吹く風ねっと

一生は未来の記憶を散りばめた一本の道。人生は未来の記憶をひろいながら歩く旅。

2002年01月

ぼくはそれまで、「ジャンジャカ、ジャカ、ジャカ」とピックを使ってストロークばかりやっていた。
しかし、ギターの醍醐味はやはり指で奏でることだろう。
そう思って、ギターを始めた当初から無視してきた教則本にお世話になることにした。
楽器屋に行って、フィンガー・ピッキング奏法中心の教則本を買い、早速挑戦した。
まず、アルペジオから始めた。
案の定、うまくいかない。
音符通りに指が動かない。
一音一音のバランスが取れない。
指に力が入らない。
毎日毎日指を動かす練習をした。
指に重りをつけてもみた。
授業中、入浴中、トイレの中でも指を動かし続けた。
それでもうまくいかない。
「もういい。おれはピック一本でいく」と何度思っただろう。
10日ほどして、何とか指が動くようになった。
教則本に載っていたアルペジオの課題曲は3曲だった。
一応、教則本のアルペジオは出来るようになった。
試しに拓郎の「雨」などをコピーしてみた。
ぎこちないものの、何とかうまくいった。

次に厄介なものが待っていた。
スリーフィンガー奏法である。
リズムの取り方が全然わからない。
しかも課題曲は知らない曲ばかりだ。
当時の教則本というのは、テープやソノシートなどが付いた本などは、ほとんどなかった。
「こればかりは独学ではどうにもならんのか。といって、人から教わるのは好かんし。どうしよう?」
しかし、その頃のぼくには情熱があった。
読めない楽譜を自分なりに読んで、何とかスリーフィンガーのリズムをつかんだ。
「ベースランニング」や「ハンマーリング・オン」「チョーキング」といった高等テクニックは出来なかったが、何とかスリーフィンガーの形にはなった。

さて、スリーフィンガーが出来るようになった頃、一つの事件がおきた。
それは、体育の授業中のことである。
バスケットの試合をやっていた時、相手のボールを捕ろうとして、右手の小指をボールに引っ掛けてしまったのだ。
かなり痛かった。
が、ただの突き指だろうと湿布をしておいた。
もちろん、ギターの練習もした。
翌日、朝起きてから異変に気が付いた。
その指が脹れあがり赤黒くなっているのだ。
小指を曲げると、何か「ギーギー」といっているような感じがする。
「折れたか!」
その時ぼくはすぐに決断した。
「病院には行かん」
元来の病院嫌いである。
骨が折れたのは、生まれて初めてのことだったが、病院に行くとギプスをされる。
そうなるとギターが弾けなくなる。
ということが、すばやく頭の中を駆け巡ったのである。
自分の体のことよりギターを選んだぼくは、その後何十年も右手の小指の痛みと闘わなければならなくなる。

一方、ギターのほうは順調に上達していった。
スリーフィンガーもある程度はマスターした。
しかし、何かが足りない。
テレビで弾き語りをしているのを見ると、左の指がひんぱんに動いているのだ。
それに比べ、ぼくはコード固定で弾いていたため、演奏が一本調子になり面白くない。
ほかの教則本などを見ても、左指の動きなどは書いていない。
「これは何で勉強したらいいんだろう」と思っていた。
いろいろ本などで調べていると、ある広告が目に付いた。
「エレックレコード/はがとまるニューフォークギター教室」という通信講座の広告だった。
「エレックレコードなら間違いないやろう」と資料を取り寄せた。
半年間の講座で、値段もそう高いものではなかった。
さっそくぼくは入会した。

高校一年の5月、ラジオでよしだたくろうの新しいアルバムの特集をやっていた。
「伽草子」である。
何曲か流していたが、その中の一曲にすごい衝撃を受けた。
何か頭をガツンと殴られたような感じがした。
その一曲とは、「制服」という曲だ。
このアルバム中唯一の、ギター一本弾き語りである。
ぼくはそれまでにも拓郎の歌を聞くことはあったが、その他の流行歌のようにただ聞き流すだけだった。
「今日までそして明日から」を聴いても、「ああ、これがフォークソングというんだな」と思う程度だった。
しかしこの歌は違った。
歌詞は単純なのだが、熱く迫ってくるような「語り」であった。
ぼくは、こんな歌を聞いたのは初めてだった。
さらにすごかったのがギターであった。
簡単なフラットピッキング奏法なのだが、ベース音を効果的に使い、説得力がある。
もちろん、こんな演奏を聴くのも初めてであった。
火がついた。
こんなの聴かされたら、一刻も早くギターが欲しくなるものである。
ぼくの「ギター欲しい」は、「ギターを弾きたい」という漠然とした理由から、「オリジナルを作って弾き語りをしたい」という具体的な目標へと変わった。

ぼくがギターを手に入れたのは、それから半年後、11月のことであった。
たしか堀田というメーカーのギターだったと思う。
親戚からもらったものだった。
手に入れた翌日、ぼくは楽器屋に行って、ピック・ピッチパイプ・カポタスト、それと拓郎の楽譜本を買った。
最初から教則本無視である。
楽譜本にはダイアグラムとストロークの仕方が付いていたので、そのとおりに弦を押さえて弾けばいいと思ったのである。
まず、簡単そうな曲を選び、一つ一つコードを覚えていった。
すばやくコード進行が出来るように、繰り返し繰り返し練習した。
最初は一曲あたり、1週間を要した。
だんだん、その間隔も狭くなっていったが、ここでひとつの難関にぶち当たった。
コード「F」である。
いわゆるバレーコードである。
人差し指で、6弦全部を押さえなければならない。
これが出来んのです。
その当時は、ギターがそううまくない奴でも、Fを弾けると聴いただけで「こいつ天才やのう」と感動していた。
そのくらいFは初心者には難しい。
「Fが押さえられなかったから、ギターを断念した」という話を、嫌になるほど聞かされたものである。
とにかく、ギターに対する情熱だけはあったから、「ここで負けるわけはいかん」と、ぼくにしては珍しく根性を見せた。

1ヶ月かかったが、何とか音は出るようになった。
さて、次はリズムである。
むちゃくちゃだった。
何とか弾けるようになった曲を、レコードに合わせて弾くと、だんだん音がずれてくる。
一曲終わった頃に、まだ何小節か残っている状態である。
音にの抑揚がなく、ただ弾いているだけであった。
しかし、ここでもぼくは根性を見せた。
ちゃんとリズムが合うまで、何日間もかかって練習したのである。
当時ギターの練習時間は、毎日4時間を超えていた。
指が切れるまでは行かなかったが、左指の先は弦の錆などで変色してしまっていた。
とにかく、後にも先にも、逃げないで一つのことをやったのは、このギターの練習だけである。
一曲出来たら次の曲、というふうに飽きずに地味な作業をやったものである。
主だった曲を一通り出来るようになったのは、ギターを始めてから3ヶ月くらい経ってからだった。
その後に、もう一つの難関が待っていた。

先日裁判所から、「破産者(K楽器)に対する破産事件について、破産管財人から配当するための財源がないため破産手続きを終了する旨の申し立てがありました。・・・」という通知が来た。
つまりぼくが販売を委託していたギターの代金が、入ってこないということになったわけだ。
「12万円で売れました!」とぬか喜びさせやがって。(7月2日の日記参照)
まあ、今回のことは倒産した時点からわかっていたことであるから、そんなにショックは大きくなかったのだが、ただ非常に頭にきたのは確かだった。

さて、もう戻ってこないギターであるが、これは過去から換算して9台目のギターだった。
メーカーはマーチンで、同一メーカーとしては2台目のものだった。
ちなみに、「歌のおにいさん」に収録している歌の演奏は、ほとんどこのギターで弾いている。

ぼくがギターを弾き始めたのは、高校1年の時である。
中学の頃からギターが欲しくて、あの「TVジョッキー」に出ようかと考えたこともある。
きっかけは中学2年の時、文化祭で3年生が岡林信康の歌を弾き語りで歌ったのを聴いたことだった。
それまではギターは難しいものだと思っていたのだが、コードを押さえてストロークするだけの簡単な弾き方もあると知って、俄然ギターに対する情熱が芽生えた。
まあ、最初は漠然と「ギター欲しいのう」と思うだけだったのだが、中学3年の時に友人が学校にギターを持ってきたのを触らせてもらってから、「ギター欲しい」は本物になった。
その友人は何度か学校にギターを持ってきて、ぼくにコードや弾き方を教えてくれた。
しかし、たまにしか持ってこないギターで、コードや弾き方を習ったってすぐに忘れてしまう。
友人が「この間教えたやないか。お前はCのコードひとつ覚えきらんとか!」と言うので、ムッとしたぼくは「じゃあ、覚えてやるけ毎日ギターをもってこい」と言った。
友人は相変わらず、たまにしか持ってこなかった。
ということなので、ぼくも中学を卒業するまでCのコードを覚えきらなかった。

ぼくの通った中学は、それほどギターが盛んではなかった。
そのためレベルも低かった。
他のクラスに、学校中の誰もが認める「フォークギター上手」がいた。
一度弾いているところを聴いたことがあるが、ちゃんとギターを弾いて歌を歌っているのだ。
誰もが「うまい」「さすがやねえ」などと言っている。
ぼくもそれを見て「凄い!」と思っていた。
しかし、それは「凄い!」ことでもなんでもなかった。
彼は、簡単なストローク奏法をしていただけにすぎず、技術的には大したものではなかった。
つまり、彼は「フォークギター上手」ではなかったのだ。
みんな自分がギターを弾けないから、彼を「フォークギター上手」と思っただけにすぎない。
そのことをぼくは、高校に入ってから知ることになる。

高校に入ってから一番衝撃を受けたのは、ギターを弾く人間があまりにも多かったことである。
しかもレベルがかなり高い。
難易度の高かった拓郎の「花嫁になる君に」や「旅の宿」を、いとも簡単に弾く人が何人もいる。
ぼくは、ああいう難しい曲は、レコードの世界の人しか弾けないものだとばかり思っていた。
しかし、それはぼくの認識不足だった。
「お前、それ誰に教えてもらったんか?」と聞くと、「誰にも教えてもらってない。レコードからコピーしただけ」と言う。
「コピ-? コピーちゃなんか?」
「レコードから音を拾うこと」
「え?レコード聴いて覚えたんか?」
「そう」
世界が違う。
「もし『フォークギター上手』がここにいたら、赤恥もんやのう」
と、ぼくはその時思っていた。

毎年この時期になると、学芸会のことを思い出す。
現在こちらの学校では学芸会を2学期にやっているが、ぼくたちの時代は、運動会は2学期、学芸会は3学期と相場が決まっていた。
講堂に漂うナフタリンの匂いが、今でも懐かしい。

ぼくは小学校の学芸会で、六回のうち四回、器楽合奏に参加した。
担当はハーモニカである。
ぼくはおじの影響で、物心ついた時にはすでにハーモニカを吹いていた。
当時流行っていたカントリー&ウェスタンを、よく吹いていたそうだ。
そのおかげで、保育園や小学校の時、ハーモニカだけは誰にも負けなかった、と思う。
小学生の頃の音楽の成績はいつも4であった。
歌は真面目に歌わなかったし、他の教材であるたて笛がそれほど得意ではなかったので、おそらくハーモニカの腕が評価されての成績だったのだろう。

さて、学芸会においてハーモニカというのは、ピアノや大太鼓・小太鼓などに比べると目立たない存在である。
しかしぼくは、たて笛よりはいいと思っていた。
その時の写真が残っているが、たて笛を吹いている奴は、表情が実に暗い。
顔を下に向け、唇をとがらせて笛をくわえ、上目づかいで指揮者を見ているのだ。
それに比べると、ハーモニカを吹いているぼくたちは、ひじを張って明るい表情をしている。
たて笛が得意じゃなくて本当によかった、と今でも思っている。

ところで、残りの二回の学芸会では何をやったのかというと、合唱と劇である。
合唱は二年の時、劇は四年の時だった。
合唱をやったのには理由がある。
実は、最初ぼくは「踊り」に回されていたのだ。
初めての練習の時、先生がどんな踊りをやるかの説明をした。
それは、創作ダンスのようなものだった。
説明が終わり、先生が「じゃあ、基本の練習をしましょう」と言った。
基本の練習とは、なんと「スキップ」なのである。
その日の練習時間は一時間であった。
ぼくたちは一時間、バカみたいに笑顔でスキップをやらされていた。
「こんな女々しいこと誰がするか!」と思い、ぼくは練習が終わってから先生にかけあった。
ぼくが「踊りは嫌ですから、代えて下さい」と言うと、先生は「踊りのどこが嫌なんね。楽しいやろう」と言った。
ぼくがしつこく「代えてくれ」と言ったので、先生もあきらめたのか「じゃあ、何がしたいんね?」と聴いてきた。
「ハーモニカがしたいです」
「器楽はいっぱいやけ、だめ」
「じゃあ、歌でいいです」
ということで、合唱に変えてもらった。
このことがあったからだと思うが、なぜかぼくは踊りが嫌いになった。
後年、ディスコに行っても、飲むだけで踊らなかったのは、この一時間のスキップが影響している、と思っている。

もう一方の劇のほうは、自分から志願したのである。
三年の時、ぼくは同学年の劇を見て「劇のほうが目立つやん」と思っていた。
四年の学芸会の種目分けの時、先生が「劇に出たい人」と言ったので、ぼくはすかさず手を上げた。
難なく劇に決まった。
その年の四年生の劇は「彦市とんち話」であった。
練習初日に、オーディションのようなものがあった。
これで役を決めるのだ。
が、役は最初から決まっていたのだと思う。
いい役に選ばれたメンバーを見てみると、PTAの役員の子供か成績の良い生徒ばかりだったのだ。
子供心に嫌な気がしたものだ。
ぼくに与えられた役は、「その他のたぬき」だった。
セリフも、たぬき全員で「彦市どーん」と言うだけだった。
これを言うだけのために、何日も練習したわけである。

さすがに5年生からは本業(?)に戻った。
ハーモニカ担当は10人ほどいたのだが、ソロパートを吹く3人の中に選ばれた。
やはり自分に自信があったからだと思うが、緊張もしなかった。
たぬきの時は「彦市どーん」一つに、なぜか緊張したものだった。
もしかしたら、今でも人前で「彦市どーん」とは言えないかもしれない。
今度試しに、店に来たお客さんの前で言ってみようか。
しかし、その時は違った意味で緊張するだろうなあ。

昨日だったか、NSPが再結成するというのをラジオで聴いた。
ぼくは別に彼らを好きではなかったので、どんな歌を歌っていたのかは知らないが、ギターで「夕暮れ時はさびしそう」や「さよなら」の練習をしたおかげで、この二つの歌は知っている。
ラジオからは「夕暮れ時はさびしそう」が流れていた。
そういえば、「さよなら」はどんな歌だったろう。
いろいろ思い出してみたが、どうも出てこない。
「さよなら、さよなら」と口の中で繰り返しているうちに、オフコースの歌が出てきたり、拓郎の歌が出てきたりした。
「どんな歌だったろう?」となおも考えていると、ふと頭の中が真っ白になった。
そして次に口の中から出てきた歌は、なんと「さよなら三角」だった。

「さよなら三角、また来て四角、四角は豆腐、豆腐は白い、白いはうさぎ、うさぎは跳ねる、跳ねるは蛙、蛙は青い、青い葉きゅうり、きゅうりは長い、長い葉エントツ、エントツは暗い、暗いは幽霊、幽霊は消える、消えるは電気、電気は光る、光るは親父のハゲ頭」
小学生の頃、こんな歌をよく歌ったものだった。
そういえば、こんなのもあった。
「そうだ、そうだ、ソーダー会社のソウダさんが死んだそうだ。葬式饅頭、おいしそうだ」
いったい何なんだろう、この歌は?
ただごろがいいだけで、何の意味もない。
しかし、小学生の頃は必死に覚え歌っていた。
ああ、こういうのもある。
「一つ二つはいいけれど、三つ三日月ハゲがある。四つ横ちょにハゲがある。五ついくつもハゲがある。六つ向こうにハゲがある。七つ斜めにハゲがある。
八つやっぱりハゲがある。九つここにもハゲがある。十でとうとうハゲちゃった」
数え歌の一種か。
似た歌で、
「いーち芋屋の兄ちゃんと、にー肉屋の姉ちゃんが、さーんさるまた脱ぎ合って、しーしっかり抱き・・・・」
あっ、これは放送禁止歌だった。

歌詞のほうはいろんな地方や地区によって違うだろうが、曲はだいたいいっしょだと思う。
いったいこういうのは誰が作るんだろう?
また誰が教えるんだろう?
別にテレビやラジオでやっていたわけでもなかった。
気がついたら小学校で流行っていたのだ。
まさか「カバゴン」こと阿部進先生が教えたわけではないだろう。

しかし、これを歌と呼んでいいものかどうか。
まあ、確かに童謡や唱歌ではない。
ということは「カゴメカゴメ」のような、わらべ歌に属するものだろうか?
わらべ歌には、「あんたがたどこさ」とか、「とうりゃんせ」とか、「花いちもんめ」などの遊び歌も含まれるのだから。
他に「大波小波、高山越えて、低山越えて、谷川渡って、ワンツースリー」とか、「郵便屋さん、郵便屋さん、はがきが一枚落ちました。拾ってあげましょ、いーち、にー、さーん、しー、お変わりさん」などという、縄跳びでうたっていた歌もそう呼んでいいと思う。

ちなみに、「郵便屋さん」とは時代を先取りした言葉だと思う。
郵便屋と言うくらいだから、公務員ではない。
民営化を読んでいたのだろうか?
「カゴメカゴメ」もよく予言の歌と言われているし、わらべ歌には何かそういう不思議な力があるのかもしれない。
と言うことは、「いーち芋屋の兄ちゃんと・・・」にも、何か暗示が隠されているのかもしれない。
ああ、この歌全部書きたい!

こちらのサティは、今頃8割引セールをやっている。
おかげで今日、うちの店は暇だった。
店長いわく、「潰れた会社が、市場を荒らすようなことをするな!!」
たしかにその通りである。
潰れた会社は、細々とやっていってもらいたいものである。
そうしないと、こちらの身が危なくなってくる。

そういえば、ぼくが前に勤めていた会社の同僚の中に、サティに行った人間が何人かいる。
聞くところによると、そのほとんどが人員整理にあったそうである。
その中の何人かは、まだ再就職先が決まってないということだ。
現在北九州では、企業の求人募集がかなり減っている。
販売業などは、ほとんどないと言っていいだろう。
そのため、職種を限定したり、選り好みをしたりすると、仕事は見つからない。
どういうわけか、彼らは以前勤めていた会社 ―ぼくもいた会社― に、職を求めているというのだ。
それなら、何で辞めたんだ!?
一度辞めた会社に復帰した場合、よほどの功績を立てない限り、評価はもらえない。
後足で砂をかけるような真似をした人間に、当然企業はいい顔をするはずがない。
何かあれば、またリストラの対象にされるのがオチだ。

それを考えると、彼らとほぼ同時期に前の会社を辞めたぼくは、いい企業を選択したと思う。
と言っても、今のところは、であるが。
しかし、ぼくも今年からリストラ対象の歳になるのだ。
決して楽観してはいられない。
何か手を打っておかなければ。
人に使われるのはもう真っ平だから、何か個人でやって行きたいと思ってはいるのだが、悲しいかな、ぼくにはその下地がない。
新たに何かを始める根性もない。
かといって、またサラリーマンというのも芸がないし。
このジレンマに、たまに悩んでいる、今日この頃である。

しかし、実際そうなったらどうしようか?
とりあえず、何かを始めないと、当面の生活に困る。
個人でやるとしたら、いわゆるフリーターにはなりたくない。
現段階で確実にできることと言えば、朝は宛名書き、昼はコイル巻き、夜はストリートミュージシャン、夜中はチラシ配り、という道しかない。
いったい、これでいくらになるんだろうか?
おそらく、今よりはずっと収入が減るだろう。
もう少し実入りを増やすとしたら、あれしかない。
ホームページにバナー広告を入れて、訪れた人にクリックしてもらう。
しかし、「頑張る40代!」は神聖な領域であるから、ここでそれをやることは出来ない。
別に「裏しんた 頑張れ40代!」という、スケベな出会い系サイトを作ってみるか。
そしたら、それ系の人がやってきてクリックしてくれるだろう。
ぼくは面倒なのが嫌いだから、きっとやらないだろうが。

いっそ、姓名判断でもやるか。
神棚作って、白装束に身を固め、髪を伸ばし、ひげをたくわえ、線香を焚き、いかにもそれらしく振舞う。
肩書きを「白毛流日庵派姓名術 四十代宗家」と、いかにもそれらしくしておく。
来る人来る人に、「あなたは、今までは苦労の連続だったけど、これからは幸運が舞い込んでくるでしょう」と占ってやれば、誰も悪い気がしないから、「あそこは当たる!」と評判になるだろう。
年寄りを騙しさえしなければ、警察に捕まることもない。
「しろげ先生」と呼ばれるし、こちらも悪い気はしない。
これなら今以上の収入を得られること請け合いだ。
もしかしたら、一財産稼げるかもしれん。
そうなると、税金対策が必要になる。
専属の税理士を雇うか。

昨日の日記を書き終えたのが、今日の午前7時過ぎ、その後レスなどをやって、寝たのは8時を過ぎていた。
午後2時に起きようと思っていたのだが、目が覚めたのは午前11時だった。
窓から日が差し込むと、習性なのか、すぐ目が覚めてしまう。
きっと人間という動物は、日が昇ってからは熟睡できないように出来ているんだろう。

さて、今日は相変わらず寒かったものの、久々に青空が広がっていた。
目が覚めてから、すぐに身支度をして、灯油を買いに行った。
年末に買った灯油6缶が、ついに底をついたのである。
先日友人から「あの店、年明けてから、灯油の値段が上がとったよ」と聞いていたので、後日値段が下がることもあると思い、今回は3缶だけ買うことにした。
ところが店に行ってみると、値段は前回と同じ1缶(18リットル)498円であった。
これなら6缶にしておいたほうがよかったかも。
後日値段が上がることもあるかもしれないし。

灯油を買って帰り、昼食を取ったあと、給料日後恒例になっている黒崎の銀行回りに行った。
「しんたは、いつも『銀行に行った』と日記に書いているが、いったい何をしに行くんだろう?」と思う方もおられるだろう。
ストッキングを頭からかぶり、モデルガンを片手に銀行に行く、わけではないのでご安心を。
実は、預金通帳を片手に、各支払いの振り分けをしに行くのだ。
光熱費の支払いやクレジットの返済といった主だったものは、メインバンクでの引き落としにしているので、面倒なことはないのだが、ごく一部の支払いを他の銀行でやっているために、毎月の行事になってしまったのだ。
まあ、インターネットバンキングをやっているので、わざわざ銀行に足を運ぶ必要はないのであるが、銀行回りの後のお楽しみがあるので、これだけはやめるわけはいかない。

いつものようにJRで黒崎まで行き、銀行4行を回り、その後のお楽しみである井筒屋ブックセンターに行った。
普通の本屋なら会社帰りにでも行けるのであるが、ブックセンターはデパートの一部であるから、午後8時までしか開いていない。
とにかくここは、近郊の他の本屋と比べると取り扱いの本の量がかなり多い。
専門書や各社の文庫本を扱っているというのも魅力の一つである。
つまり、変な本ばかり探しているぼくにとって、うってつけの店なのである。

ぼくと本屋との付き合いは長い。
小学生の頃から、街に出ると、おもちゃ屋などにはわき目も振らず、本屋ばかりに行っていた。
古本屋、貸本屋など、本屋と名がつくところならどこにでも行った。
一度「○○本店」という看板の店に入って、恥をかいたこともある。
この本屋好きの性格はその後も変わらず、東京に出た時、下宿を決める第一条件に「本屋の近く」をあげたほどである。
その時は、不動産屋が紹介してくれた、高田馬場のけっこう大きな本屋の近くに決めた。
就職を街中に選んだのも、本屋が近いからである。
もちろん、今の職場の近くにも本屋がある。

ぼくが今気に入っている本は、専門書ではない。
小学館文庫である。
他の文庫と違い、内容が自分に合っているからだ。
ぼくは小説は読まないので、小説系の文庫は最初から敬遠している。
まず、店に入ると、小学館文庫のところに行く。
その後、歴史書やパソコン関係の本が置いてある2Fに行く。
だいたいこのパターンである。
しかし今日は、探している本があったので、まず3Fに行った。
3Fはコミックの売場である。
探している本というのは、チャンピオンコミックの「熱笑!!花沢高校」である。
が、古いせいかなかった。
ということは、近々福岡の「紀伊国屋」に行くことになるだろう。

しかたなく1Fの小学館文庫のある場所に行った。
一応小学館文庫を一通り見て、それから2Fに行った。
歴史書である。
これといったものがない。
しかし、数ヶ月前はあれだけ「歴史教科書」で盛り上がったコーナーが、今は鳴りを潜めている。
相変わらず「新しい歴史教科書」は小積んであったが、それに関する批判本はほとんどなかった。
やはり、ただの便乗本だったわけか。
「ああいう揚げ足取りの本を誰が買うのだろうか?」と思ってはいた。
たしかに、教科書採択に間に合わせただけの安易な本であった。
何か報告書のような薄っぺらい本で、紙も粗悪なものだった。
書いている人は左翼系の人だから、イデオロギー本であることは間違いないだろう。
しかし、時期を限定したのであるなら、国民に訴えるというのがある反面、金儲けに走ったとも考えられる。
何せ、「新しい歴史教科書」は60万部のベストセラーだったわけだから。
根性の腐った奴らだ。
そういうことを踏まえて、今日は小学館文庫の“迫りくる「全体主義」の跫音”(西尾幹二著)を買うことにした。
教科書採択の時のことがいろいろ書かれている。

さて、今日は2冊買おうと思っていたので、あと1冊を探した。
こういうとき、なかなか決まらんのですよね。
小学館文庫でほしい本は他になかった。
文庫のところをぐるっと回ってみると、「おっ!」と思う文庫があった。
気がつかなかった。あの学研が文庫を出していたのだ。
しかも「ムー」とは関係のない本ばかりである。
文庫創刊のご祝儀買いというわけではないが、ここから残りの1冊を選んだ。
「徒然草・方丈記」である。
学研文庫の古典は特長がある。
普通古典は、原文→読み下し文→語訳→訳→解説というふうになっている。
これが非常に読みにくい。
だいたい文庫本はテキストや参考書ではないので、訳のみで充分である。
例えば、フランス文学に、こういう原文から解説までの順序を踏んでいる本があるだろうか?
たしかに言い回しはいいかもしれないが、これでは意味が伝わらないし、読んで面白くない。
日本や中国の古典を訳している人のほとんどは学者なのである。
いくら権威とはいえ、こういう世俗を超越した人たちの文章を、誰が喜んでみるだろうか。
しかし、この学研文庫の古典は、そういういらんものがいっさい付いてない。
普通の読み物になっている。
そこが気に入ったのである。
今日見たところでは、学研文庫の古典はまだ5冊しか出てないようである。
これからが楽しみである。

おお、長くなりましたなあ。
本のことを語り出すときりがない。

おお、4時過ぎている。
寝てましたな。
パソコンの前に座る気力もなかった。
明日は休みだし、ちょっとだけ寝てから日記を書こうと、横になっていた。
2時には起きようと思っていたのだが、寝過ごしてしまったか。

寝過ごしたといえば、前の会社にいた時、電車で寝過ごしてとんでもないところに行ったことがある。
ぼくは電車に乗ると寝る癖がある。
いつもは目的駅の手前で目が覚めるのだが、その時はよほど疲れていたのだろう。
その日、最終の「南福岡行」に乗って帰った。
いつものように寝入ってしまい、いつものように黒崎駅のひとつ手前の八幡駅で目が覚めた。
「お、八幡か。もう着くな」と思っていた。
普段ならここで降りる準備をするのだが、その日はなぜかもう一度目を閉じた
のだ。
これが命取りだった。
次に目を開けた時、「あかま(赤間)」という声が聞こえた。
「お、いかん。寝過ごした」と、慌てて電車を降りた。
赤間というのは黒崎から数えて6つ目の駅で、車で行けば家から2,30分の場所である。
「ここからタクシーで帰るか」と思いながら、改札口に向かって歩いていると、どうも勝手が違うのだ。
ホームの感じが違うし、階段もなんとなく新しく感じた。
「改築でもしたんかなあ」と何気なく駅名を見てみると、「ささばる(笹原)」と書いてあった。
「え、笹原?」、聞いたことのない名前である。
「たしか『赤間』と言ったよなあ。駅名を変えたのか」などと思いながら、改札口にさしかかった。
「清算せないけんなあ」とポケットを探っていると、なんとそこは無人駅だった。
「ラッキー」と思いそのまま出た。(JRの方、すいません。でも、もう時効です。悪しからず)

駅舎を見てみると、たしかに「笹原駅」と書いてある。
周囲の風景から見ると、赤間ではないようだ。
「ここはどこなんだろう?『南福岡行』なんだから、遠くても福岡市内だとは思うが」と思いながら通りに出た。
道路の向こうに線路が見えた。
「西鉄か?ということは、福岡市内か」
通りを歩いていると、「西鉄井尻駅」の看板が見えた。
「井尻かあ。南区(福岡市)やないか」
ここいてもどうしようもない。
「とりあえず博多駅まで行こう」とタクシーをつかまえた。
タクシーの運転手さんに、電車を乗り過ごしたことなどを話し、「いいホテルはないですか」と尋ねた。
運転手さんは「ホテルに泊まるくらいなら、このまま北九州まで帰ったほうがいいですよ。値段はそう変わらんでしょうから」と言った。
それもそうだと思ったぼくは、「今1万円しか持ってないけど、それで行ってくれるか」と聞いた。
運転手さんはOKしてくれた。
しかも、その運転手さんはいい人で、「早く帰りたいでしょうから」と高速を使ってくれた。
当時、普通の道を走っても1万2,3千円はかかっただろう。
道々運転手さんといろんなことを話しながら帰ったが、その話の中で、笹原駅のことも出た。
実はその駅は2日前に開業したとのことだった。
ぼくが知らなくても当然だった。

そんなことがあってから、1週間ほどしてのこと。
また、乗り過ごしてしまった。
まあ、その時は筑豊線だったから、隣の直方までですんだのだが、後が大変だった。
ぼくが酔っていたのと、タクシーの運転手の早とちりが災いして、全然別の場所に連れて行かれたのだ。
ぼくは「ヤハタのHに行ってくれ」と言い、そのまま寝てしまった。
何十分走ったのだろうか、運転手が「お客さん、着きましたよ。この辺でしょう?」と言った。
しかし風景が違う。
ぼくの住んでいるところは、ネオンや街灯などでかなり明るいのだが、着いた場所は明かりが一つもない田舎だった。
「え?ここ違う」
「ミヤタのHと言われたでしょ?」
「ちゃんと、ヤハタと言いました」
「たしかに、ミヤタと聞いたんですけど」
どうやらぼくが連れて来られたのは、鞍手郡宮田町らしかった。
結局余計な金と時間を費やしてしまった。

後日、その一連の話を得意がって友人にした。
ところが上には上がいるものである。
その友人の勤めている会社の人にもそういう人がいるということだった。
しかし、その人はぼくとはスケールが違っていた。
小倉から博多まで特急を使って帰る途中寝過ごしてしまい、着いた所がなんと鹿児島だったというのだ。
いくら特急とはいえ、普通なら熊本あたりで気がつくだろう。
おそらくその人も疲れていたんだろう。
「翌日は仕事だっただろうに、遅刻せずにすんだのだろうか?」といらん心配をしたものだった。

しかし、電車の中で寝るのはホント気持ちがいい。
あの電車の揺れが眠気を誘うんだろう。
そのままずっと眠っていたいものである。
そういう眠るだけの旅も、面白いかもしれない。
JRは『日本全国を眠る旅』というのを企画したらいいのに。

最近スカパーで、「おひかえあそばせ」という古いドラマを見ている。
昭和46年の作品で、石立鉄男、大坂志郎、富士真奈美、宮本信子、岡田可愛などが出演している。
昭和46年というと、ぼくは14歳、中学2年の頃である。
テーマ曲はなんとなく覚えがあるが、当時この番組を見ていたという記憶がない。
調べてみると、このドラマが一連の石立鉄男シリーズの第一弾である。
このドラマの次が「気になる嫁さん(S46)」、その後「パパと呼ばないで(S47)」「雑居時代(S48)」「水もれ甲介(S49)」「気まぐれ天使(S51)」「気まぐれ本格派(S52)」と続いていく。
最後の「気まぐれ本格派」は、ぼくが20歳の時である。
14歳から20歳、まさにぼくの青春時代である。

以前日記にも書いたが、ぼくは石立鉄男ファンである。
実は、石立ファンになったのは、「気になる嫁さん」を見だしてからのことである。
上記の通り、この「おひかえあそばせ」はよく覚えてない。
それ以前に出演していた「おくさまは18歳」は、富士真奈美や寺尾聡の印象が強すぎたせいで、石立鉄男の印象はあまり残ってない。
二枚目をやっていたせいもあるだろう。
やはり、石立鉄男は二枚目半か三枚目くらいがよく似合っている。
「気になる嫁さん」の後の、「パパと呼ばないで」で完全にハマってしまった。
さらに「雑居時代」でそれは憧れに変わった。
このドラマを見ていた人は、いつ十一(石立)が、ケンカ相手の夏代(大原麗子)と結ばれるかが最大の関心事だったに違いない。
それほど、二人の恋に落ちる過程が、面白く描かれていた。
当時ぼくたちの間では、「雑居時代のような恋」というのが一つの流行でもあった。
ぼくはほんの一時期、カメラマンになりたいと思ったことがあるが、それは「雑居時代」の影響である。

ぼくがスカパーに入ったのは、この「パパと呼ばないで」と「雑居時代」を録画しておきたいという理由からであった。
この二つのドラマを録画してしまったので、それまで契約していたスカパーのチャンネルをすべて解約してしまった。
1年以上のブランクの後、最近またスカパーを再開した。
なぜ再開したのかというと、「おひかえあそばせ」をやっていたからだ。
はっきり言って、このドラマは「雑居時代」と内容はほとんど変わらない。
出演者も、石立鉄男、大坂志郎、富士真奈美はいっしょである。
また、その役柄もまったくいっしょである。
つまり、今ぼくは「雑居時代」の原型を見ているということになる。
そういう理由から、新鮮な目でこのドラマを見れないというのは、少し寂しい気がする。
しかし、石立シリーズを見れるということで、よしということにしておこう。

ところで、この石立シリーズの配役だが、女性人は当時およびその後に大活躍した人がかなり出ている。
「おひかえあそばせ」・・・宮本信子、岡田可愛、鳥居恵子(懐かしい)
「気になる嫁さん」・・・榊原るみ、水野久美、浦辺粂子
「パパと呼ばないで」・・・杉田かおる、三崎千恵子、松尾嘉代
「雑居時代」・・・大原麗子、山口いずみ
「水もれ甲介」・・・赤木春恵、村地弘美(これも懐かしい)
「気まぐれ天使」・・・酒井和歌子、樹木希林
「気まぐれ本格派」・・・三ツ矢歌子
などである。
このメンバーなら、まだやれるじゃないか。
例えば、「パパと呼ばないで2」なんかがあってもいいと思う。
村地弘美はどうしているんだろう?
たしか同い年だったと思うが。
ということは、彼女も今、頑張る40代を演じているわけか。

そういえば、赤木春恵は「水もれ甲介」の時はやさしいお母さんだったのに、
「幸楽」に行ってずいぶん意地が悪くなったなあ。

2日前、バイパスで事故があり、1車線が通行止めになっていた。
その日が日曜であったため、さして渋滞はしていなかったが、みな警察官の誘導の元、もう一方の車線をノロノロと走って行った。
別に車線が狭いわけでもないので、ノロノロと走る必要もない。
さっさと通り越してしまえばいいようなものだが、事故現場が気になるのか、みな事故現場のほうを見ながら運転している。
中には事故なんかどうでもいい人だっているはずだ。
しかし、そういう人も一応はその現場を確認している。
やはり人には本来、野次馬根性が備わっているのだろう。

さて、事故車の横を通る時、「なぜこの車は、こういう状態で停まっているのだろう?」と思うことがよくある。
まず、進行方向と逆向きに停まっている車。
おそらく、ぶつかった時に回転してこちら向きになったのだろうが、それにしても、まるで逆走してきてそこに停まっているかのように、ピタリと車線内に収まっている。
今回の事故もそうなっていた。

次に、中央分離帯に乗り上げている車。
これは別におかしなことではないが、たまに「よくこれで停まったものだ」と思われる事故車を見かける。
以前、中央分離帯の上に真横を向いて停まっている事故車を見た。
ちょうど、中央分離帯の中に、きれいに駐車した形になっている。
あの段差があるのに、よくこういう状態で停まれたものだ。
これなんかは、「もう一度、この状態で停まってくれ」と頼んでも、到底出来ることではないだろう。

江頭2:50のような格好で停まっている車。
つまり、片方の肩で倒立しているような格好になっているのだ。
車の中には誰も乗っていない。
運転者はどうやってそこから脱出したのだろう?
それに、そこから脱出するさいに、車はバランスを崩して倒れるはずだ。
そうなってないのはなぜだ?

これも事故に入るのだろうが、何年か前に本屋の駐車場で見た話である。
その本屋には、駐車場の車止めの後ろに、高さ50センチほどの花壇がある。
なんとその花壇の上に、車が腹を乗せて停まっているのだ。
つまり、花壇の上に乗り上げているのだ。
おそらく、停車しようとブレーキを踏もうとして、誤ってアクセルを踏んでしまったのだと思う。
しかし、花壇の高さが50センチもあるのだから、そういう場合は車止めを乗り越えて、花壇の壁に激突するはずではないか。
これはもう、人知を超えた力が働いたとしか考えられない。
決して店のパフォーマンスでやっていたのではない。
乗り上げた車の後ろで困った顔をして必死に電話をしている姿があった。
おそらく、その車の持ち主だったのだろう。
「信じられんかもしれんけど、・・・。・・・、信じられん」と、しきりに「信じられん」を連発していた。
その時その人は、「きっとこれは、神か宇宙人の力に違いない」と思っていたのかもしれない。

ぼく自身はそんな事故の経験はないのだが、車の運転で一、二度変なことがあった。
郵便局に書留を取りに行ったときのことだ。
駐車場はいっぱいだったので、しかたなく歩道に駐車していた。
用を終え、車を動かそうとバックをした時だった。
車の後ろから「ガガー」と車をこする音がした。
「あーあ、やってしまった」と車を降りて見てみたのだが、車には何も傷はなかった。
おかしいなと思い、周りを見てみたのだが、何も車をこするような障害物はないのだ。
空き缶を踏んだわけでもなかった。
「他の車がやったのか?」と思ったが、ぼくの車の周りには車はなかった。
納得いかないぼくは、家に帰ってから、再度車を点検した。
やはり何もなっていない。
さらに車の裏も確認したのだが、ここも無傷だった。
「まあ、無傷だからいいや」と思ったが、何か納得がいかなかった。

夜、車で山道を下っていた時のこと。
視界が悪かったので、ライトをハイにした時だった。
ライトに向かって何かが走ってきているのが見えた。
「お、猫か?」と思った時には、もう遅かった。
確かに前輪で、その「猫」のようなものを踏んだ感触があった。
「やった!」と思いブレーキをかけ停車した。
しかしである。
辺りを見回したが、何もいない。
「ここじゃなかったかも」と少し後戻りしてみたけど、やはりそれらしきものはない。
「逃げたのか?」とも思ったが、血の後もない。
「おかしいな」と思いながら、家に帰った。
例のごとく、車を確認したが、血痕などはついていなかった。
一応、塩をまいておいた。
翌朝も、車を確認したのだが、何もそれらしきものはなかった。
いろいろ考えたあげく、「あれは猫ではなくて、狐だったのだ」という結論が出た。
つまり、ぼくは化かされたのだ。

それはともかく、お互い事故には気をつけましょう。
以上、西部警察からでした。

[その1]
大物で思い出したが、中学2年の時のことである。
国語の授業で、「大きな人」という話になった。
先生が、「どんな人を“大きな人”というか?」と言って、中井という奴をあてた。
「中井の知っとる大きな人を言うてみ」
中井はすかさず、「ジャイアント馬場」と答えた。
「いや、そういう意味の大きな人じゃなくて、人間的に大きな人がおるやろうが」
中井はいっとき黙っていたが、先生がしつこく「中井、答えんか」などと言うのでパニくってしまい、早口で「モンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)」と言い捨てて、座った。
先生は「モンスター・ロシモフ」を知らなかったのか、中井が座った後に、「おう、そういう人やのう」と言っていた。
ぼくらは小声で言い合っていた。
「変わらんやん」


[その2]
モリタ君(エッセイ参照)登場である。
ある日のこと、モリタ君がいつものように遅刻をしてきた。
その日来たのは午後2時ごろであった。
ぼくが「また、あんた遅刻か。今日は何で遅れたんね」と聞くと、モリタ君は下を向いて「ね、熱が出ました」と答えた。
「熱がでたあ?いったい何度あったんね」
モリタ君は目をキョロキョロさせながら、憮然として言った。
「29度です!」
「え、29度!?」
「はい、29度です」
「ほんとに29度やったんやね」
「はい!」
「・・・、あんたは爬虫類か?」


[その3]
前の会社にいた頃、ちょっと変わったおっさんが、毎日のように来ていた。
目が小さく、すごい出っ歯であった。
いつも、小さな声でぶつぶつと独り言を言っている。
お客を接客していると、わざわざ横に来て、こちらの顔を覗き込む。
バイクの免許も持ってないくせに、フルフェイスのバイクのヘルメットをかぶり店の中を歩きまわる。
・・・など、店にとっては大変迷惑なおっさんであった。
いつだったか、こんなことがあった。
いつものように、ヘルメットをかぶっておっさんが登場した。
しかし、その日は服装が違っていた。
なんと、ヘビメタの革ジャンを着込んでいるのだ。
そして、変に肩を怒らせて歩いている。
周りを見回しては、「ガー」などと言って威嚇している。
ぼくたちは、「相変わらずバカやのう」などと言い合っていた。
一人の小学生がおっさんを見ていた。
それが気に入らなかったのか、おっさんは小学生に駆け寄って行った。
そして、その小学生に向かって何か言っていた。
小学生は「ばーか」と言って、こちらに逃げてきた。
ぼくが「どうしたんね」と聴くと、「あのおいちゃんが、黒い手帳を見せて『逮捕する!』と言った」と答えた。
「手帳?」
「うん、『西部警察手帳』やった」

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