吹く風ねっと

一生は未来の記憶を散りばめた一本の道。人生は未来の記憶をひろいながら歩く旅。

2005年05月

今日、ふとしたことがもとで、長谷観音に行った。
長谷観音と言っても、別に鎌倉や奈良に行ったわけではない。
北九州市に隣接する鞍手町にあるのだ。
鞍手町というと、この間この日記でお知らせした貴黄卵生産直売農場と同じ町だが、長谷観音はそこからさらに奥に行ったところにある。
この観音さんは知る人ぞ知る観音さんで、知らない人はまったく知らない。
かく言うぼくも、つい最近までその存在を知らなかった。

何で知る人ぞ知るのかというと、実はここの観音さんは、鎌倉や奈良の長谷観音と同じ木から出来ているらしく、当然のごとく国宝に指定されているのだ。
ところが、テレビやラジオで紹介しているのを見聞きしたことはないし、太宰府天満宮や宮地岳神社のようにCMも流れていない。
さらには県の観光案内にも載っていない。
これでは知りようがないではないか。
もし紹介しているものがあるとすれば、それは鞍手町とか筑豊という狭い地域の観光案内くらいではないだろうか。
ということで、この観音さんを知っているのは、地元の人か信仰の厚い人から口伝えで聞いた人くらいなものだろう。
ぼくもその口だった。

しかし、まさかこんな近くに、国宝があるとは思わなかった。
最初にそれを知った時は、半信半疑だった。
国宝といえば、この辺だと太宰府ぐらいにしかないと思っていたからだ。
で、それを聞いてから、さっそくそこに行ってみたのだが、先に書いたように、周りは普通の田舎である。
看板も幹線に掲げてある大きな看板とは違い、小さな看板が所々にあるだけで、気をつけていないと、すぐに見落としてしまう。
何度も道を間違え、ようやくたどり着いた長谷観音だったが、その時拝んだ観音さんはダミーだった。
本尊は、毎月17日と18日にしかご開帳しないことになっているらしいのだ。
ということで、それからは、その日を狙っていくようになった。

ところで、今日はご開帳の日でもないのに、わざわざ長谷観音まで何をしに行ったのかというと、実は寺の前にある食堂に、昼飯を食べに行ったのだ。
午前中に歯医者に行ったのだが、家に帰ると嫁ブーが、変な顔をしてこちらを見ているではないか。
「何か?」とぼくが聞くと、「腹減ったんよ」と言う。
「何か作って食べればいいやろ」
「面倒やん。ね、どこかに食べに行こう」
「どこに行くんか?」
「どこでもいい」
「何が食いたいんか?」
「何でもいい」
「街中と田舎と、どっちがいいか?」
「おまかせします」
「じゃあ、田舎に行こう」
ということで、長谷観音に向かったのだ。
なぜ長谷観音を選んだかというと、ぼくが知っている田舎の食堂で、通りに面していないのは、そこしかなかったからだ。
せっかく食べるのなら、車の通らない空気のおいしいところで食べようと思ったわけだ。

今日も何度か道に迷ったが、何とかたどり着いた。
せっかくだからと言うので、ダミーの観音さんに手を合わせ、それから食堂に入った。
頼んだものは、ぼくが丸天うどんとご飯、嫁ブーは山かけそばとおにぎりだった。
そういうものが特においしいわけではない。
が、一品だけ「これはおいしい」というものがあった。
それは、ご飯に付いてきた床漬けである。
まさに田舎ならではの味だった。

さて、長谷観音に着いてから30分もいただろうか。
食事を終えたぼくたちは、他に寄るところもなかったので、さっさと家に帰ったのだった。
帰り着いてから車のメーターを見てみると、往復で40キロ走っていた。
ということは片道20キロか。
ちょっと遠かったかなあ…。
しかし、こういう昼食もわりといいものである。
また機会があれば、やってみようと思っている。

今のところ、相撲にはまったく興味がない。
地元力士の魁皇はあんな調子だし、本場所は朝青龍の独壇場になっているし、他にこれといった力士がいるわけでもないし、全然面白くないのだ。
まあ、元々相撲というのは、あまり好きなほうではなかった。
なぜ好きになれなかったのかというと、ぼくが子供の頃は夕方の5時台にアニメや子供向きのドラマをやっていたのだが、場所中は祖父が相撲を見るためにテレビを独占していたので、そういう番組が見られなかった。
そのために祖父を恨み、相撲を恨んだのだった。
今でも呼び出しの声を聞くと、あの頃の悔しさを思い出す。

とはいえ、まったく相撲が嫌いというわけではない。
過去に何度か、相撲にはまっていた時期がある。
新しくは今から10年ほど前だった。
その時期は、舞の海や寺尾、旭道山といった小兵が活躍した時期である。
小さな力士が大きな力士を投げる姿は、実に痛快だった。
その頃は呼び出しの声も気にならず、そういった小兵力士の取り組みはほとんど見ていた。
舞の海が勝った時などは、相撲ダイジェストも見ていたものだった。

それ以上にはまっていた時期がある。
それは中学2年の頃だ。
その頃は、中入り後の取り組みや相撲ダイジェストはほとんど見ていたし、本場所中は毎日スポーツ新聞を買っていたものだ。
さらに雑誌の『大相撲』などを毎月購入していた。
で、何で相撲にはまっていたかというと、後に名大関と謳われた貴乃花(先代)の活躍にあった。
貴ノ花の取り組みの時は、いつも緊張感を持ってテレビにかじりついていたものである。
特に横綱北の富士やライバル輪島との一番は目が離せなかった。

ぼくが一番印象深かった取り組みは、横綱北の富士との一番だった。
北の富士の外掛けを、貴ノ花は体を反ってうっちゃろうとした。
が、そのまま貴ノ花は北の富士を抱え込むような形で、後ろに倒れてしまった。
その時、北の富士は貴ノ花の顔の横に手をついてしまった。
行司の木村庄之助は、それを確認して貴ノ花のほうに軍配を上げた。
庄之助はそれを北の富士の『つき手』ととったわけである。

ここで物言いがついた。
審議の焦点は、『つき手』か『かばい手』か、ということだった。
審判委員は、貴ノ花が倒れたのは、北の富士をうっちゃったせいではなく、北の富士の外掛けに倒れたのだと言うのだ。
つまり『死に体』である。
ということは、北の富士が右手をついたのは、身をかばったからだということになる。
しかし、ぼくには貴ノ花のうっちゃりが決まったように見えた。
審議中に何度も流れたビデオを見ても、確かにうっちゃっている。
確か、解説の人もそういうニュアンスで話していたと思う。
ということで、「軍配が覆ることはない。悪くても取り直しだろう」と思っていた。
ところが、長い審議の末に出た結論は、北の富士の勝ちであった。
その結果『差し違い』をしたことになった庄之助は、翌日から謹慎処分を受けることになったのだった。

これは昭和47年の初場所でのことである。
昭和47年というと、今から33年前か。
えらく古い話を思い出してしまったわい。
こんな古いことを思い出したのも、『貴ノ花死す』の一報が入ってきたからである。
まだ55歳だったのか…。
非常に残念である。

さて、昨日の続きである。
意地の悪いぼくは、さっそく嫁ブーの持ってきた高校の卒業アルバムの中から、ヒロミの写っている写真をピックアップして、カメラに収めた。
そして、試しにその中から一枚選んでヒロミに送ってみた。
すると、ヒロミからすぐに返事が来た。
 >いま焼鳥屋にきとるんやけど、(あの写真を見た友だちから)笑われたやんね。
「なるほど、今焼鳥屋で飲みよるんか。それなら酒の肴が必要やのう」と思ったぼくは、次から次に写真を送ってやった。
その都度ヒロミから、
 >(写真を見た)友だちが爆笑したやん!いま、何しよん?
 >まだ(他の写真を)探しよるやろっ?
 >(写真を見て)友だちがこけたやん!へんなの探しよるやろ。
 >かわいいって言われたよ。
 >やばいやん。やめてください。
 >たまらん。25才の子が(写真を見て)笑いよる。今いったい何しよるんね?
などという返事が返ってきた。

ぼくは、ヒロミに写真を送りながらも、一つ腑に落ちないことがあった。
それは、『見られて困る写真なら、友だちなんかに見せなければいいのに、どうしてヒロミは見せるのだろう?』ということだ。
そこで嫁ブーにそのことを聞いてみた。
「そんなこと知らんよー」
高校時代からの親友である嫁ブーも、さすがにそこまではわからないらしい。
結局わけがわからないまま、ぼくは家に帰ったのだった。

ちょうど家に着いた頃だった。
ヒロミからメールが届いたのだ。
それを読んで、ようやく先ほどの疑問が解けた。
実は、ヒロミはぼくが最初の写真を送る直前に、娘のMリンにメールを送っていたらしい。
それを送ったあと、すぐにメールが届いたので、てっきりMリンからのものと思い、友だちの前で開いたのだという。

そのメールを読みながら、その時の状況をぼくは自分の中で再現してみた。
「あ、Mリンから返事が来たよ」
「えらく早いねえ」
「Mリン打つの早いけね」
「何て言ってきたの?」
「ちょっと待ってね」
そう言って、ヒロミは友だちの前で受信画面を開いた。
「あっ!」
「えっ、何これー?見せて」
「見らんでいいっちゃ」
友だちは、ヒロミから携帯を取り上げた。
そこには、誰にも見せたくない、高校時代のヒロミの写真があった。
「あー、これってヒロミちゃん?」
「…うん」
「ぷっ、ぷぁはっはっはっはっは」
「‥‥」
「あー、腹いてぇー」
「‥‥(汗)」

ぼくが写真を送りつけている間、ヒロミはいったいどんな顔をしていたのだろうか?
ずっと黙っていたのだろうか?
それとも、しかたなくいっしょになって笑っていたのだろうか?
それを考えている間、ぼくは歯の痛みも忘れていた。

昨日、野暮用のため、歯痛をおして嫁ブーの実家に行った。
そこでいろいろとごちそうを出してもてなしてくれたのだが、歯が痛いので当然食欲もなく、さらに味もわからないときている。
そのため早々と食事を終え、テレビで野球を見ながら一人暇をもてあましていた。
歯は痛いし、嫁ブー実家の話題について行けないし、おまけにソフトバンクも途中から逆転されるし、でクソ面白くない。
と、その時だった。
20年近くも忘れていた、あることを思い出したのだ。
それは、ヒロミの高校時代の写真を見ることだった。

20年近く前に、一度ヒロミから高校の卒業アルバムを見せてもらったことがある。
が、そこには肝心のヒロミの顔はなかった。
ヒロミは、そこに載っている自分の顔が気に入らないといって、その部分だけをマジックで黒く塗りつぶしていたのだ。
「これじゃヒロミの顔が見れんやないか」
「いいやん、ボリ(後の嫁ブー)見とったら」
「ボリの顔だけ見とっても面白くないやろ」
「今度、違うの持って来ちゃるけ」
「それならしかたない。ボリから見せてもらおう」
最後にぼくはそう言ったのだが、以降そのことを忘れていたのだ。

20年ぶりにそのことを思い出したぼくは、さっそく嫁ブーに高校の卒業アルバムを持ってこさせた。
「で、ヒロミはどこに載っとるんか?」
「ここよ」
そう言って嫁ブーは、ヒロミの載っているページを開いた。
そのページの中央付近に、ヒロミは載っていた。
ぼくが「きれいやん」と言うと、嫁ブーは「そうやろ」と同意する。
「何でヒロミはこの写真が気に入らんとか?」
「知らんよー。ヒロミ、このアルバムをもらって、すぐに自分の顔を消したんやけ」
「そういえば、ヒロミはこの間のメールで、『卒業写真の顔、死んどるけ』と書いとったのう。そうは見えんけど」
「本人はこの顔が嫌いなんやろね」

「ところで、ヒロミは高校時代も、あんなふうやったんか?」
「うん、全然変わってないよ」
「何か面白いエピソードあるか?」
「エピソードねえ…。あ、そういえば…」
「何かあるんか?」
「一時期ねえ、ヒロミ、駅前で売っていたドラえもんのどら焼きに凝ったことがあるんよ」
「そうか」
「それでね、あんまり食べ過ぎて太ったんよ」
「うん」
「普通なら、食べるの控えるやん」
「うん」
「でもヒロミは違ったけね」
「どうしたんか?」
「あいつねえ、食べるだけ食べて、すぐに下剤飲んで出しよったんよ」
「えっ、食べたものを、すぐに垂れ流しか?」
「うん」
「ヒロミらしいのう」
「ヒロミ、一度下剤飲んで試験受けたことがあったんよ。それで途中で催したみたいでね。青い顔して『先生、トイレ』と言って、教室を出て行ったんよ。そのまま帰って来んかったけね」
「おお、こういうネタを待っていた。さすがヒロミやのう」

ぼくはさっそくその話を書いて、ヒロミにメールした。
ところが、ヒロミの話はちょっと違っていた。
『山崎の肉マンやない? バロンてパン屋さんで売ってたんよ。家ではおはぎばかり食べてて、みるみる太ってきたから、毎日ヨーグルト、パイン、西瓜、蒸しパンとか食べよったら、便秘になってしまったけ、一週間分を土曜にコーラック飲んでだしよったんよ。そしたら2ヵ月で10キロ痩せたんよ。まわりの痩せたい友達から毎日電話がきて、その日のメニューを聞かれたんよ』ということだった。

嫁ブーとヒロミの話は、どうも違う時期の話のようである。
が、いずれにしても笑える話である。

最近、また昔のように、朝、頭を洗うようになった。
いわゆる朝シャンというやつである。
別に、昔を思い出してやっているわけではない。
毎晩帰りが遅いので、当然食事の時間も遅くなる。
その上日記を書いているので、風呂などに入っている暇がない。
ということで、風呂だけは朝型に変えたのだ。

朝シャン、厳密に言えばぼくの場合は『朝石けん』になる。
なぜなら石けんで頭を洗っているからだ。
石けんで頭を洗い出して、もう10年近く経つ。
それまでは、普通にトニックシャンプーなんかを使っていたのだが、若白髪の原因がシャンプーだと知ってから使用するのをやめたのだ。
それから水洗いだけにしたり、塩で洗ったりしたあと、シャボン玉石けんに行き着いた。
最初の頃こそ、髪になじまず、ギシギシして指が通らなかったものだが、何ヶ月か使用しているうちにそれも解消した。
白髪は進行していくものの、シャボン玉石けんで洗っているおかげで髪が健康になり、それまでなかったツヤも出てきたのだ。
そうそう、今週の火曜日のことだが、歯医者に行く前に床屋に行った。
その時、床屋の姉さんから「すごくきれいな白になっていますよ」と言われた。
シャボン玉石けんで髪を洗うと、実にいいことだらけなのだ。
そのため、シャボン玉石けんが手放せなくなった。

ところがである。
ひと月ほど前から、知り合いが化粧品(マルチではない)の卸を始めた。
普段いろいろ世話になっているので、何か一つ買ってあげたかったのだが、ぼくは化粧をしない。
しかたないので、そこで取り扱っているシャンプーを買ってみた。
もちろんぼくはシャボン玉石けんがあるので使わなかったのだが、嫁ブーがそれを使ってみて「これいいよ」と言ってきた。
「どういうふうにいいんか?」
「洗ったあと、ゴワゴワせんのよね。ツヤも出てきたし…。ナンカ癖になりそう」

ぼくは、そのことを知り合いに言った。
「そうでしょ」
「あれいいと?」
「いいんですよ。無添加だから、髪を荒らすことがない。しかも、化粧品と同じ作りだから、いい成分が肌に浸透して、活性酸素をやっつけるんですよ」
「へえ。じゃあ、頭のかさぶたとかにもいいと?」
「一発ですわ。それにですねえ、これは公表はされてないんですけど、白髪にいいらしいんですよ。その中に配合されているエキス、例えばアロエエキスとかが血行を促進するとかで、かなりの人の白髪が改善されたらしいんです」

『無添加』『アロエエキス』『白髪にいい』、このキーワードにぼくの心は動いた。
「そんなにいいんなら、おれも使ってみようかのう」
「ええ、そうしてみて下さい」
「でも、シャボン玉石けん使いよるしねえ」
「ああ、あれもいいですよね。でも、これもシャボン玉と同じく無添加なので、髪を荒らすことがない。しかも、白髪にいいんですからね。試しに使ってみたらどうですか?」
「そうやねえ…」

確かに悪いものではない。
おそらく5,6年前なら、すぐにこれに切り替えていただろう。
しかし、今は躊躇してしまう。
何に引っかかっているのかというと、その一番のメリットである「白髪にいい」である。
『しろげしんた』という名前が示すとおり、ぼくの白髪頭は定着しているのだ。
いわば白髪はぼくのシンボルなのだ。
もしこれが黒髪になったら、『しろげしんた』でいられなくなる。
これが一番の問題点である。

さらに、もし黒髪に戻るとしても、一気に戻ることはないだろう。
おそらくは徐々に戻るわけだから、今までたどってきた道を逆戻りすることになるわけだ。
白髪になっている人ならわかってもらえると思うが、ある程度白髪が増えてくると、それは一つのファッションになる。
しかし、そのなり始めというのは実に悲惨である。
見た目もおかしいし、何よりも精神的なショックが大きいのだ。
それをまた味あわなければならないとなると、どうしても引いてしまう。
せっかく床屋の姉さんが、「きれい」だと言って褒めてくれた白髪なのだ。
しかも、この髪が一番ぼくに似合っていると思っているのだ。
それを元に戻すなんて、到底出来そうもない。

でもなあ…。
けっこう早くから頭が白くなっていたので、若い頃は歳よりも老けて見られていた。
その屈辱を取り返す、今がチャンスなのだ。
おそらく、50代になってからそのシャンプーを使い始めたとしても、ある程度の白髪は治るかもしれないが、老化でなった部分はもう治りようがないだろう。
そうなると、すべての髪が老化するまで、なり始めのような頭で過ごさなければならない。
もちろん、そうなったとしても、毛染めが合わないので、染めることも出来ない。
だが、今ならまだ間に合うのだ。
さて、どうしたものだろうか?

昨日の日記を書いてから、歯医者に行ったのだが、その時先生に「歯が痛い」と訴えた。
「どんな痛みですか?」
「ズキズキと疼くような…、とにかく鈍い痛みが走るんです」
「歯が痛いんですか?それとも歯ぐき?」
「左の頬全体です」
「治療で他の神経を刺激したんだと思います。しばらく歯の痛みは続くかも知れませんが、そのうち安定してきますから」
そう言って、先生は痛み止めを何錠かくれた。
治療の間はまだ昨日の痛み止めが効いていたせいか、さほど痛くなかった。
しかし、治療が終わってからしばらくすると、また昨日と同じような痛みが襲ってきた。
今日新たにもらった痛み止めを飲むことも考えたが、あまり飲みすぎると、肝心の時に効き目がなくなったら困る。
ということで、今この時間までは服用していない。
とはいえ疼くと困るので、頬に『熱さまシート』を貼っておくことにした。
それで痛みがなくなるわけではないが、冷えている間は痛みを忘れることが出来るのだ。
痛み止めは寝る前に飲むことにしよう。

5月20日の日記に書いたように、11月末から始まった歯の治療も、いよいよ最終段階にきた。
最後に治療する歯は左下の親不知である。
この歯は20年ほど前に一度治療している。
その時に神経も取っており、そのあとを銀冠で密封していた。
最近まで何事もなかったのだが、先日隙間が出来ているのを発見し、それが舌を挟んでしまうので、先生に治療を頼んだのだ。
20日の治療後にレントゲン写真を撮り、この火曜日に治療が始まった。

先生が言った。
「この間レントゲン撮った歯ですけど、虫歯になってますねえ。隙間から菌が入ったんでしょうね」
「えっ、隙間は最近出来たものなんですけど…」
「そうですか。もしかして、以前この歯を治療した時に違和感を感じませんでしたか?」
そういえば…、
以前この歯をかぶせる時に、そこの歯ぐきから血が出ていた。
その時の歯医者は、そんなことをかまわずに歯をかぶせたのだった。
そのせいか、いつもその歯だけは血生臭く感じていた。

さて、治療が始まった。
一番奥なので、銀冠を外すのに苦労しているようだった。
銀冠が外れたのは10分ほど経ってからだった。
「外れました。えっ!?」
「えっ?」
「これはひどい。こりゃ根元まで虫が食ってますよ。ちょっと調べてみないとわからないけど、ひどい場合は抜くことになりますよ」
「‥‥」
「ま、ちょっとやってみますね」

あのドリルみたいなので、けっこう深く削ったあと、針でそこを刺しだした。
「痛いですか?」
「いや、痛くないです」
「そうですね。神経はとってありますからね。でも、痛ければ言って下さい」
この歯医者に行き始めた頃にも同じことを言われた。
その時は、「神経がないなら痛いはずがないやん。この先生、おかしなことを言うなあ」と思っていた。
だが、徐々にその意味がわかるようになった。
つまり、神経はとっていても痛みは伴うということである。
なぜそうなるのかはわからないが、痛いものは痛いのである。
きっと治療によって、その周辺の神経が反応するのだろう。

その後20分ほどして、先生は「どうにか歯は抜かなくてすみそうですね。そこで治療ということになるんですが、根が深いからすぐには治りそうにありませんので、徐々にやっていきます」と言って、その日の治療を打ち切った。

さて、家に帰ってしばらく経ってからのことである。
何か治療した歯が普通でないのに気がついた。
削っているから、上の歯に触れるようなことはないのだが、少し痛い気がする。
おかしいなと思って、そこを指で触れてみると「ズキン!」とした。
小学4年の時に、生まれて初めて味わった歯の痛みと同じような、重い痛みだった。
最初は、治療したばかりだからそうなるのだろうと軽い気持ちでいた。
ところが、翌日もそして今日も痛みは治まらない。
そして今夜、この日記を書こうとした時に、ついにそのピークがやってきた。
左側の頬全体が痛くなったのだ。
そこで、日記は後回しにして、とりあえず寝ようとした。
しかし、痛みのためになかなか寝付けない。

その時、高校時代の保健の先生を思い出した。
何でこんな時に、あの先生のことを思い出すのだろう。
と、しばらく考えていた。
「あ、そうか!」
ぼくは、あることに気がついた。
その先生の授業で痛み止めのことを言っていたのだ。
「痛み止めは、少しの痛みにはあまり効果はない。痛みのピークの時に飲むのが一番効果がある」
そう言って、自分の体験記を話してくれたものだった。
その話を聞いて以来、ぼくは痛み止めをあまり服用しなくなったのだ。

「そうか、今が痛みのピークか。ということは、服用するなら今だ」
そう思って、これまでどんなに痛くても決して利用することのなかった、痛み止めの錠剤を取り出した。
この錠剤は、12月に歯を抜いた時にもらったものである。
ようやく日の目を見ることになったのだ。
飲んでからしばらくは痛みがあって眠れなかったが、そのうち薬のが効いてきたのか眠ってしまったようだ。
朝起きると、歯に少し違和感は残っているものの、痛みはすっかりなくなっていた。
おまけに、他の歯に残っていた軽い痛みも、すっかり取れてなくなっていたのだ。

現在、翌27日の午後1時ちょうどである。
痛みのせいで、かなり日記の更新が遅れてしまったわい。

小学6年生の頃、親戚の家で立てない子犬を飼っていた。
この子犬、先天的に立てないのではなかった。
ある事件以来立てなくなったのだ。
その事件とは、その親犬と兄弟犬が犬さらいにさらわれたのだ。
おそらく立てない犬は、その光景を隠れて見ていたのだろう。
そのためショックで立てなくなったのだ。
ぼくが親戚の家に遊びに行くと、いつもその子犬は段ボールの箱の中でうずくまっていた。
伯母が食事を与えても、少し口を付けて、あとは残してしまう状態だった。
そのため、元々痩せていた体はさらに痩せ細り、ほとんど骨と皮だけになっていた。

親戚の家の誰もがその子犬のことを心配したが、手のつけようがない。
「かわいそうだが、このまま死ぬのを待つしかないなあ」と伯父は言った。
「病気なんかねえ」
「精神的なものだとは思うけど…」
「立ったら治るんかねえ」
「そうやなあ。立ちさえすれば、何とかなるかもしれん」
「ふーん。じゃあ、立たせてみようか?」
そう言って、ぼくはその子犬を抱え、立たせてみた。
しかし、足に力が入らないのか、すぐに倒れてしまう。
ぼくは諦めず、何度か同じことを繰り返した。
すると子犬は、「ウー」と言って怒り出した。
ぼくはその子犬の頭をひっぱたいた。
「おまえのためにやってやりよるんぞ。偉そうにうなり声なんかあげるな!」
子犬は、その意味が理解できたかのように、黙り込んでしまった。

そんなある日、ぼくは一つの実験をした。
それは念力である。
マジシャンのように手の指に力を入れて子犬の上にかざし、「立て、立て」と言って念を送った。
最初子犬は、ぼくのそんな行為を無視していた。
しかし、ぼくは諦めずにずっと念を送ったのだった。

ぼくが念を送り始めて、10分ほど経った頃だった。
突然子犬の体が、電気が走ったようにピクッと動いたのだ。
「もしかしたら…」
そう思ってぼくは、さらに強い念を送った。
「立ち上がれ、立ち上がれ」
すると子犬の体は、微かだが動き出したのだ。
さらに続けていると、その動きはだんだん力強くなり、体全体にエネルギーがみなぎっているようだった。
その後、子犬は足に力を入れだした。
自分の意思で立とうとしているように、ぼくには見えた。
そして何度も何度もよろけながらも、子犬は立ち上がろうと試みた。
そして、何度か目の挑戦で、ついに子犬は立ち上がったのだ。
「立った!子犬が立った」
まるでアルプスの少女ハイジでクララが経った時ように、ぼくははしゃぎまわったのだった。
ぼくはおよそ半年ぶりに、その子犬が立つのを見たのだった。

それ以降子犬は、段ボール生活をしなくなった。
長い間寝たっきりだったので、動きはぎこちなかったが、それでも立って歩き回るようになったのだった。
しかし、相変わらず、食べることはあまりしなかった。
そのため、骨と皮だけの体のままだった。
そして、それが致命傷になった。
子犬は、その後1年足らずで死んでしまったのだ。

死んでから思ったのだが、子犬に念を送って、食べるようにすればよかった。
しかし、犬が立ち上がってからのぼくは、念力のことをすっかり忘れていた。
念力の実験ということでやったことだが、立ち上がった時に「これは偶然だ」と思ったためだ。

「そういえば、あの時念力で子犬を立たせたんだ」と思うようになったのは、ごく最近のことだった。
もしあの時に念力を鍛えていたとしたら、もっと違った人生を歩んでいたに違いない。
少なくとも、肩や腰の痛みくらいは自分で治せるようになっていたことだろう。
そう思ったぼくは、あの時やったことを思い出しながら、肩や腰に念を送ってみた。
しかし、すでにその能力は失われていたのだった。

また中国が靖国参拝についていろいろ騒いでいる。
そのことについて、ある方から「しんたさん独自の感性で、斬ってもらえませんか」というご意見をいただいた。
しかし、靖国に対しての中国の反発は昨日今日始まったことではないし、そのことについてはこの日記を始めた頃から、何度も書いてきているので、改めて書こうとは思わない。
ということで、ある方様、「中国という国は、4000年かかっても大人になりきれない、バカな国だ」、ということでよろしいでしょうか?

「バカ」で思い出したが、ぼくが過去に書いた中国関連の記事を読んで、「あなたはバカじゃない?」というありがたいコメントをいただいたことがある。
確か、『福岡大虐殺』に対していただいたコメントだったと思う。
なぜか、そのコメントは日記を書いてから、かなり日数が経って書かれたもので、すでにその頃にはコメントが書かれたブログは使ってなかった。
そこでレスを付けずに放っておいたのだが、ちょうどいい機会だ。
今日レスしておくことにしよう。

あの記事は、「中国人のでっち上げであることが判明してきた南京大虐殺と同じやりかたで、この間死刑判決の出た福岡一家4人殺害事件を、中国人が行った残虐無比な福岡大虐殺事件として、世界に訴えていこう」というものだった。

もちろん、日本人は中国人のようなバカなことはやらない。
仮にそういうことをやる国民なら、とうの昔にやっていただろう。
元寇時の対馬や、昭和12年7月に二百数十名もの日本人が虐殺された通州事件などは、格好のネタである。
しかし、日本人はそういうことはやらないのだ。
過去のことは、「水に流す」国民だからである。

さて、その「あなたはバカじゃない?」コメントだが、書いたのは『中国人』というハンドルネームの人だった。
リモートホストを見ると、東京のOCNを利用しているようで、もし本当に中国人なら、留学生ということになる。
で、どういう経緯で『福岡大虐殺』にやってきたのかというと、『福岡市の人口』で検索したら、そこにぼくのブログがあったのだ。
そして、それをクリックしたら、『福岡大虐殺』が現れたというわけだ。

しかし、この人は、どういう理由で福岡市の人口などを調べていたのだろうか?
意地の悪い見方をすれば、「こいつはスパイで、日本の地理を調べて、将来の有事に備えている」となるだろう。
しかし、日本人はそんなことは思わない。
人を疑わないからである。
疑うくらいなら、とうの昔にスパイ防止法が出来ているはずだ。

さて、遅くなりましたが、中国人(笑)さんにレスします。

>あなたはバカじゃない?

はい、ぼくはバカですよ。
こんなバカが書いたことを、最後まで読んでくれて、ありがとうございました。
帰国したら、あなたが「バカじゃない?」と思うようなことを、実際にやった貴国の方々によろしくお伝え下さい。
それでは、また。

5月6日の日記に書いたが、ぼくは20代後半に、バンドの人たちと会うためにダンスホールに通っていた。
そのダンスホールは、ダンスホール兼ホストクラブといった感じの店だった。
帳場以外に女性の従業員はいなかった。
つまり、お客の相手はすべてホストがやっていたのだ。
ダンスホールであるから、お客のほとんどはグループが多かった。
しかし、女性一人で来ている人もしばしば見受けられた。
そういう人たちは、みなホスト目当てだったのだ。

ホストにはいろいろなタイプの人がいた。
ツンとしたタイプの人もいれば、妙に愛想のいい人もいた。
ぼくと嫁ブーは一時期ほとんど毎日そこに行っていたのだが、ツンとしたタイプの人はぼくたちの存在をあまりよく思っていなかったようだった。
それが気になって、ある時バンマスに「あまりここに来たら迷惑じゃないんですか?」と聞いたことがある。
バンマスは「気にせんでいいよ。しんちゃんたちは、ぼくたちの大事なお客さんなんやけ」と言ってくれた。
それで少しは安心した。
なるほど、よく思ってないというのは、ぼくたちがバンドのお客だったので、自分たちとは関係ないと思って無視していたのだろう。
そう思うことにした。

その一方で、「おっ、今日も登場やね」と気安く声をかけてくるホストもいた。
その人たちは、暇になると決まってバンド部屋に来ていた。
人生経験豊富なバンマスに、いろいろ相談したりしていたようだ。
そういう人たちの中に、『せいちゃん』という人がいた。
痩身でイケメン揃いのホストの中にあって、一人デブで顔は人並みだった。
が、そのキャラが受けていたのか、お客さんの指名がやたら多かった。
とはいうものの、指名するお客のほとんどは、年配の男性だったが。

せいちゃんにはある特徴があった。
それは、シャツが短いということだった。
Yシャツもアンダーシャツもそうだったのだ。
わざとそうしているのではなかった。
せいちゃんは、身長の割に胴が長かったのだ。
そのため、せいちゃんの背中はいつもはだけていた。
さらにズボンがずれるので、BVDのブリーフが見えることもあった。
しかし、せいちゃんはそういうことには無頓着だったようだ。
ぼくが「せいちゃん、パンツが見えよるよ」と言っても、せいちゃんは「ああ、そうですか」と言ったっきりで、別にそれを気にしているふうでもなかったのだ。

そういえば、せいちゃんは暇になると、いつも背中がはだけたままの格好でバンド部屋に来ていた。
そこで、いつもこぼしていた。
「バンマス、ぼくこの仕事に向いてないみたいなんですよ。やっぱり他の職を探したほうがいいですかねえ?」
バンマスは、いつも同じ受け答えをしていた。
「いや、せいちゃんはホストが天職だと思うよ」
するとせいちゃんは、こう言った。
「うーん、やっぱりそうですかねえ」
バンマスは笑いをかみ殺して言った。
「うん、せいちゃんほどホストの似合う人はおらんよ」
せいちゃんはバンマスのその言葉で、完全に吹っ切れたようだった。
「そうですよね。そうそう、ぼくほどホストの似合う男はおらんやったんだ」
そう言って、せいちゃんは店に戻っていった。
せいちゃんが出て行ったあと、バンマスはいつもぼくの顔を見てニヤリと含み笑いをするのだった。

いつだったか、バンドメンバ主催のワインパーティに呼ばれたことがある。
そこにはせいちゃんもいた。
みんなラフな格好で来ていたのに、なぜかせいちゃんはホスト姿で来ていた。
もちろん、その時もせいちゃんのシャツは短かった。
いつものようにブリーフも見えたのだが、その日はベルトをゆるめていたせいか、そのブリーフまでずれて、お尻が半分出ていた。
ぼくと嫁ブーは、せいちゃんの後ろにいたのだが、そのせいで、ずっとせいちゃんのお尻を見ながら飲む格好となったのだ。
あまりきれいなお尻とは言い難く、太っているわりには、小さなお尻だった。

あれから十数年が経つけど、せいちゃんは今どうしているのだろう。
他の職に就いたのだろうか?
それとも、相変わらず天職(笑)で頑張っているのだろうか?

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