吹く風ねっと

一生は未来の記憶を散りばめた一本の道。人生は未来の記憶をひろいながら歩く旅。

2001年11月

前から鼻の中が乾燥しており、なんとなく痛かったのだが、気にせずに放っておいた。
ところが、数日前えらの下がなにか張っているのに気づいた。
「ぐりぐり」が出来ているのだ。
長引いたら面倒だ、ということで、とりあえず鼻の中にメンタムを塗りたくった。

2,3日したら治ると思っていたが、今朝起きてびっくりした。
なんと、鼻が腫れ上がっているではないか!
左の小鼻にできものが出来ているのだ。
時間がたっていくうちに、目が痛くなり、のどが痛くなり、耳がどうも変だ。
まるで風邪を引いた時のような状態である。
もしかしたら、昨日の頭痛もこれから来たのかもしれない。

今日はパソコンショップにハードディスクを買いに行こうと思っていたのだが、この鼻を見ると情けなくなり、今日は予定を変更して、ガソリンを入れに行っただけにとどまった。
まあ、パソコンショップは急いで行かなくてもよかったのだが、来月は忘年会も続けてあることだし、なるべく早く買って設置を終わらせておきたかった。
しかし、この鼻ではねえ。
それも片方だけが腫れているし、しかも、外は乾燥しているから呼吸をするだけでも痛い。

それにしても、鼻が脈を打っているという経験は初めてだ。
小さい頃から、よく汚い手で鼻をほじっていたので、「ぐりぐり」が出来るのはしょっちゅうだったのだが、脈を打つほどの痛みを覚えることはなかった。
成人してからも、鼻毛を抜いて、そこからばい菌が入り化膿することはあったが、脈は打たなかった。
ということは、今回は特別にひどいということなのだろう。
しかし、何度も言うようだが、病院には行きません。
ぼくは自分の治癒力を信じていますから。

それでは、治癒力を高めるために、今日は寝ることにします。

終日雨で頭が痛くなった。
頭が痛くなることは時々あるのだが、冷房の風に当たったりのぼせたりする以外の頭痛というのは、雨の日が断然多い。
低気圧と何らかの関係があるのだろうか?
雨の日に頭が痛くなった時はいつも、何層も重なった雲が脳を圧迫しているようなイメージを持っている。

さて、どんな痛みの時にも、ぼくは鎮痛剤を飲まないようにしている。
たいがい寝たら治るものだし、薬で胃を荒らされるのも嫌だ。
親知らずを抜いた時も、医者に「これを飲んで寝れ」と言われ渡された“とんぷく”を服用しなかった。
鈍い痛みが一晩中続いたが、ずっとこれに耐えていた。
それでも、いつの間にか眠っていて、起きた頃には痛みは引いていた。
歯医者に行き、医者から「ちゃんと“とんぷく”は飲んだかね?」と聞かれ、「いえ、飲んでません」と答えたら、「あの痛みによく耐えたねえ」と感心していた。
当然今日も、鎮痛剤を飲んでいない。
まあ、いくら痛くても、頭痛ぐらいで鎮痛剤を飲むわけにはいかない。
「痛みに強い」というプライドにかかわる。

ところで、むかしからぼくは頭痛の対処法を研究している。
首筋を揉む、背骨を矯正する、頭のつぼを押さえるなどいろいろやってみたが、一番効果があった方法は肉体と心を分離する方法だ。
これは、江戸時代の禅僧白隠の内観法を応用したもので、例えば風呂などに入ってリラックスした状態で、頭痛を客観視するのだ。
別に心が痛いわけではないので、これは比較的簡単に出来る。
痛みを「痛」という字に置き換えて、「痛」を心で眺めてみるのだ。
集中してやっていくうちに、あら不思議、頭痛が消えていくのがわかる。
頭が割れるような痛みには、比較的「痛」に置き換えやすいので有効である。
ただ、鈍い痛みの時は、痛みを客観視しにくいのであまり効果がない。
今は、この鈍い痛みになった時の対処法を模索しているところである。

同じ頭痛でも、飲みすぎた時の痛みは始末に終えない。
なかなか去ろうとしないのだ。
寝ている間も頭がガンガンする。
翌朝も、痛みは治まらない。
経験上、何か食べて短い時間でもいいから寝るとか、汗を流すとかするとだいたい治るのだが、それでも治らないことがある。
そのときは思い切って、胃の中のものをすべて出してしまうことだ。
全快とまではいかないけど、かなり頭痛からは解放される。

それにしても、今日の頭痛はしつこい。
実は今日の頭痛は、模索中であるところの鈍い痛みなのだ。
ああ、そうだった!
寝れば治るんだった。
じゃあ、寝ることにします。
おやすみなさい。

今日は早く日記を終わらせて、早く寝ることにしよう。

実は今日、午前3時まで日記を書いていたのがたたったらしく、売場でつい居眠りをしてしまった。
ところが、それをお客さんが見ていたらしく、ぼくに「あんたいいねえ。ここは居眠りする暇があるんやね」と皮肉を言ってきた。
ぼくはカッと目を見開いて、「いいえ、居眠りはしていません。目を瞑っていただけです」とゆっくりと悪びれずに答えた。
ぼくがあまりに堂々と言ったので、相手は「ああ、すいませんでした」と謝って立ち去って行った。

居眠りは得意だった。
小学生の時は、おしゃべりが忙しくて授業中に居眠りするようなことはなかったが、あまりしゃべらなくなった中学の頃は、しょっちゅう居眠りしていた。
そのつど見つかって叱られていたが、そのうち要領を得るようになり、いかにも授業を聞いているような寝方をマスターしていった。
右手でエンピツを持ち、ノートをとっているように見せ、左手で考える人のようにひじをつき、手でおでこを支えるようなポーズをとる。
視線の先に教科書がくるようにした。
傍から見れば「教科書を見ながら考えてノートをとっている図」になる。
この方法を見つけてからは、先生に見つかって叱られるようなことはなくなった。
しかし授業を聞いてないので、「じゃあ、今習ったところの小テストを行う」と言われると焦った。
授業を聞いても、教科書を読んでもないのだから、まったくわからない。
結局居残りさせられて、いつも「お前は真面目に机に向かっとるように見えるが、集中力がないんかのう」と小言を言われた。
当然、この小テストの延長にある中間・期末のテストの点はよくなかった。

高校に入ってからは、そんな小細工をやめ、堂々と居眠りするようになった。
2時間続けて数学がある時などは、2時間続けて居眠りをしていた。
先生も起きていたらうざいと思ったのか、そっと寝させてくれた。

同じ2年の頃、教壇の前の机、つまり前列の真ん中の奴が、リーダーの時間に居眠りをしていたことがある。
この位置は盲点なのか、居眠りしても見つかることはめったにない。
ぼくもこの位置に座っていたことがあるが、やはり見つからなかった。
しかし、ラグビー部顧問のこのリーダーの先生はそれを見逃さなかった。
突然、大声で「ばっかもーん」と言い、出席簿でそいつの頭を力いっぱい叩きつけた。
叩かれた本人は、何があったのかわからなかったらしく、寝ぼけ眼で周りをキョロキョロ見回していた。
その間抜け顔は今でもしっかりと覚えている。

さて、今日はあまりにも眠たかったので、「これではいかん」と思い、バックヤードで少し寝ることにした。
しかし、「さあ、寝るぞ!」と構えるとなかなか眠れない。
結局寝ないまま、また売場に戻った。
売場に戻ると、また眠たくなった。
こんなもんですね。

高校の頃、ロングホームルーム(LHR)という時間があった。
生徒主体の時間で、下らんことをやっていた。
覚えているのは、2年の時にやったN君について語るものだった。
N君とは同級生で、学校はよく休むし、女たらしだし、クラスでは浮いた存在の男だった。
主旨は「N君の姿勢を正す」といったようなもので、要は吊るし上げだった。
「N君はどうしてクラスに溶け込まないのですか?」
「N君、学校に来て下さい」
「N君はいつもこうじゃないですか!」
「N君は、こういうところが悪いから直してください」
N君を嫌っていた人が中心になって発言していた。
中には、「ぼくは友だちとして言うけど」と前置きして、散々悪口を言っている奴もいた。
ただ、一方的にN君が攻められていたわけではなく、彼も応戦をしていた。
この「N君の姿勢を正す」は2週続けてやったが、結局はただ悪口を言い合っただけの中途半端なものに終わった。

LHRの定番に「Xへの手紙」というのがあった。
クラスのある人の名前が書かれた紙をランダムに渡され、その紙に書かれた名前の人に匿名で手紙を書いていくものだった。
ぼくがもらった手紙で印象に残っているのは、1年の時にもらった手紙だった。
「しんた君は変わってますね。人は付き合ってみないとわからないと言うけど、実際はどういう人なんだろう?・・・今彼女を探しているみたいですね。頑張って下さい」と書かれていた。
書いた人はだいたいわかっていた。
ぼくはその人を彼女にしたかったから、何かピンとくるものがあった。
友人もその手紙を見て「あいつやろう」と言っていた。
でも、そこから何も始まらなかったのが、今となっては悔やまれる。
2年の時にもらった手紙は、スキャンダルまがいのものだった。
「以前Yちゃん(当時ちょっと付き合った人。上の人とは違う)と一緒に帰るのを見かけましたが、その後Yちゃんとはどうなりましたか?」などと書かれていた。
Yちゃんと別れて、けっこう時間がたってからもらった手紙だった。
「馬鹿が。何を今頃言いよるんかのう」とあきれていた。

2年の時、実に下らんことをやった。
タイトルは「男と女、どちらが偉いか?」だった。
こういう内容になると、俄然張り切る女子がいた。
男子が発言するたびに、「それは違う!」と反論する。
最後には男子対俄然張り切る女の戦いになった。
あまりに馬鹿馬鹿しいものだったので、ぼくは議論に参加せず居眠りをしていた。
すると、議長が突然「しんた君はこのことについて、どう思いますか?」と言った。
ぼくは『おれに振るな』と思いながら、「こんなの、止めろうや」と言った。
議長もそう思っていたらしい。
結局この議論は、そこで打ち切りになった。

2年の初めに「このクラスをどういうクラスにしていきたいか?」というのがあった。
ぼくは「そんな計画立てても面白くない。行き当たりばったりやけ面白いんやん」と言った。
この発言について、担任や議長は反論していた。議長はぼくの意見を踏まえて、無理やり「みんなで意見を出し合い、計画性を持って楽しいクラスにしていきましょう」と言った。
じゃあ実際2年の3学期が終わった時点で、議長の言ったようなクラスになったかといえばそうではなく、ぼくが言ったように「計画性のない行き当たりばったりの楽しいクラス」になった。

そんな下らんロングホームルームだったが、ぼくは別に嫌いなわけではなかった。
なぜなら、その時間だけは授業がないからだ。
生徒主体だから、居眠りしても咎められない。
ぼくは授業はよくサボったが、LHRだけはサボったことがなかった。
今でもあの「Xへの手紙」だけはやりたいと思っている。

昨日の日記で、「ぎりぎり」という言葉がわからないという声が多数あったので、説明しておきます。
「ぎりぎり」とは「つむじ」のことです。
会社でいろんな人に聞いてみたのだが、半分くらいは知らなかったようだ。
でも、うちの母親は大阪出身なのだが、「大阪にいた頃も“ぎりぎり”と言っていた」と言っていたので、九州の方言ということでもなさそうだ。
ということは、おそらく「つむじ」の古い言い方なのだろう。

方言ではないけれど、その土地特有の言い方というのがある。
東京にいた頃のことだが、ある日友人と池袋の西武百貨店に行った。
その当時、西武の屋上の食堂に評判の料理があったので食べに行ったのだ。
ウエイトレスがオーダーを取りに来たので、その評判の料理とビールを頼んだ。
さらにウエイトレスが「他に何かご注文はありますか?」と聞いたので、ぼくが「何か、腹の太るものを下さい」と言った。
ウエイトレスと友人は声を揃えて、「え?」と言った。
北九州の方では「お腹いっぱいになる」ということを「腹が太る」と言う。(「ぎりぎり」と同じように、使わない人もいるかもしれないが)
しかし、これは方言ではないだろう。
どこに住んでいても日本人なら、よく考えればその意味はわかるはずだ。

逆に方言というのは、どう考えても意味が解せないものを言うのだと思う。
福岡県では「さっち」という言葉をよく使う。
「王監督は、さっちが鳥越にバンドをさせて、チャンスを潰すっちゃね」
わかりますか?
「さっち」とは「何かにつけ」とか「決まって」とかいう意味がある。
つまり上の文章は、
「王監督は、決まって鳥越にバンドをさせて、チャンスを潰すんだよ」という意味である。
この「さっち」というのは福岡の純粋な方言だと思う。
以前熊本の人に「熊本では“さっち”という言葉を使いますか?」と聞いたことがあるが、「なんですか?それ」と言われた。
お返しに、その人から「しんたさん、武者んよかですね」と言われた。
今度はこちらが「なんですか?それ」と聞く番だった。
「武者んよか」とは熊本の方言で、「かっこいい」という意味らしい。
「そういえば・・・」と、ダイエーホークスの松中選手が熊本のファンから、「武者んよかですね」と言われていたのを思い出した。
そこでぼくは「熊本の人は、さっちが“武者んよか”を使うんやね」と言ってやった。

柳川ではひな祭りの頃になると、「さげもん」という飾り付けをする。
ちょうどその頃に、川下りに行ったことがあるが、その時船頭さんがその「さげもん」なるものを見せてくれた。
天井から糸で飾り物を吊るしているのだ。
ぼくは、それを見て「さげもん」とは「下げ物」つまり下げた物であることがわかった。
「もの」と言うのをこちらでは「もん」という。
例えば、「わるもの」は「わるもん」である。
「さげもん」とか勿体つけるから、何か特別なものと思ってしまう。
下げた物だと知ると、実に味気のないものである。
せめて「下げ飾り」とかにしてもらいたかった。

沖縄に行った時に聞いた話だが、例の「うちなーぐち」は奈良時代の日本語に近いそうである。
そうであれば、沖縄の人が本土の人間を「やまとんちゅ」というのはおかしい。
沖縄の人も結局は「やまとんちゅ」じゃないか。
沖縄の開祖は鎮西八郎源為朝だというし、琉球王国の時代から文字はひらがなカタカナを使っていたわけだし、立派な「やまとんちゅ」ですよ。
しかし、中国が「沖縄は中国の神聖なる領土である」と言うのは解せませんな。

そういえば子供の頃よく「ぎったんはなふくき」と言っていた。
「うそついたら針千本飲ます」と同じような意味だったと思うが。
友だちと何か約束する時に、「ぎったんね」とかいうふうに使ったような覚えがある。
似たような言葉で「チック、タック」というのがあった。
大ぼら吹いたり、出来もしないような約束をすると、決まって「チックねー(そんなことある<出来る>わけないやろ、といった意味で)」と言って腕をつねる。
「タック」と言うまで離してもらえなかった。
そして、それがうそだったり、出来なかった時は、デコピンの刑が待っていた。
こんなこと、今の子供はしないだろう。
今の子なら、ターゲットはいつも同じ子になり、いじめに繋がるだろう。
ぼくたちの頃は平等だった。
それにしても、する奴はいつも決まっていた。

先日、床屋に行った。
毎月人から「どこを切ったん?」と言われるくらいに、あまり髪を短くしないのだが、今回はわりと短く切った。
ぼくが床屋に行っても、いつもまったく気づかない人が、今回は「あ、散髪しとる」と言ったくらいだから、結構雰囲気も変わったんだろう。

そういえば、ぼくの髪型は高校の頃からほとんど変わってない。
もし髪が黒くてもう少し長かったら、高校時代そのものである。
街で同級生などに会っても、「お、しんたやんか。お前変わってないのう」と、きっと言われるはずである。
ああ、でもだめか。
体型が変わってしまっている。

ぼくは額の上の中央に「ぎりぎり」があるので、横分けが出来ない。
小中学生の頃は「坊ちゃん刈り」だったので、前髪は下に垂らしていた。
しかし、高校生になるとしゃれっ気も出てくるので、「坊ちゃん刈り」ではすまされない。
入学当初こそみんな中学の延長だったが、何ヶ月か過ぎるとみな髪を伸ばしだした。
伸ばしてないのは野球部の連中だけであった。
ぼくは柔道部に所属していたが、顧問がいなかった(実際はいたが、全然顔を見せなかった)せいもあり、髪のことでとやかく言われることはなかった。
しかし、夏休みに行われる「金鷲旗高校柔道大会」にはスポーツ刈りにする、という伝統がぼくたちの学校にあったため、ようやく長髪になってきた髪を泣く泣く切ったことがある。
その時、ぼくは「ぎりぎり」のせいで前髪が立たず、先輩たちから「お前、髪切ったんか? ぜんぜん変わってないやないか」と文句を言われた。
このときばかりはぼくも負けてなかった。
「髪が立たんとですよ。前にぎりぎりがあるけ、しかないでしょ。ちゃんとこちらは床屋に“スポーツ刈りにしてくれ”と言ったんですから」と反発し、そのぎりぎりを見せた。
それを見た先輩は、もうそれ以上の追求はしなかった。

金鷲旗が終わってから、またぼくは髪を伸ばしだした。
とうより、それから高校を卒業するまで、床屋には行かなかった。
髪は自分で切るか、母親に切ってもらうかしていた。
髪型は分けやすいように真ん中から分け、「ぎりぎり」から生えている髪を垂らすようにした。
「前髪は眉毛にかからない程度。横は耳がかぶさる程度。後ろは襟にかからない程度」と生徒手帳に書いていたが、完全に無視した。
先生も、髪を切ったら喜ぶ程度で、伸ばしていたからといって別に文句は言わなかった。
3年の金鷲旗の時は、伝統を破って、ロン毛で参加した。
試合は1回戦で負けたが、髪の長さでは誰にも負けてなかった。
ちなみに、この大会にあの山下泰裕も参加していたが、彼は坊主だった。

その時代の髪型が30年近く続いているのである。(もちろん今はロン毛ではない)
その間、「パーマかけたら似合うと思うよ」とか「髪を立たせたらどう?」などとよく言われたが、耳を貸さず、頑固にこの髪型を続けてきた。
これが一番気に入っている、というよりも、この髪型しか出来ないからである。

今は仕事上無理であるが、将来はまた伸ばしたいと思っている。
その際は「しろんげしんた」と名前を変えなければならない。

くだらない思い出話を書いているうちに、11月も後半を迎えている。
この1週間はわりと平和だった。
とくに大きな事件もなかった。

あ、そういえば、19日にちょっとした事件らしきことがあった。
その日は背中が痛く気分が悪かったので、家に帰ってからすぐに横になった。
2時間ほど寝てから、あまりに腹が減ったので、起き出して軽い食事をした。
食事が終わってから、「さあ、また寝ようか」と思った時である。
消防車のサイレンが鳴り出し、こちらの方向に向かってくる。
「お、近くで火事か?」と窓の外を見たが、火や煙が上がっている様子はない。
そうしてるうちにもサイレンは近づいてくる。
そして、ぼくの住んでいる団地内でサイレンは止んだ。
野次馬が続々と集まってくる。
「しかし、何があったんだろう?火事ではなさそうだし」と思っていると、今度は救急車が走ってきて、やはり団地内で止まった。
ここまできて、やっとぼくの野次馬根性が起動した。

はんてんを羽織り、突っ掛けを履いて外に出た。
相変わらず気分は悪かったが、そのことも忘れて、ぼくは小走りにその場所へと向かった。
そこには消防車ではなくレスキュー車が2台止まっており、救急車がその後ろにあった。
ぼくがその場所に着いた時、救急車が担架の準備をして、そのままレスキュー車のほうに向かって行った。
「病人か?」と思ったが、それならレスキュー車が来るはずはない。
「さて、どうしたんだろう?」と思っていると、担架が空で戻ってきた。
その間にも野次馬は集まってくる。
その中にうちの会社でアルバイトをしているおじさんがいた。
おじさんはぼくに、「どうなりました?今電話で市の消防局に確認したら、子供が何かに挟まったとか言ってたんやけど」と言った。
しばらくその人と話していると、レスキュー隊の一人がマイクを手に持ち、笑顔でぼくたちの前に現れた。

彼は一礼をしてから、
「えー、こちらは八幡西消防署です。先ほど“子供がベランダの手すりに頭を挟まれ取れなくなった”と通報がありました。早速駆けつけ救助にあたりましたが、午後11時53分、無事救助いたしました」、そこで少し間をおき、「ご近所の皆様には大変お騒がせしました」と言った。
集まった人たちは「親はこんな時間に、子供をベランダで遊ばせていたのか?」とか「こんな時間にマイクを使うな」などと言っていた。
しかしその時、ぼくはレスキュー隊員の「間」のことを考えていた。
「あの“間”はなんか!? もしかしたら“やったー、みんなおれを見てるぜー”と、一種のスター気取りで、皆様の拍手を待ってたんじゃないのだろうか?」
ぼくは“一人浮かれて皆様の拍手を待つレスキュー隊員の図”を思い浮かべ、「間抜けなレスキュー隊員やのう」と、一人笑っていた。

まあ、こんな間抜けなレスキュー隊員でもちゃんと社会の役に立っている。
日本という国はまだまだ平和です。

一日休んだことで、張り詰めていた糸が切れてしまった。
「エアコンはもう終わったな」という思いでいっぱいだった。
翌日からヘルパーの人員整理が始まった。
まずボンが去った。
元々フロアー長から嫌われていたので、メーカーのほうも受け入れ先を早々と決めていた。
HTさんも、契約切れで去って行った。
「まあ、そういう契約やったけ仕方がない。次を探す」と言って辞めて行った。
他のメンバーも次々と辞めて行った。
最後に残ったぼくに、日立のIさんは「お前はどうする?好きなラジカセやってもいいよ」と言ってくれていたが、その頃には燃え尽きてしまっていた。
「どうしようか」と迷ったが、ボンもHTさんもいない店にはもう興味がなかった。
8月20日のことだった。
その日の朝、ぼくは長崎屋に行き、フロアー長に「次の仕事が決まったんで、辞めます」と言って、強引に辞めてしまった。

これでぼくの「長崎屋物語」は終わるはずだったが、運命はぼくを長崎屋から離してくれなかった。
長崎屋を辞めたぼくは、その後雑誌のライターやオーディオのセールスをやるが、何か燃えるものがなかった。
仕事中に、「ああ、長崎屋の人たちは今頃どうしているんだろうか?」などといつも考え、仕事に身が入らない。
ライターは1ヶ月続いたが、オーディオのセールスは1週間ほどで辞めてしまった。
「さて、どうしよう」と思い、働き口を探していたが、いいところが見つからない。

10月になった。
いつものように、ぼくは仕事を探しに職業安定所に行った。
その帰りのことである。
何か後ろから押されているような感じで、ぼくは長崎屋に行った。
フロアー長に会った。
「おう、しんた。今どうしてるの?」
それまでの経緯を話した後にぼくは、思ってもないことを口にした。
「フロアー長、もう一度雇ってもらえませんか?」
フロアー長も唖然とした顔をしていたが、「どこか空きがあったかなあ?」と言っているところに、東芝のセールスのSさんが来た。
フロアー長は「おお、いいところに来た。こいつを雇ってくれない?」と言った。
Sさんは、「ちょうど人を探していたところだけど・・・」と言いながら、ぼくのほうを見て「君、販売できるの?」と言った。
「一応、ここで3ヶ月ほどやってたんですが」
「じゃあ、実力を見せてもらおう」と、ちょうど売場に来ていたお客を指差して、「あの人に売ってみて」と言った。

ついていた。
そのお客はブライダルで店に来たのだった。
結局そのお客は40万円ほど買ってくれた。
それも、そのほとんどは東芝製品だった。
Sさんは目の色を変えてぼくのところに飛んできて、「明日から来て下さい」と言った。
いろいろ条件を出してくれ、給料は東芝でヘルパーに出せる最高の額を提示してくれた。
翌日から、再びぼくの「長崎屋物語」が始まった。

それから、就職が決まる2月まで長崎屋に勤めることになる。
長崎屋を辞めるまでの5ヶ月間は、自分でもよく働いたと思う。
売場は自分から希望して、暖房機の売場に行った。
エアコンで不完全燃焼していたせいもあり、季節商品にこだわった。
エアコンの不満を暖房機にぶっつけるように、よく売った。
汚れ役も自分から進んでやっていた。
とにかく手抜きせず自分でもよくやったと思う。
先の3ヶ月と違っていたのは、家電のある6階だけではなく他の階の人とも仲良くなったことだ。
おかげで何か買うときはいろいろ便宜を図ってくれた。
まあ、店長など上の人に挨拶をするほうではなかったので、そういう人たちからはあまり好かれてなかったが、そういうことは気にはならなかった。

2月に就職活動をしていた時に、フロアー長から「長崎屋に残らんか?行く行くは社員にしてあげるから」と言われ一応考えてはみたが、今考えると残らなくてよかったと思う。
就職が決まってから、東芝からも「社員にならんか」と言われたが、もはやヘルパーという稼業に未練はなかった。
ということで、2月末、ぼくの「長崎屋物語」は終わった。

その後も、嫌なことがあるといつも長崎屋に行っていた。
11年後その就職先を辞めた時も、長崎屋に「アルバイトさせてくれませんか?」と言いに行ったりもした。
もちろん「長崎屋物語」は終わっていたので、それは叶わなかったが。
とにかく定年後は「またここで働きたいな」と思っていただけに、今回の閉鎖は非常に残念である。

ラジカセ売場にいたのは、5月から7月中旬までだった。
その間もフロアー長とヘルパーの確執は続いていた。
フロアー長は以前からいるヘルパーを一人一人商談室に呼び出し、面談していった。
以前のフロアー長の息のかかった者に、忠誠を誓わせるのが目的だったようだ。
以前登場したMさんなどは、頭にきて壁を殴り、指の骨にひびが入ってしまった。

以前からいるヘルパーといえば、ボンもその一人だった。
フロアー長は以前からボンを嫌っていた。
ボンはフロアー長に呼び出されて、「ここを辞めてくれ」と露骨に言われたそうで、その日一緒に飲みに行ったHTさんとぼくにそのことを言った。
ボンはあまり深刻に考えるタイプの人間ではなかったので、あっけらかんとしていた。
聞いているぼくたちも、あまり深刻に人の話を聞くタイプの人間ではないので、HTさんとぼくは面白がって、「それで、何と答えたんね?」と訊いた。
するとボンは、「“はい、頑張ります”と答えた。こう答えるしかないやろ」と言った。
ぼくたちはそこを突っ込んだ。
「“頑張ります”? 何を頑張るんね?」
「一生懸命に仕事をやる、ということよ」
「それはおかしい。“辞めてくれ”と言われて、“はい、頑張ります”と答えたら、『辞めることを頑張る』ということになるやないね」
「そういうニュアンスで言ったんやないんやけど・・・」
「いや、誰が聞いても、そう受け取るやろう」
「そうかのう?」
・・・その後も、ぼくたち3人で飲みに行く時には、いつも「あの時の“頑張ります”はおかしい」と言って、ボンをからかっている。

さて7月中旬、ぼくはラジカセ売場を離れた。
前にも言ったが、ぼくは元々エアコンを売るために日立から派遣されていた。
エアコン売場のほうも、それを見越して日立のエアコンを仕入れていた。
しかし、ぼくが小物やラジカセの売場に行ったため、在庫が残ってしまっている状況だった。
見かねてエアコン売場の責任者が、「しんた君、日立のエアコンどうするんね? 売れ残っても返品できんよ」とぼくに言ってきた。
日立のIさんからも、「エアコンシーズンが終わったら、ラジカセに戻ってもいいけ、とにかくシーズン中はエアコンを売ってくれ」と言われるようになった。
梅雨明け間近だった。
エアコン販売は、梅雨明け後1週間が勝負と言われている。
ということで、ぼくも意を決してラジカセ売場を離れた。

とは言うものの、この3ヶ月エアコン売場から離れていたので、ろくにエアコンを売ったことがない。
売り方のノウハウも知らないが、「とにかく気合だ」ということで、積極的に売りに出た。
すると、面白いように売れていく。
やったこともない工事の見積りまで買って出た。
「見積りに行くなら、タクシー使ってもいいよ」と言われ、交通の便のいい所までタクシーを使った。
のちに、事務所から「家電はタクシーの利用が多い」と注意されたそうだ。
その大半は、ぼくが領収書を持って帰ったものだった。

とにかく、梅雨明け後の1週間はよく売った。
が、ぼくには「何台売った」と言って喜んでいる余裕はなかった。
売場の責任者や日立からプレッシャーをかけられていたので、「何台売った」よりも「あと在庫が何台残っている」というほうに関心があった。

売れたのは、本当に1週間だった。
その後は曇りの日が続き、気温も上がらなかった。
しかし、ぼくは「奇跡が起こる」と思って、休まなかった。
結局振り返ってみたら、梅雨明け前から全然休まず、26日間ぶっ通しで働いていた。
休まないようになって20日ばかり過ぎた頃から、売場の責任者に「しんた君、もういい加減に休め」と言われだした。
それでも在庫がなかなか減らなかったから、「まだ大丈夫です」と言って店に出た。
もうエアコン販売のピーク時期は過ぎていたが、「1台でも多く在庫を減らす」という観念が休ませてくれないのだ。
そのうち、責任者も「今年はおかしいねえ。例年だとまだまだエアコンが売れるのに」と言いだした。
そして、休まなくなって26日目に、気象庁が「今年は記録的な冷夏です」と
発表した。
27日目、ぼくは店に行かなかった。

あれだけぼくを目の敵にしていたフロアー長だったが、ぼくが売り上げを上げだしてから、徐々にぼくに話しかけるようになった。
ある日のこと、フロアー長が声をかけてきた。
「しんた君、今日空いてる?」
「はあ」
「ぼくは黒崎をあまりよく知らないから、HT君と案内してくれない?」
飲みのお誘いだった。
実はフロアー長は、ぼくが長崎屋で働き出す少し前に黒崎店に赴任したのである。社員の人とは打ち解けてなかったし、ヘルパーとは対立していたし、寂しい思いをしていたようだ。
ぼくは別に断る理由もなかったので、HTさんも行くのなら、と承諾した。
もちろん奢りだった。

仕事が終わって、3人が向かったのは長崎屋の隣にある焼き鳥屋だった。
いくら生まれ育った土地とはいえ、20代前半では焼き鳥屋に案内するのが精一杯だった。
別段何という話をしたわけではないのだが、HTさんとぼくは結構本音でものを言っていた。フロアー長も別に怒ることもなく、二人の話を聞いていた。
いろいろ語ったが、フロアー長もそれほど悪い人でないのがわかった。
その後、フロアー長と個人で飲みに行くことはなかったが、数年後にHTさんが、その頃伊丹に転勤していたフロアー長に会いに行ったことがある。
その時、「君たちと飲みに行ったことは、今でも忘れないよ」と言っていたという。

それからほどなく、フロアー長から「しんた、もう小物はしなくていいよ。君は音物(オーディオ関係)が好きそうだから、ラジカセを売ってみないか?」と言われた。
確かに興味のある部門だったが、ぼくにはエアコン販売という足枷があった。
ぼくが「しかし、日立の建前エアコンを売らないと・・・」と言うと、フロアー長は、「何を売らせるのかを決めるのは店だから、君は気にしなくていいよ」と言った。
小物と掛け持ちでということで、ぼくはラジカセの売り場に行った。

ぼくがラジカセにこだわったのには理由があった。
前年に発売されたソニーの「ウォークマン」が、爆発的な人気を得ていた頃である。
当然、音楽好きのぼくがそれを見逃すことはなく、いつかは欲しいと思っていた商品であった。
そのウォークマンに直に触れられる売場に行くのが、前々からの夢であったわけである。
しかし、その売場に行った時に愕然とした。
なんとそのウォークマンは売れすぎて、商品が入ってこない状況にあるというのだ。
担当の社員に「いつ入ってくるんですか?」と尋ねると、「さあ、よくわからない」と言うことであった。
そのうち、ソニーのセールスの人と仲良くなったが、その人も「いつ入るのかわからない」と言う。
どうしても1台欲しかったぼくは、他のメーカーのを買うことにした。

当時は各メーカーが似たようなものを出していた。
店にあったのは、アイワと東芝とビクターの分であった。
他に長崎屋には置いてなかったのだが、松下の「旅カセ」というのがあった。
他社がウォークマンと似た形をしていたのに対し、これはユニークな形をしていた。
テープデッキのカセットの部分だけを切り取ったような形をしており、それにハンドルを付けていた。 もちろんヘッドホンを差し込むようになっていたのだが、後ろにはピンコードを差し込むジャックがあり、オーディオアンプと接続できるようになっていた。 つまり小型のテープデッキだった。 
さて、いろいろ音を聞き比べ悩んだ結果、ぼくが買ったのはアイワの「カセットボーイ」だった。
なぜこれを選んだかといえば、当時としては珍しく録音機能が付いていたのだ。
この機能は他のメーカにはなかった。 どこのメーカーもソニーの真似で、再生専用だった。
その当時ぼくはオーディオ機器を持ってなかったので、これは魅力だった。
しかし、買ってから何日かたってから、ある事実を知って落胆する。
録音の音が悪い!
ひどいものだった。 ノイズはザーザー入るし、音量は低いし、「こんなの買わんほうがよかった」と思ったが、後の祭りだった。
そのことに気づいて2,3日たってから、ソニーのウォークマンが入ってきた。
ソニーの音を聞いたときに、アイワが嫌いになった。
その後は、あまり「カセットボーイ」を聴くことはなくなった。
ぼくがソニーのウォークマンを手にするのは、それから2年後のことである。

その日、HTさんという人が入ってきた。
『この人どこかで見たことがあるなあ』というのが第一印象だった。
それもそのはず、Hさんは高校の1級上の先輩だった。
最初は気づかなかったが、話していくうちにそのことがわかった。
高校時代は話したこともなく、たまに顔を見る程度の人だったので、その日が初対面と言ってもよかった。
ぼくはこの人とも馬が合った。
その後、ボンとHTさんとぼくの3人は、一緒に飲みに行くようになる。
今なお続く腐れ縁は、そのときから始まった。

さて、1週間たっても日立からは何も連絡がなく、結局ぼくは長崎屋に居座ることとなった。
1ヶ月ほど過ぎた頃、鼻の大きなフロアー長とぼくたちヘルパーの対立が激しくなった。
あるメーカーのヘルパーが辞めた時のことである。
ちょうどその人が辞めた日は、フロアー長が出張の日であった。
その日、ぼくたちはささやかな送別会を開いた。 もちろんフロアー長抜きで。
翌日そのことがフロアー長の耳に入った。
それからフロアー長とヘルパーの対立が始まったのである。

そのヘルパーの中でも、特にぼくは目の敵にされた。
そもそもぼくは、エアコンなどの季節品を売るために派遣されていたのだが、時期的なことと、販売に慣れてないということが重なって、売り上げが他の人に比べてきわめて低かった。
そこに目をつけたフロアー長は、他のヘルパーへの見せしめのために、ぼくをよく叱っていた。
ぼくは叱られても、いつもヘラヘラしている人間だから、さらに頭に来たのかぼくを叩いたことがあった。
他のヘルパーはぼくを慰めてくれたが、ぼくはこういうことは子どもの頃から慣れており、そういう目に合うと逆に「今に見とけよ」と思う性質である。
このときは「今に見とけよ。仕事で見返してやる」と思っていた。

さらにフロアー長のぼくに対するいじめは続く。
日立のIさんを呼び出して、「しんたを辞めさせろ」と言い出した。
Iさんはその時、「ヘルパーは1ヶ月で判断したらいけません。ぼくはしんたを辞めさせるつもりはありません」と言ったらしい。
そのあとIさんはぼくのところに来て、「おれはお前を辞めさせるつもりはないけ、とにかくフロアー長のことは我慢してくれ」と言った。

Iさんとの話し合いが不満足だったのか、フロアー長は最後の手段に出た。
ぼくをエアコンの売り場から外したのだ。
「しんた君。君にはしばらく小物のほうをやってもらうよ」と言ってきた。
エアコン販売で派遣されたものが、他の売り場、それも小物に回されるということは、窓際に回されるようなもので、つまり「辞めれ」ということだった。
でも、ぼくはIさんの言葉を信じて辞めなかった。
とにかくフロアー長の言うことは無視して仕事に専念した。
毎日毎日雑巾を持って商品を磨き上げ、カタログを見ては商品勉強をしていった。
小物ということでお客さんも多く、他の売り場の何倍も接客をしなければならない。
ぼくは徐々に販売というものを覚えていった。
小物ながら売り上げが上がっていくと、周りの目も変わってくる。
特に見る目が変わってきた人がいた。
フロアー長だった。

このページのトップヘ