吹く風ねっと

一生は未来の記憶を散りばめた一本の道。人生は未来の記憶をひろいながら歩く旅。

2003年03月

  春のある日

 何となく生まれた日々と
 何となく育った街が
 夢の中ひとりっきり
 追っかける風と共に

 忘れかけた手作りの歌
 声をあげ風が歌う
 みんなみんな寂しいんだよ
 あんただけじゃないんだよ

  誰かが呼ぶ春の声
  人でなしのか細い声

 春を呼ぶ数々の日々
 春を待つ寄せ合いの街
 雇われた幸せ売りが
 色褪せた口笛を吹く


1977年3月31日、ぼくは博多の街をうろついていた。
職を求めてである。
大学進学を特に希望していたわけではないが、それでもいちおう大学を目指して1年間やってきたので、その失敗はぼくに重くのしかかった。
生まれて初めて味わった挫折と言ってもいい。
その当時、この挫折に耐えきるほどの精神力を、ぼくはまだ持っていなかった。
そのせいで、ぼくはそれから起こる出来事を、すべて挫折感というフィルターを通して受け止めるようになる。

さて、26年前の今日。
職を求めて、とは言いながらも、実は放心状態だった。
博多駅を降りたぼくは、筑紫口側に出た。
そこからずっと歩いて工場街に出た。
空は曇り、吹く風は冷たかった。
そこにある春は、空に鳴くヒバリの声だけだった。


  春のようなしぐさ

 春に舞う鳥になれたら
 いつもぼくは君のそばにいて
 二人で空を翔んでは
 ありったけの愛を歌う

 こんなひとときにも君は
 苦労性に体を動かす
 「それでもいいよ」という君を見てると
 ぼくはとてもやりきれなくて

  笑いながら日々を過ごせたら
  こんなにいいことはないのにね
  それはこの上もない
  幸せだけど

 春のようなしぐさで
 日々を過ごしたいもんだね
 それは届かない夢だろうけど
 こんな小さなひとときだけでも

1982年3月31日、ぼくは小倉の街をうろついていた。
あれから5年経った。
東京ではしゃいでいる間に、挫折感というフィルターはどこかに飛んでいってしまった。
かといって、フィルターを忘れたわけではない。
「77年の自分には戻りたくない」という意識だけは、今も心のどこかにある。

さて、21年前の今日。
その夜、ぼくは小倉の、ある公園で花見をしていた。
就職して2年がたった。
創業以来の仲間と飲む酒は、格別なものだった。
吹く風は暖かく、これからの人生がバラ色に飾られているような気がしていた。


  春の夜に

 午後から降り始めた雨は、
 今日の仕事を終えた。
 雨を運んだ風は、
 次の場所に移った。
 弥生最後の夜
 誰もいない窓に向かって
 ぼく一人だけが焦っている。

2003年3月31日、ぼくは自宅で頭を抱えている。
くそー、まだ出来んわい!
もう3時やん。
参りました。

「ケッ、オラウータンやないか」
実は、この三連休の間、一度もひげを剃ってないのだ。
初日は気になっていたのだが、2日目はそれほど気にならなくなり、3日目の今日はどうでもよくなっていた。
夕方、歯を磨いた。
冒頭のセリフは、その時鏡を見て発したものである。

昨日の日記で、まともな三連休をとったことがないと書いた。
そのため、ひげをここまで伸ばしたこともない。
学生時代は、それほどひげが多くなかったから、2,3日剃らなくても大して目立たなかった。
ところが、歳とともにひげが増えていった。
鼻の下やあごだけに目立っていたひげは、徐々に頬を侵していった。
気がつけばオラウータンである。

東京にいた頃の話だが、ぼくの仲間にHという平尾昌晃似の男がいた。
彼は非常に存在感のある男だった。
目が大きい、まつげが長い、鼻の下が少し長いなど、彼には数々の特徴があった。
それだけでも世間に対して、ある程度の存在感を示すことが出来る。
しかし、それだけでは「非常に」という形容動詞は使えない。

もう一つ彼には特徴があった。
それはひげである。
彼はひげが異常に濃かった。
彼はよく、「すぐにひげが伸びるので、半日に一度剃らないとならないんだよ」と嘆いていた。
しかもひげが堅いために電気カミソリでは役不足で、いつも手剃りのカミソリを使っていた。
そのせいか、青々とした剃り跡には所々で血がにじんでいた。
しかし、ひげが異常に濃いだけなら、探せばそういう人はいくらでもいるものである。

では、何が彼を非常に存在感のある男に仕立てたのか。
それは、その所々に血痕のある青々とした剃り跡と、数々の特徴ある顔とのバランスが、微妙にズレていたということだった。
その微妙なバランスのズレこそが、彼を彼たらしめ、世間に対して非常に存在感のある男に仕立てたのだ。
もし彼を知らない人が彼を見たら、体中が痒くなるか、もしくは笑うかのどちらかだろう。
もし、その顔で流し目でもされたら…。
ああ、思い出しただけでも気味が悪い。

さて、ぼくの三連休も今日で終わりである。
朝になれば、嫌でもひげを剃らなくてはならない。
今、顔全体に7,8ミリのひげが広がっている。
おそらく朝になれば、このひげは1センチに伸びているだろう。
それだけのひげを剃るのだから、けっこう時間がかかることが予想される。
電気カミソリというのは、ひげが起きた状態だと剃りやすいのだが、寝た状態だと非常に剃りにくいものである。
最初は軽く肌に当て、徐々にひげを短くしていく。
ある程度短くなったところで、一気に剃り上げる。
ぼくは手先が器用な方ではないので、この作業に手間取ってしまう。
だいたい、ひげを剃ること自体が面倒くさい。
だから、ぼくは、休みの日にはあまりひげを剃らないのだ。
もしぼくが客商売をやってなかったら、それこそオラウータンの称号をいただくことになるだろう。

実は今、三連休の真っ最中である。
ぼくの店は、二連休だと比較的簡単にとれるのだが、三連休ということになると人員ローテーションの関係から、なかなか難しいものがある。
いや、ぼくの店に限ったことではない。
販売業全体にそうではないのだろうか。

長崎屋にいた頃、福島の友人から「結婚式に出席してくれ」という案内状をもらったことがある。
12月のことだった。
師走の忙しい時期なので上司に相談したのだが、上司は一言「福島なら出席せんでも失礼にならんよ」と言った。
福島に行くためには、最低でも三連休が必要になる。
上司は、暗に「行くな」と言ったのである。

また前の会社にいた時には、三連休をとるために店長の決裁を仰いだものだった。
「三連休!? 結婚でもするんか?」
「そんなんじゃないですけど…」
「とってもいいよ。で、今お前の部門は予算行っとったんかのう?」
「いや…」
「じゃあ、三連休は予算行ってからのことやのう」
「・・・」
という具合に、ことごとく却下された。

しかし、三連休がとれなかったわけではない。
前の会社で、ぼくは一度だけ三連休をとっている。
その会社を辞めた年の、社員旅行の時である。
その年は二泊三日でサイパンに行くのだった。
社員旅行といっても、その間店を休むわけではない。
1便、2便と分けて行くのだ。
当初ぼくは2便で社員旅行に参加するつもりだった。
そのためにパスポートも準備していたのだが、会社を辞めることになったので、ぼくは旅行を辞退し、その代わりに三連休をもらった。
2便が発った次の日からの三連休になった。
初日は一日寝ていた。
二日目、街に出て本屋などをうろうろしていた。
その日の夜のことだった。
突然会社から電話がかかった。
「悪いけど、明日仕事に出てくれんか?」
「え?」
「実は、台風の影響で、サイパンから飛行機が飛ばんらしくて、2便が帰ってくるのは明日の夜になるらしい」
しかたなくぼくは引き受けた。
結局、三連休は、ただの連休になってしまった。

10年ほど前のこと。
今の会社に入って、初めての三連休をとった。
ところが、この三連休も台無しになった。
かねてから病院に入院していた伯父の容態が悪くなり、三連休の前の日に亡くなってしまった。
ということで、三連休は通夜、葬儀、初七日(三日目に行った)と埋まってしまい、自分の時間を持つことが出来なかった。
よほどぼくは三連休と縁がないのだろう。

さて今回、三連休がとれると知った時、せっかく時間がとれるのだから、どこか遠くにでも行こうかと考えてもみた。
しかし、遠出する資金がない。
じゃあ、せっかく時間がとれるのだから、寝ていようということになり、こうやってダラダラと時間を費やしている。

今日、岡垣町にある『峠ラーメン亭』のチャンポンを食べに行った。
最後に食べたのが、昨年の春だったから、1年ぶりである。
久しぶりに食べた、峠のチャンポンは前にも増しておいしくなっていた。
こういうことも珍しい。

十数年前だったが、夜中に博多まで長浜ラーメンを食べに行っていたことがある。
当時えらくおいしい店があり、腹が減ると無性にそこのラーメンが食べたくなったのだ。
しかし、夜中で道はすいているとはいえ、片道1時間近くかかってしまう。
だんだん疲れてしまい、そのうち行かなくなった。
数年後、福岡ドームに行った時その店に寄ったことがある。
あのおいしい長浜ラーメンの記憶がよみがえる。
ところが、口にしてみると、あの頃と味が違う。
スープに微妙なコクがなく、ただの薄味の豚骨ラーメンになっていた。
この店はぼくが足繁く通っていた後に、テレビなどで取り上げられだした。
おそらくその影響で客足が増えたのだろう。
その結果、数をさばくことに神経を使うようになり、味作りに気が回らなくなったのだと思う。
こういうことはよくあることだ。

ところが、冒頭の『峠ラーメン亭』のチャンポンは違う。
1年前に食べた時以上に味がよくなっているのだ。
ここは先の長浜ラーメンのようにテレビで紹介されたことはない。
その上、店の名前にラーメンと付いているので、どうしてもチャンポンのほうに関心は行かないだろう。
しかし、一度このチャンポンを食べた人なら、そのおいしさを知っている。
おいしい店を知っているとなれば、誰かに教えたくなるのが人情。
ぼくもけっこう多くの人に、ここのチャンポンのことを触れ回った。
食べに行った人からは必ずと言っていいほど、「おいしかった」との答えが返ってくる。
そういった口コミで着々と客足は増えていっているのだ。
それなのに「客足が増える、すなわち味が落ちる」という公式がこの店には当てはまらない。
こういう店も珍しい。

何年か前に、ここのチャンポンを食べた翌日、長崎の平戸までドライブしたことがある。
その平戸で昼食をとろうと、一軒の食堂に入った。
メニューを見ながら何を食べようかと迷っていると、そこの店員が「長崎に来られたんですから、もちろんチャンポンでしょ?」と言った。
「え?」
「旅行で来られた方は、ここで必ずチャンポンを食べて行かれますから」
「そうですか」
それほど言うのなら、よほど味に自信があるのだろう。
「じゃあ、チャンポンにして下さい」

しばらくして、チャンポンが運ばれてきた。
スープはかなりドス黒い。
レンゲにスープを入れ口に運んだ。
「・・・」
チャンポンのチェーン店の味のほうがずっとおいしい。
まあ、チャンポン食べたことのない人なら「チャンポンとは、こんな味なのか」ですませられるかもしれないが、チャンポン歴40年、しかも前日特Aのチャンポンを食べたぼくにはとても食べられたものではなかった。
当然残すことになり、空腹をパンで満たすことにした。

よく旅行などに行くと、「本場」だの「元祖」だのいう看板がやたら目に付く。
しかし、そういうところに限って、あまりおいしいものを食べさせてもらえないものである。
福島の喜多方にラーメンを食べに行った時も、ぼくは地元の人に「どこが一番おいしいか」と聞いて店を選んだものだった。
その時、地元の人が教えてくれたのは、『喜多方ラーメン』の看板を上げている店ではなく、そのへんによくある赤いのれんの中華料理店だった。
もちろん、味は絶品だった。

さて、今日の日記も日をまたいでしまった。
すでに、正午を過ぎている。
そろそろ腹が減ってきた。
今日も峠ラーメンに行くことにしようかなあ。

しかし、1日に2編も書くとなるとよほどのことがない限り、違った内容の日記は書けない。
で、今回も浮浪者ネタを書きますわい。

長崎屋に入ったばかりの頃のこと、えらく汚いスーツを着込んだ御仁が店にやって来た。
ぼくがそのスーツ氏を見ていると、上司のHさんが笑いながら「あの人ねえ、この時期になったら来るんよね」と教えてくれた。
さらにHさんは「よく見てん。何か書いた紙を持っとるやろ」と言った。
スーツ氏の手元に目をやると、少し大きめのわら半紙を持っていた。
なるほど、そこに何かメッセージを書いている。
近寄って読んでみると、汚い字で『けっこん 人生』と書いてあった。
Hさんのいるところに戻り、「『けっこん 人生』と書いてました。何ですか、あれ?」と聞くと、Hさんは「よくわからんけど、毎回書いとることが違うんよねえ」と言った。
Hさんの話では、そのスーツ氏は東大を卒業しているという。
「東大出て、何であんな格好してるんですか?」
「よくわからんけど、卒業した後に大企業に勤めよったらしいんやけど、ある時頭を打って、ああなったらしいよ」
頭を打ってから人生観が変わったとでも言うのだろうか。
それにしては、大企業のエリートから浮浪者への転身、えらく大きな変化である。

浮浪者と呼んでいいのかどうかわからないが、以前、黒崎駅前に汚い身なりの乞食が座っていた。
ムシロを敷き、その上でずっと土下座をしている。
彼の前には、空き缶が置いてあり、そこには小銭が入っていた。
昔のドラマやマンガなどで描かれていた、乞食スタイルそのものだった。
人の話によると、その乞食はいつも朝7時にやって来、夜7時に帰るらしい。
12時間労働である。
ある時友人が「あの乞食の後を付けていった人がおってねえ、その人から教えてもらったんやけど、あの乞食、けっこう金持ちらしいよ」と、教えてくれた。
何でもその乞食は、表通りでは腰を曲げ苦しそうにダラダラと歩いているが、裏通りに入ると突然背筋をピンと伸ばして歩くらしい。
彼の行き先は裏通りの駐車場だった。
彼は、そこに止めていた黒塗りのクラウンの鍵を開けた。
そして、車の中に置いてあった荷物取り出して、駐車場内にあるトイレの中に入っていった。
しばらく待っていると、トイレから一人の紳士が出てきた。
横顔を見ると、先ほどの乞食だった。
彼は車に乗り込み、その車を運転して颯爽と駐車場を出ていったということだった。
乞食やってクラウンが買えるのだ。
こうなれば乞食も立派な職業である。
ということは、乞食は浮浪者ではないということになる。
このへんの判断が難しい。

昔読んだ、本宮ひろしのマンガ『男一匹ガキ大将』で、戸川万吉が乞食をやったことがある。
最初はふんぞり返って座っていたが、だんだん謙虚になっていく。
そこで何かをつかんだ万吉は、大きな人間に成長していったのだ。
「乞食を3日やったらやめられない」という。
やはり乞食には、やったことがある人にしかわからない何かがあるのだろう。
長い人生、一度でいいから、何もかも投げ出して乞食をやるのも一興である。
だけど、ぼくには出来ないだろうなあ。

夜、近くの居酒屋に飲みに行った。
食べずに飲んでばかりいた。
12時を過ぎ、家に帰ったところまでは覚えている。
いつの間にか眠ってしまっていた。
朝起きて、日記を更新してないことに気が付いた。
さっそく、日記を書き始めたのだが、頭が痛い,、眠たい、 ボーっとしている、完全に二日酔い状態である。
そういう状態の時に限って、早く出勤しなければならない。
仕方なく、朝の更新は断念したが、都合のいいことに、今、店は改装中である。
仕事はほとんどない。
そこでぼくは、午前中くらいで仕事を切り上げて、帰ってからゆっくり日記を書こうと思っていた。
ところが、そういう時に限って、いろいろな仕事が舞い込んでくる。
結局、帰ってきたのは午後5時過ぎである。
今から昨日の日記を書き、それが終わってから、すぐに今日の日記を書かなければならない。

さて、夕刊に載っていたのだが、今福岡県内のホームレスは1187人いるということだ。
福岡市は607人、北九州市が421人いるそうである。
この数字は大阪や東京に比べるとはるかに少ないのではあるが、全国で6位だというから、決して少ない数字とはいえない。
もちろん九州・沖縄地区ではダントツである。
博多や小倉にいるホームレスの数は半端じゃない。

ところで、ぼくは浮浪者のことをホームレスと呼ぶのかと思っていた。
ところが、新聞を読むと若干ニュアンスが違うのだ。
記事の中に、ホームレスの半数近い人が、社会復帰を望んでいると書いている。
とういうことは、彼らは浮浪者じゃないじゃないか。
ぼくは、浮浪者のことを『世捨て人』という意味合いで捉えている。
ホームレスは社会復帰を望んでいるのだから、当然彼らを『世捨て人』と呼ぶことは出来ない。
したがって、ホームレスは浮浪者ではないということになる。
ぼくは認識を改めなくてはならない。

ぼくが東京にいた頃のことである。
ある日、友人と地下街を歩いていた。
突然その友人が「あ、今日はいるなあ」と言った。
「え、何が?」
「有名人」
「有名人?」
「ほら近づいてきた」
十数秒後、ぼくは怪物を目にすることになる。
頭を抱え、「アー」とが「ガー」とかいう叫び声を上げながら、怪物は登場した。
その形相、ただ者ではない!
その臭い、人間ではない!
すごい存在感である。
すごい威圧感である。
彼のいる半径10m以内には誰も近づかない。
近づけない。
彼は、浮浪者の風を装いながら社会復帰を狙っているホームレスと呼ばれる人ではない。
ぼくがこれまで見てきた中では、最強の浮浪者だといってもいい。

ああ、もう午後8時を過ぎた。
もう一編、日記を書かなくては…
ということで、3月26日付けの日記は終わり。

“久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ”(紀友則)
花はまだだが、まさに『光のどけき春の日』という一日だった。
風は少し冷たかったが、春の光はそれを打ち消していた。

今日は月例になっている、銀行回りの日だった。
午後から街に出て、各銀行を回った。
もろもろの支払いをすべてメインの福岡銀行にしておけば、別に給料日明けの休みの日に街に出なくてもいいのだが、いろいろと付き合いもあって、そう簡単にはいかない。
まあ、最近ぼくはあまり街に出なくなっているから、月に一度は街の空気に触れるのも悪いものではない。

いつもなら銀行を回った後で、本屋に立ち寄り、それからすぐに帰るのだが、今日はこの陽気に浮かれて久しぶりに街の探索をすることにした。
街の探索と言っても、メインの通りを歩くのではなく、裏町をぶらぶらと歩くのだ。
ぼくの裏町好きは、小学5年の春休みから続いている。
今はすっかり姿を消しているが、当時の裏町にはいくつかの古本屋があった。
そこには、一般の本屋にある、便意を催すような新しい紙やインクのにおいはなく、赤茶けた紙から発するかびくさいにおいが立ちこめていた。
ぼくはそのにおいが妙に好きだった。
まだ小学生だったにもかかわらず、このにおいを嗅ぐと、なぜか心が落ち着いたものだ。
それから8年後に東京に出るのだが、東京でもそのにおいに触れようとして、神田の古書街に足繁く通っていた。

裏町をぶらぶらと歩く。
春の光はこういう寂れた街にもやさしい。
当然のことではあるが、メインの通りに比べると、人通りは遙かに少ない。
こういう街には、目を怒らして歩いている人など一人もいない。
ただだらだらと、肩の力を抜いて歩いている。
それがまた、裏町の雰囲気を作っている。

裏町をぶらぶらした後で、駅前のデパートに立ち寄った。
そこで『京都展』をやっていたのだ。
今日が初日らしい。

京都展といえば、7,8年前までは毎年行っていた。
それは線香を買うためである。
ぼくは、毎年鼻の中にできものを作っているような鼻の弱い人間であるが、なぜかにおいだけには敏感である。
ちょっとしたにおいの違いならすぐにわかる。
そういう人間にとって何が一番辛いかと言えば、それは線香のにおいである。
特に飯時にやられるとたまらない。
飯がまずく感じる。
そういう理由で、においの少ない線香というものを、長い間探していたのだ。
ある時、何気なく立ち寄った京都展にそれは売っていた。
においが全くないわけではない。
しかし、そのにおいに違和感を感じないのだ。
元々生活の中にあったような、郷愁が漂うにおいである。
その線香を見つけてから何年かの間、ぼくは毎年そのデパートで行われている京都展に通い続けた。

今日久しぶりに京都展を覗いてみると、裏町とはうってかわってすごい人だかりだった。
それもそのはず、「当地では7年ぶりの開催です」と係の人が言っていた。
なるほど、ぼくが京都展に通わなくなった時期と重なる。
その間、みんな待っていたのだろう。
ぼくは、他のものには目をくれず、その線香の売っているところに行った。
そこでお目当ての線香を買い求め、その喧噪の中を立ち去った。

午後4時を過ぎていたが、さすがにまだ日は高い。
ぼくは車を停めてある駐車場に向かって、光のどけき春を堪能しながらゆっくりと歩いて行った。

今日が改装初日となったのだが、ぼく以外は初めての作業のせいか、気が張っているし、テンションも高い。
いよいよ始まったな、という感じがする。
ところがぼくは、相変わらずのマイペースだ。
2月末からずっとこのペースで来ているので、どうも周りの雰囲気になじめない。
それに、生まれつき一匹狼的な性格のせいか、他の人と仕事をするというのが、ぼくは苦手なのだ。
ちゃんといついつまでにこの仕事をやり終えるから、作業は一人でけっこう、自分のペースでやらせてくれ、というのが本音である。

たくさんの人の力を借りて、あるいはその道の専門家の力を借りてやると、たしかに時間も早くすむだろう。
その余った時間で、他の仕事も出来るだろう。
しかしぼくはだめなのだ。
たくさんの人が応援に来ると、その現場の主であるぼくが「ああしろ、こうしろ」と指図をしなければならない。
人の尻をたたく、ぼくはこれが嫌いである。

応援者の中には『仕切りたがり屋』という人もいて、やたら声を張り上げ、ピント外れな指示を出している。
そういう人はえてして頭が回らないものである。
これといった考えもなく、思いつきでその場限りの指示ばかり出すものだから、だんだんつじつまが合わなくなってくる。
「これはどうするんですか?」
「次は何をしたらいいんですか?」
などという質問に答えられなくなり、いつの間にかその場からいなくなっている。
こういう人がいると疲れる。
「よけいなことを言わんでいいから、あんたは一人で出来る仕事をやってくれ」とつい思ってしまう。

ところで、今日は職人技というものを見せてもらった。
什器専門の職人さんで、とにかく仕事が早い。
昨年の夏、初めてぼくが什器をばらした時、2時間かかった。
その後、何度か什器をばらす機会があったのだが、試行錯誤しているうちに要領を得、今回の改装準備では1台5分ほどでばらせるようになった。
素人ならこの早さで充分である。
しかし、上には上がいる。
その職人さんは、何と1台を1分足らずで什器をばらしてしまうのだ。
ぼくが1台ばらしている間に、5台の什器をばらし終えていた。
ばらしただけではない。
後日、再び組み立てやすいようにと、部材のメンテまでやっているのだ。
さすがその道で飯を食っている人だ、と感動しきりだった。

こういう時にいつも思うことだが、お偉いさんというのはいったい何をしに来るのだろう。
いかにも視察するといった趣で、店内をうろうろしている。
せっかく来たのだからと言って、廃材一つ運ぶわけでもない。
「○○君。頑張ってよ」などと激励するのはいいが、そのために激励された人の手が止まり、せっかくつかんだ仕事のペースが狂ってしまう。
その結果、作業が遅れてしまう。
こういう理屈がまったくわかっていない。

とにかく、今日から改装工事が始まった。

ぼくが直方に行ったのは、1972年2月11日のことだった。
ちょうどその日、札幌オリンピックでスキー90m級ジャンプが行われていた。
その5日前に、あの「笠谷、金野、青地」が70m級ジャンプで金銀銅を独占したのだ。
90m級も、笠谷に金の期待がかかる。
1回目は成功ジャンプだった。
しかし、2回目のジャンプで、風による失速。
結局、メダルには至らなかった。

さて、その日、直方に何をしに行ったのかといえば、友人たちと直方駅にある機関庫にSLを見に行ったのだ。
冒頭の、札幌オリンピックの模様は、ラジオで聴いていた。
機関庫からSLが走り出すところを撮るために、場所を移動していた時だった。

当時、SLブームの真っ盛りだった。
全国のSLが次々と廃止になる中、その雄姿を惜しむ人たちが、カメラを持ってSLに殺到した。
だが、ぼくはSLには興味がなかった。
直方に行ったのも、別にSLが見たかったわけではなく、ただのつき合いだった。
その日のぼく関心事は、何といっても笠谷のジャンプだったのだ。

さて、SLのことだが、最初にその言葉を聞いた時、何のことかわからなかった。
「SLちゃ何か?」
「蒸気機関車のことたい」
「なーんか、汽車のことか」
SLなどと言うので、何か特別なものと思っていた。
小学生の頃、毎日学校の行き帰りに見ていた汽車に、何で友人たちが「デゴイチ」だの「Cのチョンチョン」だのわけのわからないことを言って騒いでいるのか、ぼくには理解できなかった。

当時ぼくが持っていたSLのイメージというのは、『薄汚れたおっさん』である。
だからSLブームの時も、「わざわざ『薄汚れたおっさん』なんか、撮りに行かんでもいいやんか」と思っていた。
「どうせ写真も撮らないから、カメラなんか必要ない」
そう思って、直方行きには、カメラの代わりにラジオを持って行った。

「お、次は笠谷」というぼくの声にも、SLファンの友人たちは反応しない。
しきりに地図を片手にポイントを探している。
(笠谷のジャーンプッ!)
「飛んだ!」
友人たちは「この天気だから、あまりいい写真が撮れないかもしれん」などと言っている。
(ああ、風が…。距離が伸びない!)
「あーあ、だめかぁ…」
「しんた、何がだめなんか」
「笠谷」
「笠谷? 優勝したやないか」
「それはこの間の話。今日は90m級」
「ふーん」
ぼくがSLなんかどうでもいいように、彼らは笠谷なんかどうでもよかったのだ。

札幌オリンピックが終わってから、ぼくの笠谷熱は冷めていった。
それから少し後に、友人たちのSL熱も冷めていったようだ。
どちらも『にわかファン』だったのだろう。

たしか昨年末に、ホームページを変えようか、という日記を書いたことがある。
あれ以来ぼくはそのことを気にかけていた。
公約を守らないのは大した問題ではない。
しかし、指摘される前にやっておこうと思い、時間を見つけてはホームページ作りに励んでいた。
はい、ようやく出来たです。

今まで、『頑張る40代!』のトップページにうんざりしていた方にはうってつけのホームページである。

第一に、ごちゃごちゃしてない。
とにかく、『頑張る40代!』のトップはごちゃごちゃしすぎている。
とくに『世代を自慢する(序に代えて)』は「続く」とは書いてあるものの、オープン以来続きを書いたことがない。
メニューにあるコンテンツを、わざわざトップページで説明までしている。
あれを見るたびに、「見ればわかるだろ」という皆さんの声が聞こえてくるようである。
それを解消しようと、新しいサイトはなるべくシンプルになるように心がけた。
まあ、シンプルすぎるきらいもあるが。

第二に、しろげしんたの顔を見なくてもよい。
毎日あの顔を見ると嫌悪感を感じる方はいませんか?
「せっかく『頑張る40代!』を見てやっているのに、どうもしんたに見られているような気がするわい」と思っている方はいませんか?
だから外しました!
もうあなたは、しろげしんたの顔を見なくてすむのです。

第三に、『頑張る40代!』より少し軽い。
そうそう、『頑張る40代!』にはたくさんのバナーが貼ってある。
有名なところから、それほどでもないようなところまで。
そのため、表示までにわりと時間がかかっていた。
今回作ったサイトは、まったくバナーを貼ってない。
それが一つのウリではあるのだが、大したウリにはなってないのが寂しい。

第四に、目が疲れない。
配色に気を遣った。
なるべく目の疲れない色を使ったつもりである。
このサイトは、夜中に見る方が多いので、見ている方のはもちろんのこと、やってる本人も疲れないに越したことはない。
いつも『頑張る40代!』の画面を見ていると眠たくなり、日記を書いている合間に居眠りをしてしまう。
これは『頑張る40代!』のトップ画面の影響もあるのだと思う。
目が疲れない配色には、居眠り防止の意味もあるのだ。

第五に、それでも『頑張る40代!』の内容と変わらない。
『月明り掲示板』以外の主要なコンテンツは、いちおう揃えている。
日記も読める。
詩も読める。
エッセイも読める。
歌も聴ける。
新しい掲示板もある。
しろげしんたの主張に関しては、これで充分だろう。

こんなにすてきな特徴があるサイトを、今なら何と無料でお見せします。

で、URLは?
さて、どこにあるでしょう。
探してみて下さい。

販売の仕事といえば、危険のない業種だと思われている。
ところがそうではない。
表では、危険とは無縁の接客に明け暮れているようだが、一歩裏に入ると、そこは危険地帯である。
そういう場所で、ぼくたち販売員は危険を伴う作業をやっている。
重たいものを持ったり、高いところに上ったり、什器を壊したり、時には高圧電線と隣り合わせになることもある。
例えばテレビなどは、重さ50キロを超えるものはざらである。
こういった商品を、倉庫で積み上げたりしている。
貧しい店なので、倉庫用のフォークリフトなどない。
すべて手作業である。
この間、32型のハイビジョンテレビ積み上げたのだが、その重さが65キロだった。
部門に男はぼくだけしかいないので、こういう倉庫整理はいつも一人でやっている。

また、在庫が置いてあるのは倉庫だけではない。
屋根裏にも置いてあるのだが、そこに上るための階段やはしごは用意されていない。
そのため、商品や什器を使って上っている。
一つ間違えば、転落事故につながりかねない。

什器を壊したり組み立てたりすることもある。
今回の改装準備でその作業をやっているのだが、什器はそのほとんどがスチール製である。
手を切ったりすることはしょっちゅうで、他にも指を挟んだり、時には骨組みが倒れてくることさえある。
前にいた会社でリニューアルをやった時、業者のアルバイトがこの什器で指を落としかけたことがある。
素早く処置をしたので、指を切断することはなかったのだが、慎重にやらないとこういう事故も起こりうる。

さて、こういう作業の時には、軍手をしてやるのが普通である。
若い頃、運送会社でアルバイトをしたことがあるのだが、その時、冷蔵庫や家具といった重くかさばるものをお客さんの家によく運んだものだ。
一戸建ちの家は重いだけですんだのだが、問題は公営や公団の団地である。
エレベーターがあれば問題はない。
しかし、そうそうエレベーターつきの団地などはない。
ほとんどの団地は階段のみである。
しかも狭い。
階段がまっすぐなら問題はない。
しかし、こういう場所は必ず踊り場から折り返しになっている。
そのため、踊り場で、品物を切り返さなくてはならない。
広い階段ならさほどでもないのだが、これが狭い階段だと大変である。
うまく切れないから、いったん品物を立てて持ち直すのだ。
その時、品物を壁に当ててはならない。
「手は傷ついてもいいけど、品物には傷を入れるな」とよく言われたものだ。
その言葉をぼくは忠実に守り、何度も壁で手をすりむいた。
時には深く皮がむけて、白身が見えることさえあった。

そういう怪我を極力抑えてくれるのが軍手である。
しかし、ぼくはいつもそれをしていなかった。
ぼくも最初は、軍手をはめていた。
ところが、軍手をしていると、指先の感覚がなくなったように思え、作業に差し支えがあるのだ。
重たいものを持つ時も、軍手が気になって力が入らない。
そういう理由から、ぼくは軍手を着けない。
そのため、いくら怪我しても文句は言えなかった。
しかし、そのうちに手の皮が厚くなり、少々切っても血が出るようなことはなくなった。

さて、昨日もお話ししたとおり、今、改装の準備という大変危険な作業を行っている。
重たいものを持っている。
高いところに上がっている。
什器を壊している。
いつも高圧電線と隣り合わせだ。
あと3日で、今やっている作業を終わらせなくてはならないのだが、それまで無事に過ごせるかどうかが問題だ。
軍手をしなくてもいい手に、すべてをかけるしかない。

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