吹く風ねっと

一生は未来の記憶を散りばめた一本の道。人生は未来の記憶をひろいながら歩く旅。

2004年03月

 『傾きかけた日々』

 傷ついた部屋に閉じこもって
 ぼくは何気なくマッチをすった
 前からやっていたような気もするけど
 これが初めてのような気もする

  その日太宰府は雨の中にあった
  ただいつもと違うことは傘が二つ
  小さな梅の木はただ雨の中に
  そうやっていつも春を待つんだろう

 マッチをすっては何気なく消して
 また新しい火を起こしながら
 うつろに風を眺めている
 だけどそれも何気なく忘れて

  騒ぎすぎた日々と別れるように
  今日太宰府は雨の中にあった
  もう今までのようなことはないような気がする
  あるとすれば次には君がいる


ぼくは現在まで、オリジナル曲を200曲ほど作っている。
その中には、いろいろなタイプの歌がある。
恋愛の歌、人生の歌、生活の歌、回顧の歌、お笑いの歌、惰性で作った歌などである。
それぞれのジャンルの中にも、歌詞を重視した歌、曲を重視した歌がある。
今回プレイヤーズ王国で公開した『傾きかけた日々』は、歌詞に「君」だとか「傘が二つ」だとかいう言葉があるため、恋愛の歌と思われるかもしれないが、実は回顧の歌なのである。

その回顧とは、太宰府に行ったことではない。
この歌の中では、太宰府に行ったことは、すでに過去になっている。

その太宰府に行ったのは、高校2年の年の11月だった。
前の月からつきあい始めた彼女との、初デートの場所が太宰府だったのだ。
その日のデートは、完全に白けたものだった。
何となく面白くなさそうな彼女を見て、ぼくも不愉快な気持ちになったものだ。
話も弾まない。
ぼくはいつもの調子で話しているのだが、どうも彼女のノリが悪い。
そばに寄ると迷惑そうな顔をするし、ぼくはだんだんうんざりしてきた。
そのせいで、ぼくは帰りの電車の中でふて寝することになる。
それでも「このまま終わってはいけない」と思い直し、駅に着いて、ぼくは「何か食べて帰ろうか?」と食事に誘った。
が、彼女は「いらない」と言う。
「送っていく」と言ったが、それも「いい」と断る。
もう、勝手にしろ、である。

家に帰ってからも、ぼくは怒りが収まらなかった。
太宰府でのことといい、駅でのことといい、思い出せば出すほど、怒りの度合いは強くなる。
その状態がどのくらい続いただろうか。
だんだん怒ることが馬鹿らしく思えてきた。
つきあうことにも、「もうどうにでもなれ」という気持ちになっていた。
そのうちぼくは、放心状態になっていった。
覚えたばかりのタバコを取り出し、火をつけたまでは覚えている。
その後、いったい何本のマッチを擦ったのだろう。
気がつくとマッチの燃えかすが、灰皿の中に、何本も置かれていた。
ようやく正気に戻ったぼくに、「この先どうなっていくのだろう?」という不安がよぎった。
それは、二人の恋の行方に対することではなく、人生に関わることだった。
「今まで、少し浮かれていたのかもしれん。このままだとだめになっていくような気がする」
そう思うと、将来が怖くなった。
回顧していたのは、この時の、ぼくの心の中である。

さて、二人の仲がどうなったかであるが、こんなつきあいが長続きするはずもなかった。
その後、電話をすることも少なくなり、その月の終わりに、ぼくたちの仲は消滅してしまった。
当然のことながら、未練など何も残らなかった。

ところで、歌詞の最後に出てくる「君」だが、もちろん太宰府の彼女のことではない。
ぼくがオリジナルを作る、そのきっかけを作った女性のことである。
恋愛の歌のほとんどは、その人のことを歌っている。

ラジオでダイエー戦の中継を聴いると、「今日、福岡市に桜の満開宣言が出た」と言っていた。
今日たまたま福岡に行く用があって、昼から出かけたのだが、仰々しく「満開宣言」するほども桜は咲いてなかった。
いったいどこを基準にして、満開などと言っているのだろう。

ぼくは毎年観梅に行くほど、梅の花には興味を持っているのだが、桜の花には、まったくと言っていいほど興味を持っていない。
だから、花見なる行事には、あまり参加したことがない。
「出たがり」だった小学生の時ですら、花見には一度しか参加したことがない。
それは小学3年生の時に、親族一同で行った花見で、強制的に連れて行かれたのだ。
「行かんのなら、一人で留守番しときなさい」と言われ、渋々ついて行った。
それ以外にも、何度か花見に誘われことがあるのだが、友だちに誘われても、子供会の行事であっても、参加はしなかった。
中学や高校の時も、花見だけはしなかった。
というわけで、社会に出るまで、花見をしたのは、小学3年生の時の一回きりだった。

社会に出てからは、二度花見に参加している。
一度目は社会に出た翌年だった。
会社行事で参加したのだ。
もう一度は3年前、仲間内での花見だった。
さすがに3年前のことは覚えているが、20代の時のことはすっかり忘れてしまっている。
興味がないから、花見の印象が残らないのだ。
したがって、花見ネタは、ぼくには書けない、ということになる。

とはいえ、ぼくは別に花を見ることが嫌いなわけではない。
ただ、あの「花見」と銘打った宴会が嫌なだけなのだ。
元々野外で酒を飲むのは趣味ではないし、ゴザ敷いて弁当広げるのも好きではない。
しかも、桜咲く春より、梅ほころぶ春を喜ぶ人間であるため、桜の花を見ても浮かれた気分になれないときている。
桜を見ても何も感じないぼくには、車の中から愛でるくらいがちょうどいいのかもしれない。

前の会社にいる頃は、しょっちゅう上司が入れ替わっていた。
最初は、ぼくが異動になったために、必然的に主任が替わった。
次はその売場の主任が転勤になった。
それから1年して、後釜の主任が会社を辞めた。
その後は、ぼくがその売場の責任者となったため、直属の上司というのは店長になった。

その店長というのが、しょっちゅう入れ替わる。
短くて1年、長くても2年で転勤になるのだ。
昔から要領が悪く、上司なる人との付き合いをうまくできないぼくにとって、これは苦痛だった。
ようやくその人に慣れ、何とか折り合いがよくなった頃に他の人と入れ替わるのだから。
そこからまた、新しい人と人間関係を作らなくてはならない。

そんな店長の中には、ついに折り合いが悪いままに終わった人もいる。
ぼくに言わせてもらえば、彼らはろくな人間ではなかった。
いい加減な仕事しかせず、何か起これば、すぐに部下のせいにして逃げる。
しかも、そういう人が店長をやっている時に限って、大問題が起こっているのだ。
大問題が起こり、早々に彼らが退陣されられたからこそ、彼らとはいい人間関係を築くことができなかったとも言える。

さて、いろいろな上司の下で働く時、ぼくは一つのことを心がけていることがある。
それは、口先では「店長」と呼ぶものの、心の中では「店長」と呼ばないということである。
例えば、店長の名前が「正男」だったとする。
何か用がある時、口先では「店長」と呼びながらも、心の中では「こら、正男!」と呼ぶのだ。
また、小言を言われるたびに、「また正男が、馬鹿なことを言って」と思う。
そう思うことによって、店長という存在感が消え、心理的に楽になれるのだ。

なぜぼくが、そんなことをやっていたかというと、ある心理学の本に、「人を肩書きで認知すると、心理的な距離が出来る」と書いてあったからだ。
つまり、その人と距離を置きたくないなら、肩書きで認知するな、ということである。
考えてみれば、店長という肩書きはあるものの、それがなければ彼は「正男」にすぎないのである。
ぼくはすぐさま、「店長」の肩書きを「正男」と認知することにした。
そのおかげで、肩書きから受ける重圧から解放されたのだ。

もし、上司との折り合いが悪くて悩んでいる人がいたら、一度試してみるといいだろう。
名前を思うのも嫌だったら、ニックネームで認知するのもいい。
きっと重圧を感じなくなるはずだ。

とはいえ、それで人間関係がうまくいくはずはない。
あくまでもこの方法は、心理的な重圧を克服するためだけのものだからである。
その証拠に、この方法を実行しだしてから、ぼくは「生意気だ」というレッテルを貼られ、人間関係は最悪なものになってしまった。

先にも書いたが、ぼくは東京にいた頃、毎月1回以上は浅草に行っていた。
あれは、夏の帰省前のことだった。

いつものように浅草に行き、お参りをすませた後で、境内をブラブラしていた。
前の日に、ぼくは帰る仕度をするために徹夜をした。
その疲れが、境内をぶらついている時にどっと出たのだ。
どこか喫茶店にでも入ろうかと思ったが、手持ちは帰りの電車代くらいしかない。
しかたなく、浅草寺本堂裏のベンチに腰掛けた。
そこでボーッとしていた時だった。
前の方から初老のおじさんが、笑いながらぼくに近づいてきた。
えらく人なつっこく笑うので、一瞬「知り合いかな」と思ったほどだった。
が、浅草に知り合いはいない。

おじさんはぼくの前に立つと、「こんにちは」と言った。
そこでぼくも「こんにちは」と言った。
「いい天気ですねえ」
「はあ、いい天気ですね」
「ちょっと横に腰掛けてもいいですか?」
「どうぞ」と、一人でベンチの真ん中に座っていたぼくは、場所を空けた。

「どちらから、来られましたか?」
「八幡からです」
「ああ、八幡ですか。製鉄の」
「はい」
「観光か何かで?」
「いえ、今はこちらに住んでいるんです。今度帰省するんで、観音さんに参っておこうと思って」
「ほう、それはいい心がけですねえ」
「はは…」

しばらく語っていたのだが、話は長くは続くことなく、そのまま途切れてしまった。
時計を見ると、もう夕方の4時を過ぎている。
そこで、『さて、そろそろ帰ろうかな』と思い、立ち上がろうとした。

その時だった。
おじさんが、急に手を伸ばしてきて、ぼくの股間をつかんだのだ。
あまりに突然のことだったので、何がなんだかわからなかった。
が、ようやく事態を理解したぼくは、おじさんをキッと睨み付けた。
するとおじさんは、平然とした顔で「なかなか大きいですな」と言う。
実は、おじさんがつかんだのは、ぼくの一物ではなく、座った時に出来るジーンズの膨らみ部分だった。
局部には触られてはいないものの、この画は様にならない。

「やめて下さい!」
ぼくがそう言うと、おじさんはニヤニヤしながら「まあまあ」と言い、鼻息を強めた。
『これはまずい』と本能的に思ったぼくは、おじさんの腕を逆手に取り、股間から外した。
ぼくの力が強かったためだろうか、おじさんは腕を押さえていた。
もちろん、二度目のチャレンジはしてこなかった。

「ふざけるなっ!」と言い捨てて、ぼくはその場を立ち去った。
その際に、おじさんは小声で、「気をつけて帰りなさいよ」と言った。
その言葉にカチンと来た。
が、ぼくは振り返らずに歩いた。
少し離れたところまで行き、おじさんのほうを見てみると、すでにおじさんはいなかった。
「懲りて帰ったか」と思っていると、何と横のベンチに座っているではないか。
おじさんの横には、男の人がいた。
いかにもひ弱そうに見える、小柄な男だった。

神保町はともかく、ぼくが浅草に行くのにはわけがある。
26年前、東京に出る時に、居合道場の先生から、「東京に行ったら、まず浅草の観音さんにお参りしなさい」と言われた。
その道場には観音像が祭ってあった。
ぼくは中学の頃に、その道場に入門したのだが、入門した頃からずっと観音像の由来を先生に聞かされていた。
先生は支那事変の時に徴兵された際、浅草の観音様にお参りに行ったそうだ。
それが功を奏してかどうかはわからないが、大陸で敵弾にあたり負傷した際、夢枕に観音様が立ち、処方箋を与えてくれたという。
それ以来先生は、観音様へのお参りを欠かしたことがないということだった。

いわゆる観音霊験記である。
しかし、ぼくはその話を聞いて、素直に信じてしまった。
だから、東京に出たその日に、浅草寺に行っている。
浅草寺との縁は、その時から始まったわけだ。
その後、北九州に引き上げるまで、毎月一回以上は浅草寺参りをやっていた。

で、何かいいことがあったのかというと、そうではない。
ぼくは、別にそういうことを期待して、お参りしていたわけではない。
ぼくが浅草寺参りをした理由は、他にある。
確かに、霊験なるものを体験したいという気持ちを持っていた。
しかし、それは最初の頃だけのことだった。
浅草に通っているうちに、だんだんそういう気持ちは薄らいでいった。
そういう不思議体験よりも、もっといい体験ができたからだ。
それは、そこに行くことで嫌なことが忘れられる、ということだった。
浅草寺で観音様を拝んでいるうちに、人間関係や貧乏生活などでくさくさした気持ちが、いっぺんで吹き飛んだのだった。
これこそ、本当の意味の霊験ではないだろうか。
言い換えれば、ぼくにとっての浅草寺は、ちょっといい気持ちになれる場所、ということになる。

ところで、ぼくは浅草に行っても、浅草寺以外に行くところはなかった。
地下鉄を降りたら、すぐさま雷門にむかい、仲見世を通って、浅草寺の境内に入った。
観音様を拝み、境内を少しブラブラし、来た道を戻った。
浅草の滞在時間は、平均すると30分くらいだった。
そんなわけだから、もし人から「浅草に何か想い出があるのか?」と尋ねられても、「浅草寺に行って、拝んで、すぐに帰りました」としか答えられないだろう。

ん?
何か忘れているような気がする。
・・・・・
ああ、思い出した。
そういえば、一つだけ強烈な想い出を持っていた。

「今年こそは」、と思っていることが、ひとつある。
それは旅行である。
前々から行きたいと思っていたのだが、暇と金がないためいつも諦めていた。
しかし、今年は何とか金の工面が付きそうなので、ぜひ連休を取って行きたいのだ。
で、どこに行きたいのかというと、それは東京である。

当初は沖縄もその候補に入っていたのだが、時期的なものもあるし、たった一泊では、沖縄を満喫することが出来ない。
ということで、行き先は東京ということになった。

まあ、東京に行くとは言っても、ディズニーランドやお台場といった、メジャーなところに行くわけではない。
それではどこに行きたいのかと言えば、それは浅草と神田神保町である。

十数年前、横須賀の叔父が亡くなった。
たまたまその日ぼくは休みだったので、すぐさま飛行機に乗り、横須賀に向かった。
横須賀に着いてから、しばらく通夜の準備をしていたのだが、それが終わると、通夜まで時間が余ってしまった。
そこでぼくは、「ちょっと、出かけてくる」と言って、京浜急行に乗り、そのまま浅草まで行った。
その後、神保町に行って、本を買い漁った。
横須賀に戻った時には、すでに通夜は終わっており、親戚一同からさんざん文句を言われた。

その少し後のこと。
KORG(楽器メーカー)の新製品発表会が東京であった。
出張扱いにすると、日帰りしなければならないので、ぼくは公休を利用し、東京で一泊することにした。
発表会は初日だけだった。
翌日はもちろん自由だった。
ということは、当然例の場所に行くことになる。
朝10時にホテルを出て、すぐさま浅草へと向かった。
観音さんにお参りした後、神保町の古書街に行き、そこで本を数冊買った。
その後、食事もせずに羽田に向い、帰りの飛行機に乗った。
午後1時の飛行機で、その30分前に搭乗手続きをしたから、ホテルを出てから2時間半後には羽田に着いていたことになる。
「もっとゆっくりしてくればいいのに」と、帰ってから母に言われたが、ぼくはそれで充分だった。
東京と言ったって、ぼくの興味がそこにしかないのだから、しかたがない。

おそらく、今回も同じところを回ることになるだろう。
とはいえ、今回は一人旅ではない。
当然嫁さん同伴になるだろうから、もしかしたら鎌倉まで足を伸ばすかもしれない。
しかし、ディズニーランドやお台場には行かん。

先日、ある人から「久しぶりに詩を書いてみたら?」と言われた。
「詩を?」
「うん。最近書いてないでしょ?」
「ああ」
そういえば、最近、ちゃんとした詩を書いてない。
しかし、詩はそうそう簡単に書けるものではない。
第一、頭の中が、長い日記生活のために、すでに散文化してしまっている。
こうなると、韻文化することはかなり難しくなってくる。

よく「しんたさんはマルチな方ですね」と言われる。
ぼくは決してマルチな人間ではない。
確かにこのサイトでは、エッセイ、詩、果ては自作曲までも紹介している。
だから、マルチな人間だと思うのかもしれない。
しかし、これらは同時進行でやっていたわけではないのだ。

10代後半から20代前半にかけては主に歌、30代は主に詩、40代はエッセイだけというふうに、やっていた時代が違うのだ。
10代から30代にかけて、エッセイなんてまったく書けなかった。
その元になる日記すら、満足に付けたことがなかった。
30代、詩に情熱を燃やしていた頃は、歌は歌っていたものの、すでに作詞や作曲はやらなくなっていた。
また、40代になってからというもの、詩も作らなくなり、さらにホームページを始めてエッセイに没頭しだしてからは、歌も歌わなくなった。
頭の中の構造が、エッセイになってしまったために、他のことが出来ないのだ。
ギターを再開したのは、ついこの間のことだが、これもエッセイのを書くためのネタ欲しさから始めたのである。

以上見てきたとおりで、基本的にぼくはマルチな人間ではないのだ。
どちらかというと、一つのことに没頭するタイプの人間ということになる。
その時代時代で、没頭する興味が変わっていっただけの話である。

今、ぼくは観察に必死なのだ。
そう、日記ネタを探すためにである。
そういう現実を重視している人間に、深い感性を必要とする詩など書けるはずがない。
昔は比較的楽にやっていた作詞でさえ、満足に出来ないのだ。
もし、ぼくが詩を書くとしたら、次の時代に、ということになる。
ということは、50代か。
50代になれば、この「頑張る40代!」も終わっているから、日記に目の色を変えることもなくなっているだろう。
冒頭の方には、それまで待ってもらうことにしよう。
まあ、その時に、詩に興味を持っていればの話だが。

 『夜汽車』

 風よ、ぼくはもうすぐ行くよ
 君のもとへ走る夜汽車に乗って
 はやる気持ちを抑えながら
 目を閉じて朝を待つよ

 まどろむ星は夜を映す
 遠くに浮かぶ街の灯り
 ふと君の影を窓に見つけ
 ぼくは慌てて目を閉じる

  暑い、暑い夜汽車よ
  ぼくを、ぼくを乗せて
  西へ、西へ向かう
  君の、君の元へ

 風よ、ぼくはもうすぐ行くよ
 眠れぬ夜を窓にもたれて
 君のもとへ走る夜汽車よ
 夜が明ければ君のもとへ


今日、プレイヤーズ王国に、『夜汽車』という歌を登録した。
歌詞は、上のとおりである。
これを作ったのは21歳の時だったから、もう25年が経つ。
と、プレイヤーズ王国で書いた『ショートホープ・ブルース』のコメントと同じことを書いたが、実際には『ショートホープ・ブルース』とは10ヶ月くらいの開きがある。
『ショートホープ・ブルース』を作ったのは1978年の晩秋で、この『夜汽車』を作ったのは1979年の初秋だった。
その頃、ぼくは東京にいたのだが、嫌なことばかりが起きていた。
下宿にダニが大発生し背中中を噛まれた事件があり、それから時を置かずして胃けいれんに襲われた。
胃けいれんは1週間続いた。
そのために、アルバイトを休まなければならなくなり、挙げ句の果てにクビになってしまった。
歌舞伎町のパチンコ屋で、置き引きにあったのもこの頃である。
また、後に『西から風が吹いてきたら』のネタ源である一連のN美騒動は、この頃から始まっている。
とにかく嫌なことばかりが続いていた。

そのせいで、望郷の念が強まっていった。
しかしその念は、「東京が嫌いだ」とか「福岡が好きだ」とかで強まっていったわけではなかった。
『西から風が吹いてきたら』の中で、「東京が嫌いだ」というようなことを書いているが、実はそうではなかった。
偶然そういう事件が重なったために居づらくなっただけで、基本的にぼくは東京の水が合っていた。
東京は、実に路地が多いところである。
ぼくの下宿も、路地に面したところにあった。
ぼくは、なぜかそういうところが落ち着くのだ。
言い換えれば、一歩奥に入ればどこも下町という、東京の街の雰囲気が好きだったということになるだろう。

では、なぜ望郷の念が強くなったのかと言えば、今思えば、当時好きだった子への未練からだった。
他に考えられないのだ。
いったんは諦めたつもりだったが、やはり諦めきれない。
故郷を遠く離れたことが、さらにその人の想いを強くしていった。
そして、数々の歌や詩になった。
『夜汽車』も、そういう歌の一つである。

そういえば、この間のことだった。
先生の頬がなぜかげっそりと痩けていた。
そこでぼくが「先生どうしたんですか。具合でも悪いんですか?」と聞くと、先生は「休みなしで3日働いてるんですよ。きつくって」と言う。
ぼくとパートさんは呆れて、顔を見合わせた。
「そうだったんですか。そうですねえ、3日も続けて働くと、疲れますもんねえ」とぼくが言うと、「そうですよ。仕事は2日行って1日休みじゃないと」と先生は答えた。
翌日、薬局に行くと、先生はいなかった。
パートさんに「今日、ポマード(先生のこと)は休み?」と聞くと、パートさんは「ええ、ポマードはお休みでーす」と言った。
ぼくが「ああ、そうやろね、3日働いたけ、きっと熱がでたんやろうね」言うと、そのパートさんは「そうそう、先生は坊ちゃんですからね」と言って笑っていた。

ところで、そのH先生だが、実はぼくの高校の先輩なのだ。
ぼくは、ふとしたことでそのことを知って、内心「あっちゃー」と思ったものだった。
しかし、どんな人であれ先輩なのだから、無下には出来ない。
先生のほうも、ぼくのことを後輩だと思ってのことだろうが、ぼくを見かけると必ず声をかけてくる。
「で、どんな具合ですか?」
いつも「で、」で始まるこのセリフだ。
そう言われると、実に返すのが難しい。
最初の頃こそ、具体的に「今日は、けっこう忙しいです」とか「暇です」とか答えていた。
しかし、それが毎度のことなので、答えるのが面倒になって、ある時、「はい、こんな具合です」と答えた。
普通の人なら、こう返されると、あまり歓迎されないセリフだと思って、次からは他のことを言うだろう。
だが、先生の場合は違った。
それでも「で、どんな具合ですか」と聞いてくるのだ。

先日、ぼくの友人のオナカ君が訪ねてきた。
オナカ君は、ぼくの高校時代の同級生だから、もちろん先生の後輩である。
そこで、ぼくはオナカ君に「ちょっと会わせたい人がおる」と言って、オナカ君をH先生のところに連れて行った。
そしてぼくは「先生、同級生です」と言って、オナカ君を先生に紹介した。
すると先生は、急に例のぎこちない動きで、腕を振り出した。
何をやっているのかと見ていると、なんと小声で高校の校歌を歌っているではないか。
「先生、どうしたんですか?」
「いや、同級生やろ。だから校歌ですよ」
「‥‥‥」
これには、さすがのオナカ君も呆れていたようだった。

先日、ぼくが社員用トイレの個室で用を足していると、誰かがノックしてトイレに入ってきた。
「取引先の人かな?」と思った。
社員用トイレは、四畳半ほどの広さで、小用が2器、大用が1器設置してある。
家にあるような、大小兼用の便器が一つだけしかないトイレではないので、従業員ならトイレに入る時、わざわざノックなどしない。
ぼくが、「取引先の人かな?」と思った根拠も、そこにある。

さて、その人は、用を足し手を洗った後にそそくさと出て行ったのだが、トイレの扉が扇ぐ風で、それが誰だかわかってしまった。
その風に乗って、あるにおいがしたからである。
そのにおいとは、ポマードである。
社員トイレは、けっこう多くの人が利用しているのだが、そういう人の中でも、ポマードを付けているのはたった一人しかいない。
薬剤師のH先生である。

「ああ、H先生やったんか。それにしても、何でノックなんかして入ってくるんかのう」とぼくは思ったが、すぐに「ああ、あの先生なら、そういうこともあり得る」と思い直した。
なぜなら、その先生、ちょっと変わっているからだ。

どこがどう変わっているのかということを、ここで説明するのは難しいのだが、強いて説明するとすれば、まずその動きだ。
H先生の動きは、何か堅くぎこちない。
ちょうどあの高見盛を見ているようである。
指先はいつも力が入っているのか、小刻みに震えている。
そのため、いつも先生には緊張感が漂っているように見える。
先生は、人と話す時、必ず大げさに手を動かすのだが、その際、緊張感漂う指はぎこちなく動いている。
例えば、「大丈夫です」という時、先生は指でOKサインを出す癖があるのだが、その時も指先は震え、うまく噛み合ってない。

笑う時は、必ず口元を手で覆い、「ヒッヒッヒ」と笑う。
従業員とすれ違う時などは、いつも額の汗をぬぐうようなパフォーマンスをしている。
「忙しいですか?」と尋ねると、甲高い声で「汗びっしょり!タオル3枚かえましたよ」と、いつも決まったセリフを言う。
それを言った後、決まって口元を手で覆い、「ヒッヒッヒッ」と笑っている。

さて、H先生は、かなり自己中心的な性格の人らしく、いつもそこのパートさんから不平不満を聴かされている。
あるパートさんが入ったばかりの頃、一人のパートさんが辞めた。
その時、H先生は「非常事態になりました。当分非常体制で臨みみましょう」とパートさんたちに言った。
ところが、その翌日、そこの長であるH先生は、当初のロ-テーションどおり休んだという。
「ふつう非常態勢なら、そこの長が率先して休みを返上するよねえ。でも、先生は違うんよ。私たちに休むなと言っておいて、しっかり自分だけ休むんやけ」と、そのパートさんは今でもこぼしている。

またしてもプレイヤーズ王国のことを書く。
ぼくがプレイヤーズ王国に、歌を登録してから、何人かの方々が掲示板に感想を書き込んでくれた。
その中の3人の方は、ぼくと同じくプレイヤーズ王国で歌を登録している人たち、つまり同志である。
どの人も、現役でライブをやっている人たちばかりで、声の通りといい、説得力のある歌いっぷりといい、かなりぼくの上をいっている。
すでに現役を諦めているぼくは、そういう方々の歌を、感動と羨望と嫉妬の耳で聴いている。
おそらく、その人たちは地元ではかなり名が売れているのだろう。

さて、身近に、ぼくの歌を気に入ってくれている人が何人かいるのだが、そういう人たちから、よく「ライブやれよ」と言われている。
その都度ぼくは、「いつか暇になったらやるよ」と答えている。
しかし、これは逃げ口上である。
実際、ぼくは、ライブをやるような気概を持ち合わせてはいないのだ。
確かに、過去何度かライブハウスに立ったこともあるし、スナックで歌っていたこともある。
結婚式では弾き語りをせがまれ、数百人の前で歌ったこともある。
しかし、その時ライブをやっていたわけではない。
観客を盛り上げたり、惹きつけたりするようなるようなパフォーマンスをやることもなく、ただ淡々と歌をうたっていただけにすぎない。
主催者側からすれば、「これじゃ、金取れんな」という存在であったわけだ。

なぜ、ライブが出来ないのかと言えば、ぼくが極度の『あがり症』であるからだ。
初めて人前で歌った時など、歌っている途中に腹が痛くなって、ステージの上で座り込んでしまったほどだ。
歌うだけで精一杯なのに、パフォーマンスなんてとても出来るものではない。
普段は「口から先に生まれてきたんじゃないか」と言われるほどおしゃべりなのだが、大勢の人の前だと、急に黙り込んでしまう。
だから、昔ミュージシャンを目指していた頃でも、コンサート中心のミュージシャンではなく、ビートルズの後半のような、スタジオで曲作りに励むようなミュージシャンを目指したのだ。

ところが、ここ最近、同志たちの影響からか、ライブをやりたくなっている。
「別にパフォーマンスなんかやらなくても、歌だけで充分だ。わかる人はわかってくれる」とか、「そうか、これだけ日記を書いてきたんだから、別に歌にこだわらなくてもいいんだ。ネタに困らないから、歌だけじゃなく、エッセイを語ってもいいわけだ」というふうに、気持ちが変化してきたのだ。
しかし、気持ちはそちらに傾いたものの、具体的にどうやったらライブが出来るのかわからない。
とりあえず、以前歌っていたスナックにでも行って、もう一度歌ってみるか。
いや、夜の街に繰り出して、酔っぱらい相手に『酒と泪と男と女』でも歌ってみることにするか。
これだと、うまくいけば日銭も稼げるし。
ということで、まず、例の『あがり症』を何とかすることにしよう。

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