吹く風ねっと

一生は未来の記憶を散りばめた一本の道。人生は未来の記憶をひろいながら歩く旅。

2004年11月

ようやく計算の出来たぼくは、
「150万です」と言った。
「嘘をつけ。伝票がないやないか!」
「伝票ですか、ちょっと待って下さい」
そう言って、ぼくはクレジットの受付に行った。
その時、背後から店長の「こら、逃げるな」という声が聞こえた。
その言葉を聞いて、ついにぼくの堪忍袋の緒が切れた。

ぼくはクレジットの受付で、自分の売った分のクレジット伝票を素早く拾い出し、それを店長のいるところに持って行った。
そして、それを店長の目のいるカウンターの上にバシッとたたきつけた。
「150万ですっ!!」
ぼくは店長をにらみつけて、大声で言った。
その時ぼくは、自分の形相が変っているのを自覚した。
その形相とは、怒りそのものだった。
それまで店長に対して我慢に我慢を重ねていた感情が、一気に表に出たのだ。

それを見た店長は、ひるんで黙り込んでしまった。
店長が何も言わないので、ぼくは畳みかけるように言った。
「ちゃんと調べて下さい。150万円売ってます」
店長は、まともにぼくを見ることが出来なかった。
「150万…」と小声で言いながら、周りをキョロキョロしだした。
目は完全に宙に浮いている。
きっと、そのあとの言葉を探していたのだろう。
そして、ようやく出た言葉が、
「150万くらいでいい気になるな」だった。
しかし、先ほどのような威勢の良さはなく、声は震えていた。
「誰がいい気になっとるんですか!?」
「…もういい」
小さな声でそう言うと、店長は戻っていった。
ことあるごとにぼくに悪態をついていた店長は、それ以来ぼくを見るとこそこそと逃げていくようになった。
映像キャンペーン、残り1ヶ月になった頃の話である。

話は変るが、2年前に『退職前夜』(2002年9月27日~10月2日)というタイトルの日記を書いたことがある。
その日記にも、ぼくと、その時期の店長とのバトルを書いているが、だいたい今回の店長と同じ展開になっている。
最初、店長から言いたいことを言われるのだが、ぼくはじっと我慢して、いよいよ最後になって、その鬱憤が爆発するというパターンである。
どちらの店長も似たタイプの人間だった。
人前で格好をつけたがり、強がるタイプだ。
大声で人を罵倒するだけならともかく、酷い時には相手を叩いたりもする。
『退職前夜』時の店長などは、腹を手術して退院してきたばかりの人間に、「気に入らん」という理由で、その腹めがけてパンチを入れたことがあった。

聞くところによると、彼らは就職して以来、これと言ってつまずくこともなく順調にその地位まで昇ったということだった。
そのために慢心してしまい、相手の気持ちなんかこれっぽっちも考えられない人間になってしまったのだろう。

そういう人間は、得てして強く見えるものである。
だが、実際はそうではない。
彼らはあまり人からの攻撃を受けたことがない。
またその慢心から、自分に攻撃するような人間はいないと思っている。
だから、そういう風に強気に振る舞うのだ。

そういう人がもし攻撃を受けたらどうなるか。
そう、前述の通り、手も足も出なくなるのだ。
特に今回のぼくのような、それまで守勢に回っていた人間から突然攻撃を受けたのだから、そこに精神的なショックも加わる。
ぼくを見るとこそこそと逃げるようになったのも、そのせいである。
今回のことで、ぼくはそのことを学んだ。
そして、退職時にそれを生かしたのだった。

電子レンジのキャンペーンが終わり、当初の約束通り、ぼくは映像部門に回された。
もちろん電子レンジの時と同じく外回り専門で、相変わらず店にいることは少なかった。
だが、電子レンジの時と比べると、テレビやビデオといった商品は売りやすかった。
次から次と情報が上がってくる上、決定率も高かった。
しかも、その部門は責任者がしっかりしていたおかげで、『テッポー』に走るようなことはなかった。

ある日のこと。
その日は朝からお客さんが多かったせいもあり、ぼくは朝からずっと売場にいた。
午後になっても客足は途絶えなかった。
暇になったのは、ようやく夕方になってからだった。

課長がぼくを呼び、「しんた、今のうちに休憩とってこい」と言った。
ぼくはその言葉に甘えて、「わかりました」と言って休憩室に行った。
すでにその日の個人予算を達成していたので、気が楽だったせいもあり、そこでのんびりとタバコを吸っていた。
そこに、他部門の社員たちがやってきた。
彼らはぼくを見つけると、
「しんちゃん、今日は忙しそうやったねえ」と言った。
「うん」
「かなり売れたやろ?」
「まあまあやね」
「あんたかなり売っとるみたいやけ、こちらに少し回してくれんね」
「それは出来ん」
そんな会話をしている時だった。
店長が休憩室に入ってきたのだ。
店長は何をするでもなく、休憩室の中を見回すと、ニヤッと笑って出て行った。
それを見てぼくたちは、口々に「何やったんかのう。感じ悪い」と言い合った。

休憩時間が終わり、売場に戻ってみると、そこには店長がいた。
何をやっているのかと、遠目で見てみると、どうも売上伝票を探っているようだ。
『何を調べているのだろう?』と気にはなったが、関わると面倒なので、なるべく店長の目につかないところに立っているとこにしようと、そちらの方向に歩き始めた。
その時だった。
後ろから「しんた、ちょっと来い」という、店長の声が聞こえた。
どうやら、ぼくが戻ってきているのに気づいたらしい。
ぼくが店長の所に行くと、店長は、
「おい、おまえ。今日いくら売ったんか」と言った。
「え?」
その日のぼくの売り上げた分は、クレジットばかりだったので、まだ計上してなかった。
それを知らない店長は、ぼく名義の伝票がないのを見て、鬼の首をとった気持ちになったのだろう。

彼は勝ち誇ったような顔をして、
「いくら売ったんかと聞いとるんだ」と声を荒げて言った。
すぐさまぼくは、その日売った金額を、頭の中で計算した。
その間にも、店長はいろいろと悪態をついてきた。
「言えるわけないのう、売ってないんやけ」
「売ることも出来んくせに、休憩とるなどもってのほかやのう」
「おまえはみんなといっしょに談笑できるような身分じゃなかろうが」
「おまえの、いったいどこが優秀なんかのう。おれから言わせればバカだ」
「ほら、早く言わんか。いったい、いくら売ったんか、おっ!?」

1ヶ月目の終わる頃に、電子レンジ部門はようやく予算を達成できた。
が、その売り上げの多くはテッポーで占められていた。
配達されない伝票が数多く残っている。
それに伴って、未入金も残る。
そのせいで、とうとう本社からのチェックが入りだした。

ある日、売場の責任者からぼくは呼ばれた。
伝票のチェックをしてくれと言うのだ。
そこで、ぼくは配達されてない伝票を、すべてノートに書き写し、担当者一人一人に「この伝票は大丈夫?」と聞いて回った。
その中には大丈夫な伝票も含まれていたものの、やはり大丈夫でないものが大半で、その金額は翌月の予算の半分以上を占めていた。

翌月、会議の場で店長は、「本社から未配達・未入金の調査をしろと言ってきたぞ」と言った。
そして、「何でこんなになるまで放っておいたんか」と、レンジの責任者を責めた。
おかしいではないか。
元々は店長が「打て」と言い出したことなのだ。
たしかに、店長の指示に「ノー」と言えなかった責任者にも責任はあるが、一番責任を追及されるべきは当の店長なのだ。

しかし普段から「ノー」と言い慣れていない人は、こういう時でも店長の機嫌を損なわないような発言をするものである。
「どうしても売り上げがほしかったもんですから…」
「それについて、何か調査はしとるんか?」
責任者は、「はい」と言ってぼくが調べたノートを取り出した。
それを見て店長は、「こんなにあるんか!」と言って天を仰いだ。
そして「ちゃんと処理しとけよ」と言うと、その後はそのことに触れようとしなかった。

明けて翌月、ひどい数字の連続だった。
だが、それはテッポーの処理をしたためではない。
実際に売れなかったのだ。
店長は相変わらず、レンジの責任者を責め立てる。
が、もうどうしようもなかった。
全体朝礼で店長は、「テッポーの処理はキャンペーンが終わってから考えることにして、今はとにかくレンジの売り上げを作れ!」とみんなに檄を飛ばした。
しかし、従業員は笛吹けど踊らずで、全くやる気を失っていた。
テッポー慣れしてしまっていたため、どうやって売っていいのかわからなくなっていたのかもしれない。

結局、その月のレンジの売り上げは惨たるものだった。
当然それは本社でも、先の未配達・未入金と併せて問題になった。
とうとう店長の管理能力に、「?マーク」が点ったのだった。

またしても外に出る生活が始まった。
他の従業員から出てくる見込み客を中心にフォローしていった。
最初のうちは当たりもよく、決定率は高かった。
そのせいもあってか、電子レンジ部門の売り上げは順調に伸びていった。
ところが、2週間たち、3週間たっていくうちに、その売り上げにかげりが出てきたのだ。
従業員からもらった見込み客の家に行っても、以前のように当たりはよくない。
「電子レンジ?いいえ、そんなものいると言った覚えはありませんよ」
「○○さんの紹介だって?そんな人知らん」
特Aランクとして見込み客リストに載っているのお客さんの、何と6~7割の人がそういう応対をするのだ。
そのため、外での売り上げはめっきり減ってきた。

一方店の方も、お客さんは少なく、特に電子レンジのところに人がいるようにも見えなかった。
ところが、夜レジを締める段階になると、なぜか「今日も予算がいった」と言って喜んでいるではないか。
ぼくは、「これはおかしい」と思った。
だが、腰掛けの身分ゆえ、なかなかその事情を教えてくれない。
そこで、ごく親しい同僚を捕まえて、「何がどうなっとるんか」と聞いてみた。
同僚は小声で「テッポーよ」と言った。
「ああ、やっぱりそうか」とぼくは言った。

『テッポー』とは架空売上げのことで、『空鉄砲』からきていた。
つまり、売れてもないのに、さも売れたように伝票を操作していたのだ。
その手口は、伝票に見込み客等(架空の場合もある)の名前を書き、配達扱いにして伝票を打つ。
その際、代金は配達時にもらうことにしておくのだ。
これでいちおう売り上げは立つ。
しかし、架空であるから、いつまでたっても配達はしないし、また入金があるわけではない。

「誰がそんなことをさせよるんか?」
「店長に決まっとるやん」
「え?」
「あの人、かなり焦っとるみたいよ」
「どうして?」
「最初売り上げがよかったもんやけ、本社にかなりほめられて、いい思いをしたらしいんよ。売り上げが落ちたら格好がつかんやん」
「でも、テッポーがばれたら大変なことになるやろ?」
ぼくは、過去それをやって、転勤させられた人を何人も見てきている。

『テッポー』、つまり架空売り上げは、何もその店の専売特許ではない。
多かれ少なかれ、どこでもやっていることだ。
ただ、他の会社では、翌月確実に処理できる範囲でしかやらない。
ぼくも何度かテッポーを打ったことはある。
が、それは常識の範囲内に納めていた。
ところが店長は、そういう常識を度外視して、売り上げを上げられるだけ上げさせたのだ。
そのおかげで、一番嫌いであろうぼくに向かっても「しんた君よ、何かないんか?打てるんなら打てや」言ってくる始末だった。
ぼくは、そのたびに「ありません」と言って断っていた。
しかし、店にはぼくみたいな人間ばかりいるのではない。
店長の前でいい格好をしたい人間や、断ることが出来ない気の弱い人間もいる。
そういう人たちが、次から次へとテッポーを打っていった。

前の会社では、毎年秋になると2ヶ月間電子レンジの販売キャンペーンをやっていた。
これは全社挙げてやっていたもので、その部門はもちろん、他の部門の人間もノルマを課せられた。
そのノルマは、一人当たり100万円前後だった。
当時電子レンジの価格は10万円前後だったが、10本近く売らなければ、その金額に到達しない。
しかしそれは他部門の人間の数字である。
ホスト部門ともなると、この何倍も売らなければならなかった。

その当時の電子レンジといえば、すでに一般的な調理用品になっていて、かつて三種の神器と呼ばれていた頃のような、憧れの商品ではなくなっていた。
そのため、最初にそのキャンペーンを始めた頃のように売りやすい商品ではなくなっていた。
それをこの数字である。
会社に入った当初から、ぼくはそういう部門に行くのは嫌だった。

ぼくが店長から内示を受けたのは、そのキャンペーンの始まる前の月だった。
店長が大型部門と言ったので、「もしかしたら、電子レンジを売らされるのか」と頭の中を不安がよぎった。
そこで、皮肉は言うが、異動先の部門をなかなか教えてくれない店長に、「で、どこに行くんですか?」と聞いてみた。
「だから大型部門と言ったやろうが」
「もしかして、電子レンジですか?」
「おう、そうよ」
「そうですか…」
「おまえには、キャンペーンが終わったら、また異動してもらう。優秀な人間なんやけのう」
「え?」
「電子レンジが終わったら、次のキャンペーンがあるやろうが」
「映像部門ですか?」
「おう。その次も考えとるぞ」

店長はぼくをたらい回しにしようとしていたのだ。
電子レンジと映像と、確かに大型部門ではある。
が、どちらも専門的な知識が要求される部門なのだ。
そこに腰掛け程度の人間がいて、何の戦力なるだろうか。
やはり店長はぼくを辞めさせたがっていたのだ。
周りからいろいろ言われているから、いちおうぼくを大型部門に異動させた。
それで面目は保てる。
しかし、その部門に定住させることはしない。
部門を短期間で異動させることで、ぼくを追い込もうとしたのだ。
そのことはわかりすぎるほどわかっていたので、ぼくはその手に乗るようなことはしなかった。
店長が根負けするまで、じっくり待つことにしたのだ。

さて、翌月。
電子レンジの売場とはいえ、ようやく店に戻ることが出来た。
『これで、少しは気分的に楽になった』と思っていると、そこの売場の責任者が、「店長から、『しんたは外販が好きらしいから、あいつに各社員から出た見込み客の家を回らせて、売ってきてもらえ』と言われとるんよ」と言ってきた。
「また外回りですか?」
「しかたないやん、店長命令なんやけ」
結局、店長はぼくが店にいるのを許さなかったのだ。
その後店長は、ぼくが店にいるのを見つけると、「こら、行くところはないんか?店でボサーッとしてないで、さっさと外回りしてこい!」と言って、ぼくを追い出しにかかったものだった。
そのせいで、ぼくは何度も切れそうになった。
が、「絶対根負けさせてやる」と思い、我慢していた。

それから数日たった、ある日の朝のことだった。
配達業者の社長がぼくに声をかけてきた。
「今、時間空いとるかねえ?」
「ええ」
「じゃあ、ちょっとつきあってくれん?」
特にすることもなかったので、ぼくは「いいですよ」と答え、社長について行った。

社長は店の近くにある喫茶店に入っていった。
そして席に着くなり言った。
「大変そうやね」
「ええ、まあ」
「ぼくが思うに、今の店長はあんたのことを誤解しているようだ。ぼくの周りの人間は、今回の人事を聞いた時に、みんな首をひねったもんねえ」
「誤解してるんですかねえ。まあ、嫌われているのは確かですけど」
「いや、それは誤解から来てると思うよ」
「そうですかねえ」
「で、ちょっとぼくに任せてくれんね」
「え?」
「店長に、あんたを正しく評価してもらえるように仕向けるけ。だからもう少し我慢しとき。みんなあんたの味方なんやけ」
その日、テナントの社長にも同じようなことを言われた。

また、ある時のこと。
仕事が終わって店を出ようとすると、同僚が駆け寄ってきた。
「しんちゃん、わかったよ」
「何が?」
「あんたの噂を流した奴」
「え?」
例のスパイのことだ。
「あいつとあいつ。おれ事務所で発注しよる時に、店長にチクりようの聞いたもんね」
「そうね」
「でもね、その噂も誤解だったとわかったみたいよ」
ぼくはそれを聞いて、配達業者の社長やテナントの社長の言ったことを思い出した。
あの人たちがいろいろと手を尽くしてくれていたのだ。
ぼくはすべてが好転しているように思えた。

2ヶ月目も終わりの頃だった。
店長が閉店後、外販部隊を集めた。
そして、
「いろいろ君たちに頑張ってもらっているけど、今、肝心の店のほうの人員が足りない状況にある。翌月からは大切なキャンペーンも始まることだし、このままだと大変なことになってしまう。そこで、君たちを元の部署に復帰させたいと思っている」
と言った。
これで2ヶ月に渡った、外販部隊という名の見せしめが終わった。ぼくはそう思っていた。
しかし、そうではなかった。
店長のぼくに対する執拗な攻撃は、まだ続いていたのだった。

翌日、内示があった。
前日の話では、メンバーは元の部署に戻されるはずだった。
ぼくより先に呼ばれたメンバーは、みな元の部署に戻るように言われたようだった。
店長は最後にぼくを呼んだ。
「しんた、昨日元の部署に戻すように言ったけど、おまえには他の部署でやってもらうことにした」
「え?」
「いろんな人がおまえを優秀と言ってくるけのう。元の部署じゃ物足りんやろう」
「そんなことはありません。前の部署で充分です」
「いや、そんな優秀な人間を、楽器売場みたいな小さな部門に置いといては、店にとっても大きな損失になる。そこで、おまえにはもっと大きな部門に行ってもらって、その優秀さを発揮してもらう」
明らかに皮肉だった。

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いろいろ考えたけど、やっぱり口。

そういう折り、以前の常務から電話があった。
会いたいと言うのだ。
その上司とは、親会社の大手スーパーから出向していた人で、その時は親会社に戻って次長職をやっていた。
何の用事だろうと、待ち合わせ場所に行ってみると、そこには上司の他にもう一人、実直そうな顔をした男性がいた。
元常務がその人を紹介した。
「こちらは、うちの会社で人事を担当している者だ」
「はあ…」
「いや、風の噂で、しんたが大変な目に遭っていると聞いてなあ。本当のところはどういう状況なのかを知りたくて、ちょっと呼んだんだ」
「そうですか」
そこまで聞いて、だいたいのことがわかった。

「どうかね。今のまま続けて行けそうかね」
「え、何をですか?」
ぼくはわざととぼけて見せた。
「おまえが今の体制でやって行けるか、と聞いとるんだが」
元常務はぼくから「続けて行けそうにない」とか「辞めたい」という言葉を聞きたかったのだ。
だが、ぼくには意地があったので、そういうことは言わなかった。
のらりくらりとやっているうちに、元常務はしびれを切らして、ついに本音を吐いた。
「実は、うちの家電部門に空きが出来てなあ。本社から『誰か適任はおらんか』と言ってきたんよ。そんな時おまえの話を聞いてな。それで今日人事を連れてきたわけだ。どうかなあ。考えてくれんか」

悪い話ではない。
いや、その会社は大手も大手、その当時飛ぶ鳥を落とす勢いのあった大企業である。
しかし、ぼくはその誘惑には乗らなかった。
第一、今辞めてしまうと負けである。
そこでぼくは、元常務に「もうしばらく今のままで様子を見ていきたいんですが」と言った。
元常務はちょっと考えているようで、人事担当に人に何か耳打ちしていた。
そして、ぼくに「そうか。それなら無理にとは言わんが。でも、もし何かあったら、すぐに連絡してきてくれんか。それなりのポストを用意しておくから」
それだけ言うと、元常務は帰って行った。

時にくじけそうになることもあったぼくにとって、元常務の誘いは素直に嬉しかった。
しかし、ぼくはこの先どんなことになろうとも、その大手スーパーに行くつもりはなかった。
それには理由がある。
その会社に入るということは、当然転勤も覚悟しなければならなかった。
ぼくは学生時代から今に至るまで、生涯北九州在住と決めている人間である。
そのため、もし転勤になったりすると、その会社を辞めてしまうだろう。
そうなると、声をかけてくれた元常務の顔をつぶすことになる。
それだけはしたくなかったのだ。

理由はもう一つある。
それは、人に甘えるのがいやだったことだ。
それまで何のコネもなくやってきた。
もちろん、今の会社だってそうだ。
今の会社も人に頼めば、それなりの役職に就けたかもしれないが、ぼくはそれが嫌だったから、一般募集で、普通に試験を受けて入った。
面接でも、前の役職などは表に出さず、平社員からの道を選んだのだ。

しかし、今になって、あの時元常務の誘いを断ったのは、我ながらいい判断だったと思っている。
なぜかというと、それが正解だったからだ。
今その大手スーパーは、大変なことになっている。

さて、突然「外に行って売ってこい」などと言われても、売れるものではない。
それ以前に行く所がない。
仕方なく、知り合いに片っ端から電話をかけてみた。
「あ、しんたです。お世話になってます。実は…」
ぼくは事情を話し、誰か電化製品を買う人はいないか聞いてみた。
しかし、どの人も、
「うん、事情はわかった。しんたさんにはいつもお世話になっているから、力になってやるよ」
と同情して、協力するとは言ってくれるけれど、最後に必ず、
「だけど今日買う人はおらんかと言われてもねえ…」
という言葉が返ってきた。

ぼくは意地になっていた。
とにかく、店長を見返してやりたかったのだ。
それが初っぱなからこんなことでは、あの店長から嫌みを言われ悔しい思いをするのは目に見えている。
そういうわけで、気がつけば母の知り合いにまで電話をかけていた。
そして何とか、一台目の売り上げを作った。

それは冷蔵庫だった。
母の知り合いに電話をかけた時に、「知り合いで冷蔵庫を買い換えようという人」という情報を得たのだ。
さっそくぼくは電車に乗って、その人の家に向かった。

「あのう、Yさんからこちらに行ってくれと言われて来たんですが」
「ああ、電気屋さん。ちょうどよかった。この冷蔵庫がおかしいんよ。もう寿命なんかねえ」
「どのくらいお使いですか?」
「うーん、もう15年になるかねえ」
「ああ、そうですか。もうメーカーに部品もないでしょうね」
「そうよねえ。じゃあ、買い直すわ」
ぼくは店に電話して、おすすめの一品を聞いた。
そして、その機種をその人に勧めた。
「ああ、それでいいよ。すぐに持ってきて」
そうやって商談はまとまった。

2日目、前日に電話をかけていた人から情報を得て、テレビが決定する。
3日目も同じように売り上げを作った。
そうやって、与えられた予算をクリアしていった。

終業後、ぼくたちは毎日店長に日報を提出しなければならなかった。
ぼくの日報を見て店長は、「フン、なかなか優秀やないか、しんた君。でも、これがいつまで続くかのう」と嫌みを言った。
それを聞いても、ぼくは気にしない振りをしていた。
内心はそうではなかった。
怒りにうちふるえていたのだ。
しかし、それを口にはしなかった。
ここで何か言ってしまうと負けであるからだ。
ぼくは必至に耐えていた。

外販部隊を立ち上げてから3週目に、ぼくは月の予算を達成していた。
初日に電話をかけまくったのが功を奏したのだ。
4日目以降は毎日売れるようなことはなかったが、それでも何日かおきに売り上げが上がった。
その売り上げを見て、店長は苦々しく思っていたようだった。
「あいつ、本当に売ってきよるんか?」と、各売場に聞いて回っていたようなのだ。
確かに店長一派はぼくの敵だったが、それ以上にぼくには味方のほうが多かった。
そういう人が、「しんたはちゃんと外で売ってきています」とフォローしてくれていた。
それを聞くたびに店長は、不愉快な顔になったという。

それからさらに数日後、いよいよその日はやってきた。
会議の場で、店長が新プロジェクトを発表した。
何でも、精鋭を選って、外販部隊を作るというのである。
「今夜、その精鋭たちに内示しますから」
そう言って、会議は終わった。

その夜、ぼくの売場に電話が入った。
店長一派の課長からだった。
「しんたか、ちょっときてくれ」
ぼくは『もしかしたら』と思いながら、事務所に行った。
そこには店長以下のお歴々がいた。

店長はニヤニヤしながら口を開いた。
「しんた君、おめでとう」と言う。
「えっ?」
「朝話したろ。今までの戦績をいろいろ調べたんやけど、いろいろなキャンペーンで、君はいつも優秀な成績を収めとるねえ。それで、君が外販部隊に一番向いているんじゃないかと思ってね」
「異動ですか?」
「そう」
「断れんのですかねえ」
「何で断るんだ。君の力を見込んでのことなのに。今回の人事はあくまでも、適材適所という観点からやったことだから、光栄に思ってくれないと。君に期待がかかってるんだ。頑張って」

内示後、社内ではその内示についての噂が、いろいろと流れた。
どれもいい噂ではない。
「今回の人事は、店長から疎まれた人たちが対象になったようだ」といったものだった。
中には、「やっぱりしんちゃんも入っとったなあ」という声もあった。

内示を受けてから一週間後、全体朝礼で人事の発表があった。
「今回、新規プロジェクトとして、外販部隊を立ち上げることになりました。それに伴って若干名の人事異動を行いました」
と言って、店長はその一人一人の名前を読み上げた。
外販部隊には、ぼくを含めて4人の人間がいた。
なるほど、店長が読み上げた名前を聞くと、「疎まれた」人間ばかりだった。

外販部隊の部屋は店長室の隣に用意された。
全体朝礼後、そこに疎まれた人間は集合した。
部門の朝礼に出席した店長は、「君たちは精鋭だ」を繰り返し言っていた。
そのあと、その部門の統括責任者となった店長の腹心の一人が、外販部隊の概要や方針を説明した。
その中で責任者が口を酸っぱくして言っていたのが、「外販という名の通り、君たちの職場は外です。営業時間中に店の中をウロウロするようなことがないように」ということだった。
つまり、「おまえたちは邪魔だから、店の中に入ってくるな」ということである。
それこそが、今回の人事の本当の趣旨だった。
「それがいやなら辞めろ」というのが店長の腹だったのだろう。

新規プロジェクトとはいえ、店長がゴミと思っている人間の集まる部門だったから、予算などあるわけもなかった。
顧客リストもなければ、外販用のカタログもない。
さらには名刺も用意されてないのである。
しかも、営業の足となる車は、4人に対し2台与えられただけだった。
これで、いったいどこを回れと言うのだろう。

責任者が概要を説明したあとで、店長は「じゃあ、頑張ってきてくれ」と言って、ぼくたちを店外に追い出した。

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