吹く風ねっと

一生は未来の記憶を散りばめた一本の道。人生は未来の記憶をひろいながら歩く旅。

2002年07月

午前中にNTTの工事があるというので、今日は出勤時間を遅らせた。
通常より1時間半遅い出勤となった。
天気予報では、今日は一日中晴マークがついていたのだが、朝から時々雨が降ったりしていた。
灰色のような青いような、なんとなくすっきりしない空の色が、普段とは違った街の姿をかもし出していた。
「そういえば、こういう天気は以前にもあったなあ」
などと思いながら、ぼくは車を走らせていた。
ちょっとしたことが、忘れていた過去を思い出すきっかけとなることがある。
それは、音楽や、ノートの切れ端や、その時の心象や行動、テレビや映画の一コマだったりする。
今日の起爆剤は空の色だった。
「さて、いつのことだったか?」
遠い記憶であることは間違いないのだが。
今日はそのことばかり考えていた。

その答が出たのは、夜家に帰ってからだった。
保育園に行っていた頃だったか、それ以前だったか、肩を脱臼したことがある。
テレビを見ながら寝ていた時、「寝床に行きなさい」と母親に起こされた。
ぼくが何度起こしても起きないので、母はぼくの手を引っ張って起こそうとした。
その時だった。
「グキッ!」という鈍い音がした。
その瞬間、肩に鋭い痛みが走った。
それまで味わったことのない痛みだった。
当初、筋をたがえたくらいにしか思われてなく、母は「寝たら治るよ」などと言っていた。
痛みに耐えて、何とかその日は眠りに就いた。
翌朝起きてみると、相変わらず痛みは引かず、肩はダラーンと垂れ下がった状態だった。
しかたなく病院に行くことになった。
朝早く、近くの済生会病院に行ったのだが、「ここは午前9時からじゃないと開きません」ということで、1時間近く待たされることになった。
しかし、あまりの痛みに我慢が出来ず、そこを出て他の病院をあたることにした。
「そういえば、黒崎の車庫前に『ほねつぎ道場』があったねえ」と、親戚のおばちゃんが言った。
「じゃあ、そこに行こう」ということになり、当時あったチンチン電車に乗って、その「ほねつぎ道場」へと向かった。

電車を降りて、少し歩いたところに薄暗い路地があった。
その路地の片隅に、「ほねつぎ道場」はあった。
その道場に着いてしばらくすると、柔道着を着た人がぼくの前に現れた。
その人はぼくの肩を触ったり、腕を回したりした。
そして、「ああ、はずれてますね」とこともなげに言った。
「ぼく、ちょっと痛いけど我慢してね」
彼はそう言うなり、ぼくの腕を軽く引っ張った。
かなり痛かった。
「はい、力を抜いて」
そう言われても、こちらには昨夜の恐怖心がある。
腕を引っ張られると抵抗してしまう。
その人はかなり手を焼いていたようだった。
しかし、何度か腕を回したり引っ張ったりしているうちに、こちらも抵抗しなくなってきた。
そのタイミングを見計らって、彼はぼくの肩を抑え、腕をグッと押し込んだ。
そして「腕をまわしてみて」と言った。
ぼくは恐る恐る腕を回してみた。
すると、先ほどまでの痛みがうそのようになくなっていた。
この間約5分であった。
しかし、ぼくにはかなり時間がかかったように思えた。

ほねつぎ道場から出て、その日はじめて空を見た。
家を出た時は、痛みで空を見るほどの余裕がなかったのだ。
灰色のような青いような、なんともすっきりしない空の色。
ちょうど今日の午前中のような天気だった。
あのときの痛みもなんとなく覚えている。
そういえば、今朝も肩が痛かった。
ま、あの時は今のような鈍い痛みではなかったが。

世の中気に食わんことだらけである。
北九州に、石原軍団御用達の明太子屋がある。
実際に行ったことはないが、テレビで見る限りでは、店内に石原軍団の写真を貼っていた。
そういうことが売りの店らしい。
会社の行き帰りに、この店の看板をよく目にする。
ぼくはその看板を見る時、いつも思うことがある。
それは、「だから何だと言うのだ!」ということだ。
石原軍団の御用達なら、明太子はおいしいのか?
石原軍団の舌は絶対なのか?
ちなみに、ぼくはそこの明太子を食べたことはない。
仮に今から明太子を食べようとした場合、「石原軍団御用達」という言葉だけで、明太子選択の判断材料にするようなことを、ぼくはしないだろう。
だいたい、有名人がよく買っているというのを、宣伝に使うこと自体おかしいのだ。
「うちは、あの石原軍団がよく利用している明太子屋だからおいしいのだ」とでも言いたげな宣伝に不快感を禁じえない。

うちの近くにあるレストランのメニューに、『天皇陛下が召し上がったカレーカレーロワイヤル』なるものがある。
別に、「その時天皇陛下は、この味にいたく感動された」とコメントがついているわけではない。
ただ「食べた」と書いているだけである。
もしかしたら、天皇はその時「まずい」と思ったのかもしれない。
しかし、こういう書き方をしていると、「だからおいしい」と暗に言っているように思えてならない。
実際食べてみると、「だからおいしい」という味ではなかった。
普通のカレーライスだった。

これと似たような話で、『皇室献上銘菓』なるお菓子がある。
食べてみると、それほどおいしいものではない。
確かに皇室に献上したかもしれないが、その程度のお菓子を献上するとは失礼なお菓子屋である。
またそれを宣伝文句に使っているのが気に食わん。

ラーメン屋や飲み屋に行くと、有名人のサインの数々。
あれも気に食わん。
さも「うちは有名人が来店するほどの、凄いお店なんだよ」と言いたげに、サインが並んでいる。
お客もお客で、「ここ○○が来たところなんだって。すげえ!」などと言っている。
しかし考えてみると、その有名人氏は、以前から懇意にしている店ならともかく、こんな地元の人しか知らない店を選んで来るわけがない。
たまたま飲み食いに行った場所が、そこだっただけの話じゃないか。
「すげえ!」ことでも何でもない。
本当に「すげえ!」と言われたいのなら、「このお店の、××というメニューが気に入りました」と書け、というのだ。
ただのサインでは、何にもわからんわい。
それも何と書いているのか、わからないものばかりである。
こんなことやめてしまえ!

予備校で、ぼくがトイレから出てくると、前を同じクラスの女の子が歩いていた。
同じくトイレから出てきたようだ。
教室に戻るには階段を上らなくてはならない。
ところが、ふと彼女を見ると、スカートがめくれている。
それもミニスカートである。
同じ階段を上るわけだから、後ろを歩いているぼくは当然見えてしまう。
彼女が階段を上りだした時、ぼくは目のやり場に困った。
「どうしよう」
しかし、教えてやるほどの勇気はない。
かえって変態扱いされるのがおちだ。
中学時代の思い出がよみがえる。
見たら見たで、後でわかった時に何を言われるかわからない。
しかたなく、ぼくは下を向いて階段を上った。
後でぼくを見ていた男子から、「お前、いい思いしたのう」と言われた。
見てないっちゃ!

社会に出て、電車通勤をしていた頃の話。
電車はいつも満員だった。
痴漢と間違えられると嫌なので、ぼくはいつも両手で吊り革をつかんでいた。
ある日、えらく後ろから押されたことがあった。
両手は吊り革をつかんでいるため、押されるたびに吊り革にぶら下がって、爪先立ちの状態になる。
そのたびに、前に立っている女の人のお尻に、ぼくの下半身が当たるのだ。
最初は押されるほうばかりに気をとられて、前を押していることは気がつかなかった。
気がつくと、その女の人はぼくを睨んでいる。
どうして、前の女の人がぼくを睨むのかがわからなかったが、しばらくして、「あ、そうか!」と、やっと合点がいった。
単純にぼくと彼女の間の行為だけで捉えると、これははっきり言って痴漢行為である。
しかし、こちらとしてはそういうつもりは毛頭ない。
こちらも動きようがないのだ。
ぼくは心の中で、「そういう怖い顔で睨みなさんな。この状況で、どうしろというんだ。おれだって早くあんたのそばから離れたいわい!」と思っていた。
ある駅で人が減ったので、ぼくはすぐにその人のそばから離れた。

またまた中学時代に話は戻る。
ある日の昼休みのこと。
ぼくは急にトイレに行きたくなった。
教室を出て、廊下を小走りしてトイレに向かった。
その時、曲がり角で、同じクラスの女の子とぶつかりそうになった。
ぼくはとっさに手を出した。
その手が、なんと彼女の胸に触れたのだ。
『あらっ!』と思ったが、もはや漏れる寸前である。
ぼくは「ごめん」と言って、トイレに急いだ。
教室に帰ると、その女の子は何かニコニコした顔をしていた。
その後、ぼくはその子から、婉曲なラブレターをもらった。
だから、違うっちゃ。
勘違いやろ、カ・ン・チ・ガ・イ。

大体こんなところか。
若い頃は、よく勘違いされて迷惑したものである。
最近は勘違いされての迷惑話は少なくなったが、昨日の冒頭のような変な迷惑話が多くなった。
そういえば、今の会社に入った時、「あの人の目を見たらいけんよ」と教えられたことがある。
「あの人」とは、24,5歳の女性であった。
話を聞くと、その女性の目を見ると、「あの人、私のことが好きみたい」と人に触れまくるのだそうである。
こういう自意識過剰な人は、本当に困りものである。
この話を聞いていたので、ぼくはそういうことを言われずにすんだ。
入社して程ない頃、会社帰りに小倉に飲みに行ったことがある。
駅に向かう途中に、その子とばったり会ってしまった。
「今帰りですか」
「ああ」
「どこまで行くですか」
この子、若いくせに言葉がいやに年寄り臭い。
目を見ただけで恋愛なら、まともに話していたら大恋愛になってしまう。
ぼくは始終、そっけない返事を繰り返すばかりだった。
こういう人の存在も、迷惑と呼んでいいだろう。

唐突にこんな話をして申し訳ないが、ぼくはつい何年か前まで、女性のナプキンの使い方を知らなかった。
てっきり、あれは患部に貼るものとばかり思っていたのだ。
わりと女性の多い家系だったにもかかわらず、こういうことには無関心だった。
もしぼくが日用品などの売場を持たされていたら、大恥をかいたことだろう。

なぜこういう話をするかといえば、ぼくの店によくナプキンの宣伝販売に来るおばさんがいる。
その人は、ぼくがその前を通ると、いつも「いらっしゃいませ」と言うのだ。
ぼくは男である。
それに、一応制服を着ている社員である。
何を思って言っているのかは知らないが、こんなことはやめてほしい。
そのナプキンおばさんが頭にこびりついて、つい冒頭の話になったわけである。

中学の頃、昼休みに女子と男子に別れてバレーボールをしたことがある。
もちろん体育の時間ではないので、ジャージなどははいてない。
前衛にいた女子がスパイクを打った時だった。
サッと風が吹いて、その女子のスカートがめくりあがった。
ぼくはその瞬間を見逃したのだが、他の男子は「オオッ!!」と歓声を上げた。
その女子は真っ赤な顔をしていた。
その後のことである。
他の女子がぼくのところに来て、「しんた君、見たでしょ?」と言った。
「いや、見てないよ」
「そんなことはない。あんたの位置からだと丸見えなんだから」
「見てないっちゃ」
その女子は、後々まで疑っていた。
ぼくは本当に見てない!

同じく中学の頃の話。
その日ぼくは親戚の家に泊まることになっていた。
昼間友人と遊び、親戚の家に向かったのは、夜の7時ごろだった。
季節は春だったので、7時にはもう日が沈んでいる。
ぼくの5メートルほど前を、女の人が歩いていた。
行く方向がいっしょだったのだろう。
駅から、ずっとぼくの前を歩いていた。
川沿いに歩いていくと、道が狭くなるところがある。
そこで、その女の人はぼくの存在に気づいたようだった。
女の人は少し早歩きになった。
そこから少し行った所で、ぼくは左に曲がり路地に入るのだが、その女の人もそこから左に入ってしまった。
ぼくはどうしようかと迷った。
その女の人は、ぼくにつけられていると思っている。
このまま行き過ぎてもいいが、ぼくも左に曲がらないと、親戚の家に行くことは出来ない。
そこで思い切って、ぼくも左に曲がった。
すると、その女の人は走り出し、「おねえさーん」と言って、一軒の家に飛び込んだ。
どうやらそこが彼女の家だったようだ。
ぼくが彼女の家を通り過ぎる時、彼女はその「おねえさーん」といっしょに、玄関からぼくを見ていた。
ぼくは知らん顔をして通り過ぎた。
ぼくは変態ではない!

高校の頃、保健の時間に人命救助の講義があった。
その中で、心臓マッサージやマウス・トゥ・マウスの実践があったのだが、そのモデルを誰がやるか、ということになった。
じゃんけんで決めようということになったのだが、誰かが「こういうことは、保健委員がせないけんやろうが」と言い出した。
「そりゃそうだ」ということになり、しかたなくぼくが犠牲者になった。
先生が「ちゃんとハンカチをかぶせてしなさい」と言ったのだが、いるんです。こういう時に、マジになる奴が。
もちろんハンカチの上からだったけど、そいつは唇をしっかりとぼくの唇に当て、息を入れてきた。
肺が膨れていく。
そいつは当時からヘビースモーカーだった。
ぼくの息は、しばらくタバコ臭かった。
後でそいつは、ぼくの唇を奪ったと、いろんなところで触れて回った。
ある日、女子から「しんた君、○君の唇奪ったらしいね」と言われ、変な目で見られた。

今日ローカルの番組で、ある高校に芸能コースというのがあると言っていた。
いよいよ県民皆芸能人の本領発揮かと思い、興味深く見ていた。。
このクラスでは、毎週4,5時間を費やして、生徒に歌を歌わせたり、ダンスを踊らせたりしているのだ。
あの堀越学園にも芸能クラスというものはあるが、それは芸能人が行くクラスであって、別に芸能人を育成しているわけではない。
しかし、この学校は芸能人を育成しているのだ。
時間割の中に、現国や数学などと並んで、ギターとかダンスという科目が書かれてあるのが面白かった。
もしぼくが高校生なら、躊躇なくこの学校のこのクラスを選ぶだろう。
無能な人間を育てる普通科よりも、よっぽどやりがいがあるに違いない。

さて、その番組の中で担当の先生が、「この中にモノになりそうな人間が2,3人は確実にいる」と言っていた。
この先生は、「浜崎あゆみやMISIAや椎名林檎といったトップミュージシャン」をその学校から出す、という夢を持っているようだった。

ところでこの番組を見て疑問に思ったことがある。
それは、「この科目の試験はどういう問題が出るのだろうか」ということである。
もちろん実技はあるだろうが、筆記のほうはどうなっているのだろうか。
「福岡出身の有名人を5人書きなさい」とか、「メジャーとインディーズの違いは何か。50字以内で簡潔に書きなさい」などという問題は出るのかもしれない。
まさか、「この科目は不得手だ」と思う人間はいないだろう。
もしいるとしたら、それはスランプに陥っているか、自分の才能に眼界を感じたか、担当の教師が嫌いかのいずれかである。

もう一つの疑問は、この科目で単位を取れずに、留年する人間がいるのかどうかだ。
授業にまともに出ていれば、まず留年はないだろう。
「インディーズ」の意味がわからなくて、欠点をとる生徒は皆無に等しいと思う。
「君は‘F’のコードを押さえきらないから、来年もう一度やり直しなさい」
「君はマイクを持つ時、どうして小指を立てるのかね。前から何度も注意してるだろう。全然進歩が見えないじゃないか。留年だ」
などとやっているのだろうか。

さて、このコースを選んだ生徒たちの就職状況はどうなのだろうか。
先生もいろいろ大変だろう。
大学や専門学校に行く生徒以外は、もちろん就職するのだろうから、そういう生徒たちの面倒を見なければならない。
第一希望は、みな音楽事務所や芸能プロダクションであるはずだから、そういう関係に顔が利かなければならない。
ホリプロやサンミュージックなどに行って、 「今年は有能な子がいるので、よろしくお願いします」などとやっているのかもしれない。
『のど自慢』に出させる場合もあるかもしれない。
「鐘が3つ鳴らなければ、君の将来はない。もしそうなったら、君は芸能界をあきらめて、普通の就職をしなさい」」
晴れて鐘が3つ鳴った場合は、それを肩書きに就職活動を行っていくのだろう。

仕事の合間にチラッと見ただけなので、今まで書いたことはすべて憶測である。
しかし、ただ一つ確かなことがある。
そこにお笑い系がなかったことだ。
福岡からせっかくタモリという大物が出ているのだから、そういうコースも作ってもらいたいものである。
しかし、もしお笑い系のクラスが出来ても、授業中にほかの生徒を笑わせるようなことをしたら、先生から叱られるだろう。

このバイト中、ぼくは一度だけ活躍したことがあった。
マルタイ食品の『長崎チャンポン』というのがある。
九州で大ヒットしたカップ麺で、ぼくがそのスーパーでバイトしていた時に新たに店頭に並べられるようになった。
Hさんが、「お前、これ知ってる?」と聞いた。
「『長崎チャンポン』ですね。知ってますよ。よく食べてましたから」
「おいしいの?」
「はい。おいしいですよ」
「どうやって食べるの?」
「普通どおり食べてもいいけど、玉子とか入れて、ソースを落とすとおいしいですよ」
「ふーん。じゃあ、お客さんに尋ねられたら呼ぶからさあ、ちょっと説明してやってよ」
「いいですよ」
ということで、ぼくは何人かのお客さんに説明した。
「これおいしいの?」
「おいしいですよ。九州では大ヒットしてますよ」
「本当?」
「九州人のぼくが言うから間違いないです!」
「あら、あなた九州の人なの。じゃあ、間違いないわね」
そう言って、お客さんは何個か買っていった。
ぼくはこの時、初めて物を売る喜びを知った。

わりと楽な仕事だったにもかかわらず、ここでのバイトは10日も続かなかった。
それは、この44年間の人生の中でも最大級の病気にかかってしまったからだ。
その病気とは胃痙攣である。
その前の日、ぼくは何も食べなかったのだが、バイトをしている時に空腹のピークを迎えた。
「腹減ったー」などと言っていると、同じバイト仲間が「これ食べな」と言ってアイスクリームをくれた。
おかげで、空腹感はなくなった。
下宿に帰り、タバコを吸っている時だった。
胃に軽い痛みを覚えた。
最初はそれほど気にならなかったのだが、その痛みが周期的に度を増してやってくるようになった。
おそらく空腹のせいだろうと思い、買い置きしていた例の『長崎チャンポン』を食べた。
しかし、痛みは引かなかった。
かえって周期が速くなってきた。
翌朝もその痛みは引かず、下宿でのたうち回っていた。
その日は一歩も外に出ることが出来ず、とうとう連絡も取らないまま、ぼくはバイトを休んでしまった。
後にも先にも、ぼくが無断で仕事を休んだのはこの時だけである。
その状態は一週間続いた。

ようやく体調が元に戻った。
バイトの方は、どうせクビだろうと思っていたので、「クビ」と言われる前に自分から辞めに行った。
バイト先に行くと、ぼくは例の人事の親父に呼ばれた。
親父は「一週間もどうしたんだね」と聞いた。
ぼくは一部始終を話した。
そして、「まだ万全だとは言えないので、一応バイトは辞めたいんですが」と言った。
親父はうなずいた。
何日か分の給料をもらい、ぼくはバイト先を後にした。

その後は決まったアルバイトはしなかった。
北九州への帰省賃稼ぎに、晴海の集中郵便局に行ったくらいだった。
続けてやろうかとも思ったのだが、もはややる気を失っていた。
冬にこちらに帰った時も、夏に行ったアルバイトに一週間通っただけである。
東京に戻ってからは、もう何もしなかった。
残りの東京の日々は遊んで暮らした。

春、北九州に戻ってきた。
いよいよ就職であるが、ぼくはその時点で、まだ就職が決まってなかった。
そこで一年間、長崎屋でアルバイトをすることになった。
アルバイトとは言え、メーカーの準社員扱いだったため、いろいろとノルマを与えられ、責任を負わされた。
もはや以前のような、気楽なアルバイトではなかったのである。
しかし考えてみると、その長崎屋でのアルバイトは、以前にやっていた気楽なアルバイトとは無関係ではなかった。
前にも言ったが、長崎屋でのアルバイトは家電製品の販売だった。
家電の販売は、もちろん配達も伴う。
販売といい、配達といい、すべてそれまでにアルバイトでやってきたことである。
もちろん力もいるから、豊洲埠頭での荷物の積み下ろしで鍛えたことが、ここで役に立つことになる。
倉庫整理一つとってみても、トラックへの荷積みがかなり役に立っているのだ。
人生無駄なことは一つもない。
どこかで繋がっているものである。
毎年夏になると、アルバイトをやっていた頃を懐かしく思い出すのだが、最近はそういう思いを持って、過去を振り返っている。

東京に戻ったぼくは、また友人とアルバイト探しをした。
もう運送会社はまっぴらだったので、今度はほかの業種を選ぶことにした。
アルバイトニュースを買い、総武線沿いを重点的に探した。
ほどなくいいところが見つかった。
四谷にあるスーパーマーケットだった。
文化放送の前を通り、お岩神社横の細い道を抜けたところに、そのスーパーはあった。
とりあえず面接を受けた。
面接官は小太りの、めがねをかけた親父だった。
ぼくはどうもこの男と折りがあわない。
変に剣のある口調でぼくに突っ込んできた。
「君はもっとほかのバイトを探したほうがいいんじゃない」とか、「その髪はどうにかならんかね」とか言ってきた。
ぼくは笑ってかわしていたが、相手の攻撃は執拗だった。
どうもこの男は、ぼくの身なりが気に入らなかったようだ。
そして彼が、「悪いけど今回は・・・」と言おうとした時、その店の店長が入ってきた。
店長は「せっかく来てもらったんだから、働いてもらおうよ」と言った。
めがね氏が「しかし・・・」と言うと、店長はその言葉をさえぎるように、「じゃあ、明日から来て」と言った。
めがね氏は少しムッとした表情をした。

このスーパーは、新宿では有名なスーパーだった。
来店客も土地柄か、品のいい人が多かった。
前にも話したが、仁科明子(現 亜季子)の母親や、中原理恵など有名人がよく買い物に来ていた。
しかし、ぼくは商品管理のほうの担当だったため、なかなかそういう人たちには会えなかった。
逆に、いっしょにバイトをしている友人は店内の担当だったので、しょっちゅう有名人に遭遇していた。
帰る時にいつも、「今日は誰々に会ったぜ」と言っていた。

このバイトを始めて、ひとつだけ閉口したことがあった。
それは、ネクタイをしなければならないことだった。
ぼくは今でもネクタイをするのが嫌いである。
これをすると、頭に血が流れないような気がするのだ。
「頭に血が流れない」→「脳が活発に働かない」→「馬鹿になる」、という図式がぼくの中に存在する。
それまでにネクタイをしたことがあるのは、成人式ただ一回だけだった。
その時は3時間程度ネクタイをしていただけだが、それでもかなり疲れたのを覚えている。
それが、このバイトを始めてからは毎日である。
仕事以前にネクタイに疲れていた。

仕事自体はそんなにきついものではなかった。
Hさんという担当の方がいて、ぼくはその人の横に付き添っているだけだった。
「これが品薄だなあ。これをチェックしといて」
と言われると、ぼくは用意した在庫表にチェックしていく。
ただそれだけの仕事だった。
たまには店のレイアウトもやった。
新発売の商品やチラシ掲載商品を、目立った場所に置いていくのだ。
その仕事も商品自体が軽いのと、限られたスペースにしか置けないこともあって、10分もすると完了してしまう。
店内でお客を相手にしている友人と比べると、かなり楽なものだった。

○運輸をクビになってから数日して、ぼくはまた北九州に戻った。
ま、ただの夏休みであるが。
7月中旬に戻ったぼくは、春にアルバイトをした運送会社にコンタクトを取った。
来てくれ、と言うことだった。
さっそく翌日からアルバイトを再開した。
仕事は、春と同じく宅配の仕事だった。
東京で鍛えてきてあるので、荷物はかなり軽く感じた。
調子に乗って、山の中腹にある家まで、洗濯機を一人で抱えて行ったこともある。
毎週火曜日が指定休だったのだが、ぼくは休まずに仕事に行った。
「あんた今日休みやろ?」
「そうなんですけど、何でもいいから仕事をさせて下さい」
「今日は宅配休みやけ、他にすることといえば・・・」
と、あてがわれた仕事は、土方だった。
社長宅の、100坪ほどある庭の整地である。
ブルトーザーでそこにあるコンクリや石を砕き、その後スコップで地面を平らにしていくのだ。
それまで、本格的にスコップを持った仕事はしたことがなかった。
慣れない仕事、しかも炎天下である。
終わった時には、かなりバテていた。
帰りしなに、「どうね、しんた君。来週の火曜日もするかね」と聞かれた。
『こりゃ、休まんとやっとられん』と思ったぼくは、「遠慮しときます」と言った。
その言葉どおり、翌週から火曜日はきちんと休むことにした。

休みもとらずに何で頑張ったかというと、ぼくはひとつの目的があったのだ。
実は東京に出る前に、ぼくはテレビでポール・マッカートニーのオーストラリア公演を見たのだが、そのライブで弾いていたギターを痛く気に入っていた。
そのギターとは、『オベーション・グレンキャンベルモデル』だった。
このギターは当時24万円した。
いつかこのギターを手に入れたいと思っていたのだが、東京では生活に追われて、そんな高価なものを買う余裕などなかった。
休みを取らずに働いた理由というのは、東京のアルバイトで稼いだお金と、このアルバイトのお金を足せば何とかなると踏んだぼくの、当然の行動だった。
しかし、それも一週間で挫折してしまった。

ところが、休みの日に福岡天神に遊びに行ったの時に、とんでもない裏技があるのを発見した。
クレジットである。
もちろんそれまでにも、クレジットの存在があるのは知っていたが、そこまでクレジットの必要性を感じたことはなかった。
バイトを終えて東京に戻る時に、ぼくは福岡天神のB電気に行ってクレジットの手続きをした。
そこからぼくのクレジット人生が始まった。
だけどこの時、もし払いが遅れたら、二度とクレジットは使えない、というのを知った。
だから無理のない支払方法をとった。
これが社会に出てから、大いに役に立つことになる。
これは自慢するようなことではないが、ぼくはこれまでかなりのクレジットを組んできた。
しかし、支払いが遅れたことは一度もない。
それは、そのギターを買った時にクレジットについて教わったことが大いに役に立っている。

その翌日、ぼくはオベーションの大きなケースを持って、飛行機に乗った。

ある日、原田真二似の男がバイトに入ってきた。
この男は仕事をしなかった。
ほかのバイト連中は荷が着いた時、それがどんな荷物であろうとも、荷を全部運び出すまでそのトラックについていたのだが、その男は違った。
重い荷物や汚い荷物があると、すぐにほかのトラックに移って行った。
「あっちは終わりそうだから、こっちを手伝うよ」などと言っている。
そこにまた重い荷物などがあると、またほかのトラックに移って行った。
軽い荷物ばかりあるトラックについても、最後までそこにいたことはなかった。
「トイレに行ってくる」などと言っていなくなるのだ。
そして荷物の積み出しがほぼ終わる頃に戻ってきた。
最初は気にしなかったのだが、こういうことが頻繁にあるので、ほかのバイト連中とその男の行動を探ってみることにした。
すると、「トイレに行ってくる」と言った後、彼はトイレには行かず事務所の中に入っていった。
事務所にいる社員に、「いやー、疲れました」など言ってしゃべりかけて媚を売っている。
そして、自分はいかに仕事をするか、というのをアピールしていた。

そのことがわかって、バイト連中は憤慨した。
バイトの中ではぼくが一番年長だったので、みんなぼくに「しんたさん、バシッと言ってやってくれ」と言ってきた。
しかし、ぼくは口で言うのを好まない。
かと言って、力に訴える主義でもない。
彼が相変わらずうろうろしていた時、ぼくは彼をつかまえた。
「おい、こっち手伝ってくれ」
「い、いや、ちょっとやっていることがあるんで」
「そんなのどうでもいいけ、手伝え!」
と言って、無理やり彼をトラックに引きずり込んだ。
「おい、これを全部運び出すぞ」
「えっ・・・・」
かなりの量だった。
いやいやながら彼は手伝ったが、しばらくしてから、いつものように「トイレに行ってきます」と言った。
ぼくは「トイレはこの荷物を全部積み出してから行け」と言って、荷物を彼に投げつけた。
しかたなく彼は最後まで手伝った。
その後、ほかのバイト連中がぼくのところに来て、「しんたさん、見てましたよ。胸がスッとしました」などと言っていた。
後でわかったことだが、その後彼は泣いていたらしい。

しかし、彼はこのことを恨みに思ったようだった。
事務所に行っては、執拗にぼくたちの悪口を言っていたのだ。
最初は事務所の人も相手にしていなかったが、あまりに彼がしつこく言うのでだんだん彼のいうことを信用するようになっていった。

土曜日は荷が少なかった。
8時にはトラックすべてが戻ってきた。
荷を積み出した後、ぼくたちは暇をもてあましていた。
9時までのバイトなので、いやでもそこにいなくてはならない。
ある日、社員の人が「のどが渇いたなあ。ちょっとジュースでも飲みに行こう」とぼくたちを誘った。
近くの自販機に行くと、ほかの社員もそこにいた。
みんなジュースではなくビールを飲んでいた。
「お前たちも飲め」と言って、彼はビールをおごってくれた。
このバイトをしている間、仕事中にビールを飲んだのはこれが最初で最後だった。
しかし、これが問題になった。
「バイトが仕事中にビールを飲んでいる」というのが、社長の耳に入ったのだ。
社員のほうはお咎めなしだったが、ぼくたちバイトは「辞めさせろ」ということになった。
ビールを飲んだことをチクったのは、言うまでもない、原田真二男である。
ぼくたちがビールを飲んだのを知ると、彼はさっそく事務所に報告に行った。
そして問題が大きくなったのだ。
辞めさせられたのは、ぼくを含めて5人だった。

そのバイトを始めて4ヶ月たっていた。
ぼくは、もうそのバイトには未練がなかった。
ほかの連中も、潔く辞めた。
結局、その会社には仕事をしないバイトだけが残った。

それから一度こちらに帰ってきたのだが、その時は前とは別の運送会社でアルバイトをした。
その会社は、長距離便や大手企業の下請けなど、いろいろな業務を行っていた。
ぼくが回されたのは宅配のほうだった。
当時ぼくは免許を持っていなかったので、もちろん助手である。
そこでは、ユニード(現ダイエー)や長崎屋といった量販店の配達を請け負っており、主に家電や家具の配達をやっていた。
宅配の仕事の中で一番苦労したのが、4、5階建ての公営・公団住宅に冷蔵庫やベッドといった大型商品を持って行く仕事だった。
この手の団地にはエレベーターがない。
そういう団地は決まって階段が狭いものである。
したがって小回りがきかない。
ちょっと気を抜くと、壁にこすってしまう。
そのせいか、「怪我はしていいけど、商品に傷をつけるな」というのが合言葉になっていた。
その言葉どおり、商品に傷をつけないために、ぼくは自分の手を犠牲にした。
手の甲を何度すりむいたことだろう。

しかし、ここではそんな痛い仕事ばかりではなかった。
おいしい仕事もあった。
それは引越しである。
ちょうど春先で、引越しの多い時期だった。
一度だけぼくも、引越しの手伝いに借り出されたことがあった。
けっこうきつい仕事だったが、帰る時にご祝儀もらった。
これがけっこうな額で、みんなで山分けしたのだが、それでも一人当たりの取り分は多かった。
そのバイトの日当よりも多かった。
約一ヶ月、その会社で働き、再びぼくは東京に行った。

東京でまた、友人とアルバイト探しの毎日だった。
ある日、アルバイトニュースで○運輸ところを見つけた。
場所は浅草橋だった。
友人が千葉に住んでいたため、バイトが終わったら、そのまま総武線で帰れるので都合がいいということで、そこをバイト先にすることにした。
浅草橋から少し歩いたところに、その○運輸はあった。
そこから少し行ったところに吉原という地名があったが、あの吉原なんだろうか。
相撲部屋が近くにあったので、歩いているとよく力士とすれ違った。
喫茶店にもパチンコ屋にも力士がいた。
午後4時から始まる仕事だったのだが、その時間帯は力士も休憩時間なのだろう。
さて、仕事のほうだが、4時から1,2時間、そこで荷物の積み込みをやる。
荷物には芳香剤、東京スタイル、工業用品の3種類があった。
芳香剤や東京スタイルの場合は、すべて定型の箱だったので、トラックに積み込みやすかった。
とくに東京スタイルは軽かったせいもあり、ぼくたちバイトは先を争って東京スタイルの積み込みをとっていた。
一方の工業用品のほうは、形がいちいち定まっていなかったせいで積み込みにくかった。
重さもまちまちで、おまけに油臭いときている。
誰もが敬遠した荷物であった。

そういう積み込み作業をしてから、バイトは全員トラックに乗り込んで次の作業場である豊洲埠頭に向かう。
そこにトラックの中継所があった。
埠頭であるから、もちろん船も着く。
トラックや船で運んできた荷物をここにいったん集め、それを地区別に仕分けして、そこに行く便に積み込む仕事だった。
ここでも東京スタイルは人気の的だった。
逆に嫌がられたのは、船で積んでくる荷物だった。
大きな機械から小さな鉄の球までいろんなものを積んでくる。
小さな鉄の球というのは直径15センチくらいで、重さはなんと25キロもあった。
そういうのが続けてくるわけである。
中にはドライアイスもあった。
これはグリーンのケースに入っており、重さは20キロだった。
夏場だったので冷やりとして気持ちよかったが、入れ物が汚かった。
こういう荷物を毎日運んでいた。
おかげでぼくの腕は太くなり、ポパイのような力こぶが出来るようになった。
ちなみにこの筋肉はいまだに落ちていない。
いかに運動をしてなくても、20回ほど腕立てをすれば、元の太い腕に戻るのだ。

19歳から22歳にかけて、ぼくはアルバイトばかりしていた。
決まったバイトではなくて、そのつど場所も職種も違った。

19歳の時は、エッセイにも書いているが、警備のアルバイトだった。
その年の4月から7月中旬にかけて、ぼくは人生最大のスランプに陥っていた。
そのことから立ち直る足がかりになったのが、この警備のアルバイトだった。
仕事慣れしていないせいもあり、あまり楽しい仕事ではなかった。
周りの人とトラブルばかり起こしていたような気がする。
しかし、ここを経験したから、次のステップが踏めたのだと思う。
それを考えると、決して無駄なことではなかった。
その後、市のアルバイト、プロレスのリング作りなどをやった。

年末に友人に誘われて、運送会社のアルバイトをした。
そこはデパートのお歳暮の配達をやっていた。
ぼくが配属されたのは、仕分け部門だった。
デパートのサービスセンターでお歳暮を配達の地区別に分けていく仕事だった。
商品に地区番号を書いていくのがぼくの仕事だった。
ベルトコンベアから次から次に流れてくる商品に、素早く番号を書かなければならない。
地区番号を覚えるだけでも大変だった。
しかし、1週間たち2週間たつうちに、住所を見ただけで瞬時に番号が出てくるようになった。
仕事はそういうことで慣れていったのだが、困ったのは人間関係だった。
そこにはデパートに雇われた大学生のアルバイト、実習教育の高校生、それと運送会社から派遣されたぼくたちがいた。
高校生はともかく、大学生とぼくたちの仲がすこぶる悪かった。
「しんたは生意気だからフクロにしよう」と言っていた大学生もいたようだ。
ぼくも「上等やないか。受けて立つわい」などと言っていた。
まさに一触即発の陰険なムードだったが、結局ぼくと同じ運送会社から派遣されていた大学生が仲裁、というよりも「しんたに手を出したら。おれがただでは済まさん」と脅しをかけたおかげで、大事には至らなかった。
その後、その大学生たちはぼくに愛想を振舞うようになった。
1ヶ月ちょっとのバイトだったが、けっこう有意義なアルバイトだったと思う。
その後、年が明けてから、雪の舞う中での漬物の家宅販売などをやった。
それから、東京に出たのだが、当初は何もやらずに、まず東京に慣れようとした。
それから数ヵ月後に、東京でのアルバイト生活が始まる。
まずやったのが、ビル清掃のアルバイトだった。
場所は麹町、日本テレビのまん前にあるビルだった。
ここは時給1000円と割のいい仕事だったが、日に2時間しか働かせてもらえなかった。
おかげで、バイト料は1週間も持たなかった。
飲み代に消えてしまったのである。
しかし、このバイトは4ヶ月続いた。
帰りに新宿中村屋で、肉まんを買うのが唯一の楽しみだった。

次にやったのが、晴海の集中郵便局での仕分けのアルバイトだった。
午後4時から翌朝7時までの仕事だった。
アルバイトは学生が主で、中には東大生もいた。
ほかのバイト団体が東大生を取り囲むようにして、「なんで東大の人がここにいるんだ」などと言っていた。
東大生といえども、一学生である。
「そっとしといてやればいいのに」、とぼくたちは言っていた。
それにしてもこの仕事は、休憩時間や仮眠時間はあるものの、立ちっぱなしの仕事だったため、慣れないぼくにとってはかなりハードだった。
職員は全逓労働争議であまり来てなかったし、来ていても仕事をしない人が多かった。
この仕事が、割がよかったのかどうかは知らないが、一度行くと7000円にはなった。
ぼくはこの仕事を一日おきにやっていたのだが、オフの日は何もやる気が起きなかった。
飲みに行く機会もグッと減り、また本屋に行く気も起きない。
したがってタンスの引き出しの中には、万札が何枚も入っていた。
使う気も起きないのだ。
それにしても、薄暗く、空気の汚い仕事場だった。
朝仕事が終わり、勝鬨橋を渡って帰る時のすがすがしさは今でも忘れない。

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