来ても、これでは何にもならない。
書けないときは書かなければいいわけだが、これではフラストレーションがたまってしまう。

というわけで、ぼくにとって日記というのは病気の種なのである。
いちおう今年の11月にこの日記を終わらせるつもりだが、それまでは寝不足による諸症状で、そのあとはフラストレーションとの戦いになることだろう。

今日、半年ぶりにデパートに行った。
以前は毎月一度、銀行回りのついでに寄っていたけれど、最近は銀行に行く必要がなくなったので、ついでであるデパートにも行ってなかった。
まあ、デパートに行くといっても、小学生の頃のようにワクワク感があるわけではない。
店内の雰囲気を楽しむこともないし、特にほしい物もないない。
特に最近のデパートはおばさんの洋服や小物類がやたら目に付く。
女性客をターゲットにしているのはわかるが、もう少し男性客も楽しめる品揃えをしてもらいたいものだ。

しかし、何で小学生の頃はデパートに行くのが楽しかったのだろう。
確かにオモチャ売場が目当てというのはあったが、それだけが楽しかったわけではない。
例えば、いろいろな乗り物やゲームのある屋上だとか、大食堂のミルクセーキ、お菓子がグルグル回っている地下の食品売場など、楽しいものが目白押しだった。

そういえばあの当時、デパートにしか売ってないジュースがあった。
ジュースといっても自販機のジュースだが、今のように缶や紙パックものではない。
紙コップのヤツだが、現在企業などに置いてある紙コップ式の自販機とはちょっと違っていた。
自販機の上の部分が透明の容器になっていて、真ん中からジュースが噴水のように吹き出していたのだ。
こういう自販機はデパートにしかなかった。
もちろん飲むのが目的だったが、それを見るのも楽しみの一つだった。
ぼくは飽きずに、そのジュースの噴水を見ていたものだ。
で、味はと言うと、決しておいしいものではなかった。
が、当時のバヤリースやプラッシーよりはずっとおいしかった。

とにかく当時のデパートというのは、夢のある世界だったのだ。
特に当時は、イオンのような大型店や、敷地面積の広いホームセンターは存在しなかった。
デパートの他には、ダイエーや丸栄(後のユニード)といった高級感のない量販店や、吹きざらしの商店街があったに過ぎない。
デパートは、そういう庶民的な世界とは次元の違う世界だった。
それゆえに夢のある世界に思え、行くのが楽しかったのだろう。

ぼくは歩くコースを何通りか作っているのだが、どのコースにも必ずタバコ屋を入れている。
そこでタバコを仕入れるためだ。

一昨日のことだった。
その日は一番短いコースを選んだ。
そのコース内のタバコ屋の横には小さな畑がある。
今は菜の花が咲いているのだが、そこに何か黄色い物がフワフワ浮かんでいるのが見えた。
最近物がダブって見えるので、その時も菜の花がダブって見えているのだろうと思っていた。

ところが、それは浮かんでいるのではなかった。
飛んでいるのだ。
「えっ?」と思い、目を凝らしてよく見てみると、何とその黄色い物体は、モンキチョウであった。
いつもなら桜の花が散った頃にお目にかかるのに、もう飛んでいるのだ。

50年近く生きているが、2月にモンキチョウが飛んでいるなんて初めて見た。
そういえば、何年か前に、普段なら7月中旬から鳴き始めるクマゼミが、6月中旬に鳴きだしたことがあった。
異常気象と言われているが、昆虫界にも異変が起きているのだろうか。

姪が第一志望のW大に合格した。
一生懸命勉強をやってきた努力が実ったわけである。
よく頑張ったと思う。
その間いろいろ悩みもあっただろうが、大学受験に関しては、途中で挫折したぼくには何のアドバイスもできなかった。
せめて叔父らしきことをということで、1月に太宰府天満宮に合格祈願に行ってきたのだった。

午前中に電話で第一報が入ってきたのだが、「合格」という言葉を聞いた時は、思わず「よくやった!」と叫んでいた。
電話中に何度その言葉を繰り返したことだろう。
自分が失敗しているので、我がことのように嬉しかった。

ということで、4月から、姪の東京での生活が始まる。
親元を離れての生活は、これが初めてだ。
最初はちょっときついだろうが、そこを乗り越えたら、あとは自分のペースでやっていける。
とはいえ、東京はいろいろと誘惑が多い場所である。
周りに流されずに、自分をしっかり持ってやっていってほしい。

いつも行っている社務所兼神主宅が火事にあったことを、14日に書いた。
その後も、ぼくはその神社に毎日通っているのだが、一向に建て直すような気配はない。
おそらくは火災保険が下りるのを待っている段階なのだろう。

さて、今日は嫁ブーが休みで、昼から灯油を買いに近くのホームセンターに行き、それから嫁ブーの実家、その帰りにイオンに行った。
そこでハンバーガーなどを食べている時だった。
ぼくと嫁ブーの携帯電話が同時に鳴った。
同時に鳴るということは、消防署からの火災情報である。
さっそく開いてみると、そこには見たことのある住所が書いてあった。

「おい、この住所、見覚えあるぞ」
「○町やけ、うちの近くやねえ」
「おう、近くやの」
「どこ?」
「前に火事があったところ」
「前に火事が…。あ、また神社が火事!?」

そうである。
またしても火事を出したのだ。
もう社務所は燃えてしまっているから、今度は神社のほうだろうか?
もしそうであれば、明日からお参りは出来なくなる。
せっかく願掛けをしているのに、途絶えてしまうわけだ。

その後家に帰ってからニュースを見ていると、その火事のことを言っていた。
火事現場は、やはり神社だった。
が、燃えたのはまたしても社務所だったらしい。
前の火事で柱などが燃え残っていたのだが、そこから出火したということだった。
もちろん現在人は住んでいない状態なので、火の気があるはずがない。
とすると、この火事は放火なのだろうか?
ということは、前回の火事も放火の線が考えられる。
そういえばそこは、かの壇ノ浦の合戦の時に、源氏方の大将が必勝祈願のために建てた神社なのだ。
もしかしたら、一連の火事は平家の怨霊のしわざなのかもしれない。

今日はいい天気だった。
外に出ると、ポカポカ陽気だ。
至る所から沈丁花の香りがする。
時折蜂なんかも飛んできて、まさに春であった。
春一番を過ぎると三寒四温の季節になるわけだが、きっと今日は四温の一日だったのだろう。
昨日は寒かったので、あと三日は暖かいということになる。
もう三寒なんかいらないから、ずっと暖かくあってほしいものだ。

しかしこの冬は厚着をしなくていいから楽である。
12月からこちら、毎年愛用しているダウンジャケットを着たのは、伯母の葬儀の時ぐらいだ。
その日を除くと、毎日薄手のウィンドブレーカーですごしている。
ただ、このウィンドブレーカー、一張羅である。
いつも着るのは4月と11月の一時期だけなので、複数枚必要ないわけだ。

ところが今冬のように暖冬になり、これしか着ないとなると、いろいろ障害が出てくる。
とにかく替えがないから、洗う暇がない。
そのせいで臭くなってしまっているのだ。
どんなニオイかというと、納豆のニオイである。
車を運転している時も、歩いている時も、しょっちゅう納豆のニオイが鼻をつく。
このまま着続けると、車の中が納豆臭くなってしまう。
あと2ヶ月は着るだろうし、もう一枚買うことにするか。

今日は旧暦の1月1日である。
今も旧暦社会だったら、今日の書き出しは「明けましておめでとうございます」となっていたところだ。
また旧暦社会であれば、当然会社は休みだ。
テレビ番組も正月特番で、家族揃ってのんびりとお笑い番組でも見ていることだろう。

さて、年賀状などに、よく「新春」や「初春」という言葉が使われるが、新暦で使うのは何かピンと来ない。
新暦の正月は寒の入り前、つまり寒さに向かっている時期だから、春という言葉に違和感を感じるのだ。
これが旧暦だと、正月は立春前後になるから、寒も終わり春に向かっている時期である。
そういう時期こそ「春」という言葉がふさわしいと思う。

ところで、今日は旧正月ということで、神社の参拝客も少しは賑わっているのではないかと期待して行った。
だが、その期待は裏切られた。
境内には誰もいなかった。
お供え物も15日に置かれたものばかりで、増えてはなかった。
いくら新暦の世の中といえども、神社ぐらいは旧の風習を残しておいてもよさそうな気がする。

国もそうである。
中国のように派手にやらなくてもいいが、少しは旧正月行事でもやってもらいたいものだ。
年に二度、正月があったっていいじゃないですか。

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