吹く風ねっと

一生は未来の記憶を散りばめた一本の道。人生は未来の記憶をひろいながら歩く旅。

2002年03月

今日、5千円札を見ていて思ったことがある。
このお札には、新渡戸稲造の肖像が載っている。
しかしこの新渡戸稲造、福沢諭吉や夏目漱石と比べると、かなりなじみが薄い。
ぼくも、『武士道』を書いた人だ、程度の知識しか持っていない。

『新渡戸稲造』、実に書きづらく読みにくい名前である。
初めてこの名前に触れた人は、きっと何と読んでいいのかわからなかったはずだ。
ぼくも初めてこの名前を見た時は、何と読んでいいのかわからなかった。

ところで、子供から「この人、何をした人?」と訊かれて、明確に答えることのできる人が、全国民の何パーセントいるのだろうか?
「世界に日本の文化を紹介した人」と言っても、子供たちにはピンとこないだろう。
仮に「日本の文化を紹介したら、お札に肖像画を載せてもらえる」と理解されたら、ちょっと困ったことになる。
「ということは、次は海外で活躍している電撃ネットワークの番か」と真剣に思う子も出てきて、彼らに続けとばかりに、南部虎弾のような頭をしたり、マジックインキを飲んだり、尻に花火をつっこんだりするかもしれない。

そこでぼくは考えてみた。
子供に新渡戸稲造のことを教えようと思っても、無駄なことである。
まず、名前が読みにくいというのが致命的である。
次に、「天は人の上に・・・」や「知に働けば角が立つ・・・」といった名文句を残していない。
さらに他の二人に比べると、試験に出る率が低い。
こういう人のことは、学者先生や歴史家に任せておけばよいのだ。

では、5千円はどうやって説明しようか。
さらにぼくは追及してみた。

子供「5千円札に載っている人は誰ですか?」
しんた「新渡戸稲造です」
子供「知らないなあ」
しんた「でもね、あの画は違う人なんだよ」
子供「え、誰ですか?」
しんた「君もよく知っている人です」
子供「え?」
しんた「5千円に載っている人、それは、」
子供「それは?」
しんた「マギー司郎です」
子供「え、マギー司郎なんですか?」
しんた「そうです。よく見てごらん」
子供「あ、ホントだ!!どうしてマギー司朗が載ってるんですか」
しんた「肖像画をすり替えるマジックやったの」

「子供にそんな嘘を教えてはいかん」
と、お叱りを受けるかもしれない。
しかし、5千円札の人が新渡戸稲造と知ってなんの役に立つんだろう?
先にも言ったが、試験に出るわけでもないし。
せいぜい「笑っていいとも」の、クイズの問題にされるくらいのものである。
それよりも、マギー司郎が載っていると思ったほうが、楽しくていいじゃないか。
マジックで画をすり替えたと思ったほうが、想像力が育つじゃないか。
楽しいということは、人生が豊かになるということだ。
想像力は、人間の生きる糧だ。
教育とは、人生の豊かさを教え、想像力を育てることである。

そうか、全然気にもとめてなかったけど、学生は今春休みなんだ。
それで、店内をガキどもが走り回っているわけか。
今の子供たちは、外で遊ぶようなことをしないのかなあ。

ぼくが小学生の頃は、春休みといえば『ダンチン(ビー玉)』だった。
人が集まれば、『ダンチン』をやっていた。
主に家の前の広場でやっていたのだが、時には隣の町内へ遠征に行ったりもしていた。
ポケットにダンチンを詰め込んで、ジャラジャラやって歩いていたものである。
ポケットがより膨らんでいる奴が、強い奴ということになる。
「穴入れ」「三角打」「インキョ」といったゲームをやっていた。
要は賭け事である。
数を賭けて、そういったゲームをやるのである。
最終的に相手のダンチンに当てたら勝ち、という単純なものだった。
だいたい卑怯な奴が勝つゲームだった。

ぼくの住む地域では、野球もこの時期から始まった。
やはり、高校野球やプロ野球開幕の影響があったのだろう。
誰かがバットとボールを持ってくると、自然に人が集まってくる。
そこで適当にチーム分けし、試合が始まる。
広場が狭かったため、いつも三角ベースでやっていた。
広場が内野で、道路が外野、ホームランは人の家であった。
ただ、ホームランになるのは、ボールが飛び込んでも叱られない向かって左側、つまりレフト側の家だった。
反対側、つまりライト側の家は、ドラえもんに出てくる『神成さん』のような親父が住んでいた。
ボールがそこに飛び込むと、いつもその親父が怒鳴りながら出てきて「ここで遊ぶな!」と言っていた。
したがって、この家にボールが飛び込むとチェンジになる。
さらに、ボールは打った人が取りに行かなければならない。
このルールは、左打ちのぼくには厳しいものだった。
満塁でぼくに打席が回ってくると、相手はわざと打ちやすい球を投げてきたものだ。
注文どおり、ぼくはライナーで『神成さん』宅にぶち込んでしまう。
これでチェンジだ。
もちろん、叱られるのはいつもぼくだった。
しかし、何が幸いするかわからないものである。
そのおかげで、ぼくは流し打ちを覚え、クラス対抗や子供会の野球大会、さらには社会に出てからの早朝野球では重宝がられたものだった。

春休みの楽しみがもう一つあった。
そう、ちょうど今頃の新聞に載る、公務員の人事異動である。
別に、お役所関係の異動はどうでもよかった。
ぼくが関心を持っていたのは、教職員の異動である。
毎年新聞を広げては、目を凝らして人事異動の欄を見ていた。
転任してくる先生は、自分の小学校の欄を見ればすぐにわかるのだが、転任して行く先生を探すのは大変だった。
当時八幡区には30以上の小学校があった。
それを一校一校、隈なく探していくのである。
時には他の区や郡部に転任して行く先生もいるのだから、その欄もおろそかにできない。
根気のいる作業だったが、やりだすとこれが楽しい。
その中に、過去に担任だった先生の名前や、一度でも叱られたことのある先生の名前が入っていると、「ザマーミロ、おれを叱るけたい」と思ったものである。
しかし考えてみると、逆に「やったー、もう『バカしんた』の顔を見なくてすむ」と思い、喜んで転任していった先生もいたのかも知れない。
どっちもどっちである。
直接ぼくと接触のない先生でも、一般に恐いと言われている先生には転任してもらいたいというのがあった。
もし、そういう先生が担任にでもなったら一大事だからだ。
2年間は同じ先生だから、いつもソワソワしていたぼくにとって、これは地獄である。
とにかく、そういう可能性もないとは言えないので、一応心の準備をしておくためにも、そういう先生が転任するかどうかを確かめておかなければならない。
その意味でも、教職員の人事異動の記事は役に立った。

春休みには宿題がなかったということもあり、一年で一番のんびりしていた時期である。
しかし、すぐ終わるのがたまにきずだった。

今日は終日雨であった。
雨がやんだら、本屋にでも行こうと思っていたのだが、いっこうにやむ気配がなかった。
ということで、今日は一日家の中にいた。

「春に三日の晴れ間なし」という言葉があるそうである。
そういえば、ここ何週間か休みの日には必ず雨が降る。
それも、晴れ間のひとかけらもないのである。
休みの前後の日は必ず晴れているのだ。
これはどうしたことだろう?
ぼくは決して『雨男』ではない。
要所要所では必ず晴れているから、どちらかと言うと『晴れ男』に近いと思っている。
まあ、これも巡り合わせの問題なのだろうと思い、諦めている。

しかし、休みの日に晴れ間を拝めないと、何か損をした気がするものだ。
先日、あるアンケートで「一日のうちで、どの時間帯が好きですか?」という質問があった。
ぼくは躊躇せず「夕方」と答えたのだが、これも「晴れていれば」という条件付きでのことだ。
曇天や雨天の夕方は大嫌いである。
ぼくの部屋の窓から見える工場街の灯りが、何かしら寂しく感じるものだ。
ぼくの嫌いな冬の情景を、そこに重ねてしまうからだろう。

雨が降ると、何をする気も起こらない。
ここまで雨に見舞われると、家の中で運動することも嫌になる。
次の休みがどうなるかはわからないが、もし雨だと、また家にくすぶってしまい、また『妖怪ハラマワリ』を巨大化させることになってしまう。
この悪循環を断ち切るためにも、来期は休みのローテーションを変えてみようかなあ。

ぼくが勝手に「雨が似合う街」と思っている場所がある。
東京の銀座、京都市内、島根の津和野、福岡でいえば太宰府と秋月、大分の日田、那覇の国際通りなどである。
那覇の国際通り以外は、傘を差して歩くのが絵になるのである。
最初にそれを感じたのは銀座だった。
雨に濡れる三越のライオンを見て、ふとそう思ったのである。
その時から、銀座は風情があっていいな、と思うようになった。
古都や小京都と呼ばれるところは、だいたいおわかりいただけると思う。
では、那覇はどうしてか?
答は、スコールが好きだからである。
那覇には何度か行ったことがあるが、そのたびにスコールに見舞われていた。
突然の土砂降りというのは、気持ちがいいものである。
腹の底から「今生きている」というものが、湧き出てくるような気がするのである。
そういうことは、北九州にいても夕立などで味わえるのだが、那覇に比べると、その頻度は低い。
やはり、那覇が本場という気がするのである。
しかし、いくら雨が似合う場所といっても、雨が降るとどこに行く気も起きないのだから、なかなかそういう場所に行く機会がない、というのが現状である。

昨日の原体験ではないが、ぼくが小さな頃、雨が降るとよく前の川が氾濫していた。
橋を隔てた向こう側は、かつて「死の海」と謳われた洞海湾である。
したがって家の前の川も、昔は腐ったような臭いがしていたものだった。
そういう川が氾濫するということは、毒をばら撒かれているのに等しいことだ。
「汚いけ外に出るな」と言われていたが、子供たちがそういうことを聞くはずがなく、皆外に出て冠水した道路におもちゃの船などを浮かべて遊んでいた。
しかしよく考えると、その船は、またお風呂に浮かべるのである。
こんなに汚い話はない。
きれいに洗えば問題ないのだろうが、洗ったような記憶がない。
そういえば、よく溝の中で浮かべていた潜水艦のプラモデルも、洗わずに風呂に浮かべていたような記憶がある。
ああ、ぼくはなんと罪深いことをしてきたのだろう。
もしかしたらこの白髪は、その時の後遺症なのかもしれない。

もうそろそろ寝ようと思うが、外は・・・、
えっ、晴れとるやん。
月がこうこうと夜の街を照らしている。
くそー、休みを返せー!!

ぼくは昭和32年11月に福岡県八幡市(現北九州市八幡西区)折尾で生を受けた。
折尾という街は、かつては石炭産業で栄えた所である。
鹿児島本線と筑豊本線が交差する交通の要所で、2年前までは西鉄北九州線の起点でもあった。
また多くの高校や大学がここに集まっており、石炭産業の廃れた今は、学生の街として栄えている。
ぼくは、その折尾にある田中産婦人科というところで生まれた。
今でもこの病院はあるが、この田中産婦人科という名を聞くと、何かホッとするような思いがする。
ちなみに、この産婦人科は、あの雅子妃の不妊治療をしたと噂される、有名な『セントマザー病院』の院長の実家である。

生まれた頃に住んでいたのは、遠賀町という父の母方の実家の近くであった。
しかし、その頃の思い出はまったくない。
そこには、あまり長くは住まなかったのである。

ぼくが生まれた翌年に、『しろげ一家』は黒崎に移り住んだ。
街のど真ん中に家を借りた。
その家は、今の飲み屋街辺りだったということである。
引っ越した理由は知らない。
ただ、父が八幡製鉄所に勤めていたので、「職場に近いので、通勤に便利」というのが理由だったのかもしれない。
なぜなら、黒崎からだと八幡製鉄所までは、当時走っていたチンチン電車で10分とかからないのだから。
もう一つ考えられるのが、その家が映画館の隣にあったということである。
テレビのなかった当時は、映画が情報源であった。
父は案外、映画っ子だったのかもしれない。
黒崎に住んでいたのは1年ちょとだった。
したがって、2歳のぼくにはその頃の思い出もない。
ただ、今でもそのへんを歩くと、なぜか懐かしい思いがするものである。

2歳の頃、今住んでいる場所に移った。
ここは、黒崎と折尾のちょうど中間に位置する。
もちろん、移り住んでからしばらくの記憶はない。
覚えているのは、家の近くに馬が多くいたことだ。
かと言って、近くに田んぼや畑があったわけではない。
じゃあ、なぜ馬がいたかというと、以前ここに競馬場があったからである。
もちろん、小倉のような中央競馬ではなく、地方競馬だったようだが。
ぼくが保育園に通う頃には、すでにこの競馬場は潰れていたので、馬がいたというのはそれ以前の記憶だろう。
しかし、初めてにおう馬の臭いは強烈だった。
ぼくが競馬をしないのは、きっとこの臭いからきているのだろう。

この競馬場のように、越してきた頃はあったのだが、ぼくが幼い頃に潰れてしまったものに、映画館がある。
うちから歩いて1,2分の場所に映画館があった。
黒崎にあった、東映・東宝・日活・松竹といったメジャーな映画館ではなく、その当時ならどこにでもある、テレビ代わりの小さな映画館だった。
そこでは、古い時代劇やB級の洋画を上映していたような覚えがある。
立地が悪く、雨が降るといつも水浸しになった。
いすは破れ、時折ネズミが走り回るような、最悪の映画館だった。
この記憶が、後のぼくの映画館嫌いを決定付けたのだと思う。
ぼくは、好んで映画に行く人間ではない。
今までは、招待券をもらった時ぐらいしか行ったことがない。
それもこれも、映画館が嫌いだからだ。
ビデオが普及してからは、招待券をもらっても行かないようになった。

区画整理とともに消えていったものもある。
銭湯である。
ぼくの家には風呂があったので、めったに銭湯を利用することはなかった。銭湯に行ったのは、風呂が壊れた時と、親戚のうちに泊まりに行った時くらいなものである。
そのせいか、銭湯にはいつも憧れを持っていた。
東京にいた時に一番うれしかったのは、銭湯通いが出来たことである。
時間に制約がなければ、ずっと入っていたかった。
銭湯で特に好きなのが、風呂場から脱衣場に出たときのにおいである。
あれは何のにおいなんだろうか?
足拭きの、あのタワシのようなもののにおいなんだろうか?
なんと形容していいのかわからない、独特なにおいである。
ぼくは温泉やスーパー銭湯に行くのが好きだが、あのにおいがないことにいつも不満を感じている。
温泉はともかく、スーパー銭湯に言いたいことがある。
いくら温泉もどきとはいえ、温泉のあの屁みたいなにおいまで真似なくてもいいじゃないか。
それよりも、銭湯独自の、あのタワシのようなにおいを出してもらいたいものである。

それにしても、「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものである。
ここまで羅列したどうでもいいようなことが、すべて幼児期の体験や記憶から来ているのである。
こういうことを探っていくと、「どうして日記を書くのが遅いのか?」という疑問も解けるかもしれない。
現在、時刻は午前9時14分である。

今日は棚卸だった。
年に2度行われるのだが、その時期になるといつも苦痛を感じる。
販売業界に入って20年以上経つが、棚卸という作業はいまだに慣れない、嫌なものである。
「こんな嫌な棚卸なんかなくなればいいのに」と、いつも思うのだが、そうもいかない。
そこで「せめて、嫌な棚卸の中にも楽しみを見つけよう」と、いつも思うことにしている。

棚卸で真っ先に思い出すのは、長崎屋にいた時のことである。
その日は店を閉じての棚卸であった。
前日、ぼくたちはいつものように飲みに行っていた。
3軒ほどハシゴして、気がついたらもう午前5時を過ぎていた。
その時のメンバーの一人に、例の「海綿体パパ」=Kさんがいた。
ぼくが時計を見て気がつき、「あ、Kさんもう5時過ぎですよ。9時半からやけど大丈夫ですか?」と言うと、Kさんは例のごとく泥酔していて、「あ、しんちゃん、ぼくはねえ、フニャフニャフニャ・・・」とわけのわからんことを言っていた。
とにかく帰って寝ようということになり、そこでお開きになった。
タクシーで家に戻り、3時間ほど寝てから会社に出かけた。

朝礼が始まったが、まだKさんは来てない。
フロアー長が「Kさんどうしたの?」と聞いたので、ぼくは「昨日飲みに行ったんですけど、もしかしたら寝坊してるのかもしれません」と言った。
みんなはクスクスと笑った。
すると、突然フロアー長が「こんな大事な日に、飲みに行ったなどと言うな!不謹慎な」と怒り出した。
その怒りの最中にKさんはやって来た。
まだ眠っている。
フラフラしながら朝礼の列に加わり、ぼくの横に立った。
ぼくが小声で「Kさん大丈夫ですか」と聞くと、Kさんは口元だけに笑みを浮かべ、「お、しんちゃん。大丈夫、大丈夫」と言った。
しかし、大丈夫じゃない。
目を閉じている。
そして体が揺れている。
フロアー長は、苦虫を噛みつぶしたような顔でこちらを見ている。

フロアー長が棚卸の説明を始めた。
相変わらずKさんは目を閉じたままである。
時折倒れそうになる。
それを見てフロアー長が、「Kさん、起きてますか?」と言った。
Kさんが目を閉じたまま何も言わないので、ぼくがひじでつつくとKさんは目を開けた。
そして周りを見回し、「ん?・・・ああ、大丈夫です」と答えた。
それから、また目を閉じる。
フロアー長が「今までの説明、わかりましたか?」と訊くと、また目を開け「ん?・・・ああ、大丈夫です」と言う。
他の人はこのやり取りを見て笑っていたが、ぼくは笑おうに笑えなかった。

その後、棚卸が始まった。
Kさんは、まだフラフラしていた。
Kさんのパートナーは、「Kさん、ぼく一人でやりますから、寝とって下さい」と言っていた。
Kさんは例の調子で、また「ん?・・・。ああ、大丈夫」とやっている。
結局、そのままKさんは棚卸を続けた。

その期の棚卸は、かなりの違算を出してしまった。
結局、後日再棚卸ということになった。
しかしそれは他に原因があったからで、決してKさんのせいではなかった。

さて、今日のことである。
ぼくはいつものように、棚卸の中に楽しみを探していた。
売場をチェックしていると、ふと体重計を見つけた。
「そういえば、ここのところ体重を量ってなかったな」と思い、ちょっとこれに乗ってみることにした。
「何か日記のネタになるんじゃないか?」と期待して目盛りを見ると、たしかに日記ネタにできることになっていた。
昨年74キロだった体重が80キロを超えていた。
服を着ていたとはいえ、80キロを超えるのは生まれて初めてのことである。
「やったー、これはネタになる!」と思った。
が、喜ぶことではない。
元の体重に戻すには、大変な努力が必要である。
今日ぼくは、棚卸の中にひとつの苦しみを見つけた。

昨日、
タカコ「キヨミはどこ行ったの、キヨミは!?」
ミズホ「先ほどから探しているんですけど、足取りがつかめません」
タ「こんな大事な時に、どこをウソウソしてるんだろうね」

それから、
ミ「党首、キヨミさんが見つかりました」
タ「そう。で、どこにいるの?」
ミ「それが・・・」
タ「どこにいるか言いなさい」
ミ「は、はい。テレビの中です」
タ「えっ・・。もぉ、あの子は勝手なことばかりしやがって。
党より、私より、筑紫さんの方が大切なのかっ!」
タ「党首、落ち着いて。眉間にしわが」

その後、
キヨミ『20日の記者会見の内容に誤りがあったことで、報道関係の方々にお詫びします』
タ「何だ、この言い方は!
国民にお詫びなしか!
そんなにマスコミが大切か!
こんな子を置いてたら党のイメージが悪くなる。
ミズホちゃん、もう辞職させるしかないねっ!」
ミ「しかたないでしょう」

今日、
タ「ねえ、キヨミちゃんは?」
ミ「さあ?」
タ「また行方不明か」
ヒショ「さっきテレビで『入院した』と言ってましたよ」
タ「入院?」
ヒ「ええ」
タ「また雲隠れか。
ったく、ジミン党みたいなことしやがって」

党本部で、
タ「キヨミちゃん、やめてちょうだい」
キ「やめたくないです」
タ「でも、このままじゃシメシがつかんだろう」
キ「党首、もう一度発言の場を下さい。
国会中継に出させてください
どうしてもムネオとカトウを道連れにしたいんです」
タ「あなた個人の問題でしょ?」
キ「でも党首、私あってのシャミン党じゃないですか!」
タ「違うわよ。党あってのキヨミなの」
キ「でも、ここ数ヶ月は、党首より私のほうがテレビの出演回数が多いじゃないですか!」
タ「何を勘違いしてるの?」
キ「だってそうじゃないですか」
タ「だめなものはだめ」
キ「ね、党首」
タ「だーめっ!」
キ「党首、党首、党首」
タ「だめだめ、その手はもう古い!」

記者会見前、
タ「もうすぐ記者会見よ」
キ「あ、出演の時間か」
タ「そうじゃないでしょ。
記者会見よ、記者会見!」
キ「だって、テレビ局も来てるんでしょ?」
タ「・・・」
キ「党首、では出演してきまーす」
タ「ちょっと待って、キヨミちゃん」
キ「はい、何でしょう?
もう一度考え直せ、ですか?」
タ「違うわよ。
イヤリング外して行きなさい」
キ「えーっ!?
だって、テレビに出るんですよ」
タ「いいから、外して行きなさい!」
キ「・・・、はーい」
タ「あ、それと議員バッチもね」
キ「えっ?」
タ「もう、議員辞職願を出したんだから、ちゃんと『ケジメ』をつけなさい」
キ「・・・、わかりました。
でも、これはテレビカメラの前で外します」
タ「ったく!」

記者会見で、
キ『もっと国会で質問がしたかった』
タ「何を考えてるんだろう、この子は。
質問することが政治とでも思っとるんかね」
キ『(政策秘書の)紹介を受けた方を含め話があった。名前は差し控えたい』
タ「この期に及んで、またよけいなことを」
キ『党には残ります』
タ「いらんわい!」

再び党本部、
タ「キヨミのやつ、よけいなことばかり言いやがって」
ミ「困りましたね」
タ「キヨミが『党に残る』と発表した手前、今すぐ離党させるわけにもいかんし。何か仕事を与えなければ。何かいい仕事はないかなあ?」
ミ「うってつけの仕事があります」
タ「そうか」
ミ「キヨミさんも今回のことで、議員のことが少しはわかったと思います」
タ「そりゃそうだ。これでわからなければ馬鹿だ」
ミ「そこで考えたんですが、」
タ「うん」
ミ「今回の教訓を生かしてですねぇ、」
タ「うんうん」
ミ「誰かのですねぇ、」
タ「うんうんうん」
ミ「政策秘書にしたらどうでしょうか?」
タ「おお、さすがは弁護士。
よし、5万円で雇うことにしよう!」
ミ「党首・・・」

 -幕-

◆ びっくり姉ちゃん

びっくり姉ちゃんは今日もテレビに出ていた。
この人はいつもカメラ目線である。
そりゃ体裁悪いよなあ。
つい2週間ほど前は、疑惑追及の急先鋒だったんだから。
自分が吼える姿をビデオで見て悦に入っていたのが、今となっては空しい。
何をそんなに恐れているんだろう。
世間の風当たりか?
議員をくびになることか?
はたまた、テレビに出られなくなることか?

ムネオ「あなたは、疑惑もネコババした」



◆ 事故

今日、会社の行きがけに事故を見た。
「えらく渋滞してるなあ」と思っていたら、対向車線に人が倒れているのが見えた。
横にはバイクが転がっている。
その後ろにはワゴン車が一台。
まだ事故が起きたばかりだったのだろう。
警察も救急車も来ていなかった。
血は流れてないようだったから、打撲で動けなかったのか。
しかし、場所は片道2車線の見通しのいい直線の上り坂。
おそらくバイクが無理な追い越しをしようとして、ワゴン車に接触したのだろう。
こういう時、泣きを見るのはいつも車のほうである。
今日の場合だと、警察は「ワゴン車を運転していた○○さんの前方不注意」と報告するだろう。
朝の交通量の多い時間帯はみな惰性で走っているのだから、前方不注意も何もあったもんじゃない。
前方不注意と受け取られるような、割り込み方をバイクがしたとしか考えられない。
ワゴン車としてはいい迷惑である。
勝手に飛び込んできて、悪者にされて、点数引かれて、慰謝料取られて。
踏んだり蹴ったりである。



◆ わけわからん

ぼくの家から車で黒崎に出るためには、三菱化学横の陸橋を越えなければならない。
この陸橋がいつも渋滞するのである。
家からこの陸橋入口まで約2分で着く。
そこから黒崎駅までは、直線だと車で1分足らずの距離である。
しかし、黒崎駅に行くにはこの陸橋を越えなければならない。
この陸橋を越えるのに要する時間は、ぼくが体験した範囲で言えば、最低1分、最高30分である。
平均すると、だいたい10分である。

この陸橋は「Y字」になっている。
ぼくの家の方向から見ると、陸橋の入口は「Y」の下の部分である。
3つの線の交わる位置に信号機があり、黒崎に行くにはそこから右に曲がる。
右上の出口が、福岡県のドライバーならおそらく知っているであろう、悪名高い「筒井交差点」である。
ラジオの交通情報で必ずと言っていいほど登場する、慢性渋滞地点である。
この「Y」を左にまっすぐ行くと、一方通行のため進入禁止になる。
進入禁止の手前で左に行くと、三菱化学の正門に出る。
そこからは、一般車両は入れない。
ということで、左に行く車はすべて三菱化学に用があるのである。
この「Y」を右と左に行く割合は9対1で、圧倒的に筒井交差点に向かう車が多い。

最近、この陸橋の車線が変わった。
この陸橋は片道2車線ある。
陸橋の入口から信号までは、今まで、右車線は右折車専用、左車線は右左折兼用だった。
ところが今回の変更で、右は今までどおり右折専用だが、左が左折専用になったのである。
これは問題である。
9割の車が、右の一車線に閉じ込められるわけだ。
市は何を考えているんだろうか。
これでは渋滞が助長されるだけである。

店に来るお客さんにもいろいろな人がいる。
変に理屈っぽい人。
きつい香水をつけてくる人。
酔っ払って他のお客さんに迷惑をかける人。
わざわざおならをしていく人。
道の達人。
・・・などなど、あげるときりがない。

ぼくの売場の人間が『冠二郎おばちゃん』と呼んでいる人がいる。
以前は、店に来ると必ずカラオケテープのコーナーを覗き、ぼくたちを捕まえては「冠二郎の新曲は出てないね?」と訊いていた。
出ていた時は、「そうね!出たね!」と目を輝かせ、うれしそうな顔をして買っていく。
しかし、それから1週間もせずにやってきて、また「冠二郎の新曲は出てないね?」と同じことを訊く。
いくら冠二郎がプロの歌手とはいえ、毎週新曲が出るはずがない。
そのことをいつも『冠二郎おばちゃん』に説明するのだが、次に来た時にはやはり同じように「冠二郎の新曲は出てないね?」と訊いてくる。
「おばちゃん、この間新曲出したばかりやないね。冠二郎も忙しいんやけ、そうそう新曲は出せんのよ」
おばちゃんは、「そうよねえ」と言って帰っていく。
しかし、またやってきては同じことを訊いてくる。
ぼくたちはその熱心さに敬意を表して、そのおばちゃんを『冠二郎おばちゃん』と呼ぶことにした。

『冠二郎おばちゃん』、おばちゃんとは言うものの、もう70歳を早く過ぎたおばあちゃんである。
いつもカートを歩行器代わりにしてやってくる。
「わたしはねえ、遠くから歩いて来よるんよ」、といつも言っている。
「おばちゃん元気いいね。どこに住んどうと?」
しかし、その問には答えてくれない。
とにかく、『遠くから』と『歩いて』というのがキーワードのようだ。
それがこのおばちゃんの元気の源なのであろう。

一時期、このおばちゃんが顔を見せなくなったことがある。
昨年秋から今年の初めにかけてである。
カラオケテープの整理をするたびに、うちの女の子は「最近『冠二郎おばちゃん』来んねえ」と言っていた。
「おそらく死んだんよ」とぼくが言うと、「そんなこと言ったら、かわいそうじゃないですか」とその女の子は言った。
「でも、けっこう歳やったし、死んでもおかしくないよ」
「それもそうですね」
ぼくの働いている店のある地区はお年寄りが多いため、以前よく来ていた人が長い間来ないというのは、だいたい入院しているか死んでいるかのどちらかを意味している。

ところがどっこい、『冠二郎おばちゃん』は健在であった。
2月のある日、ひょっこり顔を見せた。
おばちゃんはカラオケテープの前に立っていた。
「やばい」と思い、ぼくたちは隠れた。
捕まると大変なのである。
「冠二郎の新曲は出てないね?」だけならまだいい。
そのあと、冠二郎がいかに素晴らしいかを、とくとくと言って聞かせてくれる。
人のいいぼくたちは、無視することもできずに、話を聞いてやることになる。
捕まったが最後、短くて10分、長い時は30分は他の事ができない。
「うん、うん」とうなずくだけでも、かなりの労力を要する。

ある日売場に立っていると、『冠二郎おばちゃん』がぼくの横を素通りした。
何度かぼくの横を素通りした後で、「ここの人はおらんのかねえ」と言った。
「おばちゃん、ここにおるやん」と言うと、「ああ、気がつかんかった」とおっしゃる。
「何でしょう?」と訊くと、「ちょっと来て」と言う。
ぼくをよその売場に連れて行って、「これが欲しいんやけど」と言った。
そこに係がいたにもかかわらず、わざわざぼくを呼びに来たわけである。
その商品は収納ケースであった。
そして、「わたしは遠くから歩いてきた・・・」が始まった。
「あんたは知らんかもしれんけど、わたしはねえ、いつもここを利用しよるんよ。この間もクリーナー買ったし」
まるでぼくと初めて話すような言い方をする。
この間クリーナーを売ったのはぼくである。
「はい、いつもありがとうございます。冠二郎も買ってもらってますし」
とぼくが言うと、
「そうよ。冠二郎はねえ・・・」
いらんことを言ってしまった。
また延々と冠二郎話が始まった。
約10分、冠二郎は終わった。
レジに収納ケースを持って行くと、おばちゃんは「このケースを、カートに結び付けてくれ」と言う。
そしてまた、「わたしはねえ、遠くから歩いてきた」と言い出した。
ぼくはそれをさえぎるように、「はい、わかりました」と言い、ケースをカートに結び付けた。

それから『冠二郎おばちゃん』は、店に来るたびにぼくを探すようになった。
収納ケースを買うためである。
二つばかり買っては、「カートに結び付けてくれ」と言う。
ぼくはそのつどケースを結び付けてあげた。

今日の話である。
また『冠二郎おばちゃん』がやってきた。
いつものように収納ケースを買うためである。
ぼくを見つけると、「ああ、あんた探しよったんよ」と言う。
そこでぼくは「お待ちしてました」と言った。
「今日もねえ、ケースが欲しいんやけど」
「今日はいくつですか?」
「二つちょうだい」
ぼくはいつものようにケースをレジに持って行き、カートに結び付けた。
『冠二郎おばちゃん』は「いつも悪いねえ。うちの者が『家に車があるんやけ、それで運んだらいいやないか』と言うてくれるんやけど、いつも『あの店に行ったら、ケースをカートに結び付けてくれる人がいてねえ』と言って断るんよ」とのたまう。
『冠二郎おばちゃん』はどうやらぼくのことを、『ケースをカートに結び付けてくれる係の人』と思っているようである。

ぼくが初めて読んだマンガは、『鉄腕アトム』だった。
それが5歳の時だから、ぼくがマンガを読み始めてからもうすぐ40年になる。
思えば40年間、いろいろなマンガを読んできたものである。
印象に残っているマンガもあったし、どうでもいいマンガもあった。

ぼくが初めて定期購読した雑誌は「少年サンデー」である。
当時出ていた少年マンガの週刊誌は、「少年サンデー」「少年マガジン」「少年キング」の3誌だった。
少年ジャンプや少年チャンピオンの創刊はもう少し後のことだ。
小学2年の頃、『オバケのQ太郎』が読みたくてサンデーを買った。
それから、ぼくはサンデー派になった。
毎週近くの本屋のおじさんが届けてくれていた。
当時連載していたマンガは、『オバケのQ太郎』のほか、『おそ松くん』『伊賀の影丸』『ミラクルA』『サブマリン707』などだった。
そういえば、その頃のサンデーには連載小説も載っていた。
詳しい内容は覚えてないが、SF小説だったというのは覚えている。
原作者の姓が小松だったから、もしかしたら小松左京だったのかもしれない。
当時『スーパージェッター』というテレビマンガがあったが、その脚本家の中に筒井康隆や半村良などの名前があるくらいだから、この頃小松左京がサンデーに連載していても何の不思議もない。

さて、オバQ目当てで読み出したサンデーだったが、気がついてみたら『おそ松くん』のほうが好きになっていた。
ぼくのいたずら好きはこの頃から始まった。
もちろん『おそ松くん』の影響である。
「~じゃん」という関東のほうの方言があるが、それを知ったのは『おそ松くん』を読んでからである。
その当時はマンガの中での言い回しと思っており、まさか方言だとは思わなかった。
横須賀のおばちゃんが、この「~じゃん」をよく使っていた。
最初に聴いた時、ぼくは「この人も『おそ松くん』を読んでいたんだろうか?」と思った。
他の人も使っていたので、たまげてしまった。
それが方言と知ったのは、東京に出てからのことだった。

『おそ松くん』のギャグは、小学生のぼくにとって衝撃だった。
「こんな世界があるのか」と思ったものだった。
ぼくのお笑い好きも、この『おそ松くん』を読んだことに始まる。
『おそ松くん』は、当時の漫才や落語のネタの宝庫だった。
その影響で、ぼくはお笑い番組を見るようになったのである。

『おそ松くん』を読んで覚えたものに、浪曲がある。
まあ、覚えたと言っても、「たびゆけばー」というさわりだけであるが。
『おそ松くん』にはよく銭湯の場面が出てきたが、いつも湯船につかったおっさんが「たびゆけばー」とやっていた。
その影響からか、ぼくも風呂に入るたびにいつも「たびゆけばー」とやっていた。
そのせいで母親から叱られたことがある。
「そんなくだらんもん歌ってないで早く出なさい。宿題は終わったんね?」

さて、ぼくがサンデーを取っていたのは」、5年生くらいまでだった。
その頃には、もう『おそ松くん』も毎週連載しなくなったし、他に好きだった『パーマン』や『バンパイヤ』も終わってしまっていた。
おまけに、本屋も潰れてしまったので、「このへんでやめよう」と思ったわけである。
その後は、サンデー連載のマンガにあまり興味を持てなくなった。
『まことちゃん』や『うる星やつら』が話題になっても、読もうとは思わなかった。
ぼくにとっては、いつまでも『少年サンデー』=『おそ松くん』なのである。

毎月20日過ぎの最初の休みの日を、ぼくは銀行の日と決めている。
何度も言っているが、この日は黒崎に行って、いくつかの銀行に払い込みをする日なのである。
「こんなことなら、銀行を一本にまとめておけばよかった」といつも思っているのだが、今更どうすることもできない。

その休みの前日であった昨日は、久しぶりに完徹せずに早く寝た。
午後から雨脚が強くなると天気予報で言っていたので、今日はなるべく早い時間に銀行に行っておきたかったからだ。
朝も通常通りに目が覚め、外を見てみると、すでに雨脚は強くなっていた。
小降りになるまでパソコンでもやっていようかとも思ったが、日ごろ寝不足が続いているので、少し寝だめをしておこうと、もう一度布団の中に潜り込んだ。
が、眠れない。
少し眠っては、変な夢を見て目が覚めてしまうのだ。
「何なんだろう、あの夢は?」
何か妖怪のようなものに追いかけられている夢だった。

しかたなく、起き出してパソコンの前に座ったのはいいのだが、どうもやる気が起きない。
というよりも、やることがない。
そこで先日買った本を読むことにした。
しかし、すぐに飽きてしまう。
今日は何をやっても気分が乗らない。
テレビのスイッチを入れた。
相変わらず雨はやみそうにない。

そのまま無駄な時間が過ぎていった。
やっと雨が小降りになったのは、午後2時を過ぎた頃だった。
いったんは「さて準備しようか」という気になったが、「何をやっているんだろう?」と思いスカパーのスイッチを入れたのが間違いだった。
なんと『おれは男だ!』をやっていたのだ。
つい見入ってしまった。
ぼくはこういう古いドラマを見ると、すぐにその時代の情景を浮かべてしまう。
中学2年の時、ぼくはこのドラマに影響されて、一人で『女子としゃべらん同盟』を作り、「しゃべったら切腹します」と宣言していた。
結局しゃべらないわけもいかず、何度も切腹することになるのだ。
まあ、切腹といっても、腹にボールペンで線を引っ張るだけだったけど。

「あ、そんなこと考えている暇はない」と時計を見ると、もう3時を過ぎていた。
だんだん行きたくなくなってきた。
だいたい、雨の日の外出はあまり気乗りがしない。
傘をさして歩くことが性に合ってないのだ。
しかも午前中に行く計画をしていたので、ここまで時間がずれ込むと行きたくなくなるのも当然である。
「別に黒崎に行かんでも、ネットで振り込みできるやん」と考えた。
「じゃあ、もう一眠りするか」と布団にもぐってみた。
だけど落ち着かない。
「しかし、クエスト(3月6日にオープンした大型のブックセンター)には、まだ行ってないし・・・」
散々考えたあげく、やっぱり行くことにした。

車で行くことを考えたが、雨の日は渋滞に巻き込まれないとも限らない。
で、4時ちょうどのJRに乗りこみ、黒崎に向かった。
1分半後黒崎に着き、すぐさま銀行に行った。
銀行を4軒ハシゴしてから、お目当ての「クエスト」に行った。
たしかに、九州で3番目に大きな本屋というだけあって広かった。
本の数も多く、通路もかなり広くとってある。
これなら『道の達人』に邪魔されることはない。

今日買った本は5冊。
そのうち3冊はコミックであった。
ここ数年コミックの売り場を覗いてなかったので、今日ちょっと覗いてみることにした。
「おお、出てる、出てる」
文庫版の『ブラックジャック』15巻・16巻が出ていたのだ。
おまけに『西岸良平名作集』の4巻も出ている。
さっそくこの3冊を購入した。
西岸さんのは、すでに5巻も出ているようだったが、今日は切れていた。
「次の機会に買うことにしよう」と思い、他の階に行った。
あとの2冊はお決まりの歴史本である。

しかし、本屋はしょせん本屋である。
置いている本もだいたい決まっている。
特に何をやっているわけでもない。
時間も5時を過ぎたし、いつ雨が降り出すやも知れぬ。
買うだけ買って、ぼくは長居せず、その店をあとにした。
もっと時間があれば、新しい発見があったのかもしれない。
その発見探しは、次回に譲ることにしよう。

とにかく、今日は気分の乗らない一日であった。
今、この時間もその状態が続いている。

ぼくが『道の達人』と呼んでいる人たちがいる。
例えば歩道で、例えば店の通路で、その人たちは活躍している。
何の達人か?
彼らは、後ろを歩いている人から抜かされない達人なのだ。
別に早歩きをしているわけではない。
どちらといえば、ゆっくりと歩いている。
達人を抜くスペースは十分にある。
だけど、後ろの人は抜けないでいる。

達人は、後ろの人が急いでいる時に、その技を披露する。
こちらが右に行こうと思った時は微妙に右に寄り、左に行こうと思った時は微妙に左に寄る。
曲がるかと思ったら立ち止まり、立ち止まるかと思えば歩き出す。
その動きは変幻自在で、実に絶妙なタイミングで後続を翻弄する。
最終的にはこちらが大回りして抜くことになるのだが、その間のこちらの精神的疲労は、かなり大きなものがある。
つまり、試合に勝つことは勝ったが、勝負に負けたと言うことである。

さて、一方の達人のほうは、そういうことをまったく意識してないのか、抜かれても平然としている。
第一、こちらが達人の後ろを歩いていることさえ気づいてないようである。
しかし騙されてはいけない。
彼らの研ぎ澄まされた感覚は、こちらの動きを完全に把握している。
しかも、心の中まで見透かしているのである。

ところで、『道の達人』とは、どんな人たちなんだろうか?
仙人のような人たちなんだろうか?
それとも修行者のような人たちなんだろうか?
はたまた武術家のような人たちなんだろうか?
違うのだ。
『道の達人』は普通の人なのだ。
ちょっと見ただけではわからない。
普通のじいさん・ばあさんであり、普通の主婦であり、普通の子供であるのだ。
「え、子供までも?」と思うかもしれないが、人間は元々この能力を持っているのである。
しかし、成長するにつれて、この能力は失われていく。

では、普通のじいさん・ばあさんや普通の主婦たちは、どこでこの修行を積んだのであろうか?
また、その修行法とはどんなものだったのであろうか?
まず、この修行はどこででもできるものである。
特に人通りの多い商店街やデパートやスーパーの中など、なるべく人の多く集まるところがよい。
バーゲンなどで鍛えていくのである。
次に修行法だが、特別な修行法があるのではない。
自我というものを助長すればよいのである。
つまり、我ままであれと言うことだ。
世間に対して、唯我独尊を貫くことである。

それにしても、『道の達人』は言い過ぎたなあ。
そんな立派なものではない。
『歩道の達人』とか『通路の達人』にしておこう。
しかし、どうでもいいけど、人の多く集まる場所ではさっさと歩いてくれよ。

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