吹く風ねっと

一生は未来の記憶を散りばめた一本の道。人生は未来の記憶をひろいながら歩く旅。

2000年12月

考古学を無視して書いていきます。
縄文時代のイメージというと、「縄文土器、採集・狩猟」が主であろう。
縄文時代は一万年続いたといわれているが、一万年もの間、土器の製作や採集・狩猟だけの停滞した生活を送ったわけではないだろう。
なぜなら人間というのは、よりよいものを求める実験好きな動物だからだ。
そこには文学や芸術や科学もあったはずだ。
「何も残ってない」という理由だけで、原始時代だと決めつけてはならないと思う。
それは、「解明されてないから」という理由だけで、超常現象を否定するのに等しい。

縄文時代、今の歴史時代より遥かに長い年月、きっと今に残るものがあるとぼくは思っていた。
最近、ようやくその答が見つかった。
彼らは実に貴重な遺産を後世に残してくれているのだ。
それは、生命にかかわる一番大切なもの。 そう、「水」である。
彼らは彼らの科学で「山は樹を生み、樹は水を生む」という理を知っていた。
彼らは、いたるところに山を造り、樹木を植え、水を生んでいった。
(よく山に行くと、神社や祠を見かけるが、あれは造山や植樹の記念碑だとぼくは思っている)
それにしても、貴重すぎる遺産だ。
現代の浅はかな知恵で、破壊してもよいのだろうか?

『浦島太郎』

浦島太郎伝説、もしかしたら本当にあったことではないかと思い始めている。
最近ある人から聞いた話である。
その人が幼いころ、一人の女の子が行方不明になったそうだ。
裏山に遊びに行ったまで情報を得られたので、町内あげての大捜索が行われたが、ぜんぜん見つからない。
二日が経った。
町内の人が諦めかけていたとき、山道をその女の子が降りてきた。
多少スリ傷などはあったが、いたって元気だった。
その子に事情を聞いてみると、「山に遊びに行って、ある女の子と出会った。その子と二時間ほど遊んでいたが、日が暮れてきたので帰ってきた。」ということだったらしい。
それを聞いて、浦島伝説もあながちうそではない、と思い始めたわけである。
そういうことって本当にあるんだ。 
ぼくは超常現象を否定しないから、素直にそう思います。

余談だが、竜宮城の乙姫様の衣装、昔から絵本等でイメージされている衣装のことだが、ぼくにはどう見てもチマチョゴリに見えるのだが…。


『江戸時代』

いろいろな本を読んでいてわかったのだけど、江戸時代は予想に反してわりと自由だったようだ。
獄門はりつけというのはめったになかったというし、思想も自由(キリスト教義を除いては)だし、町民は洒脱だし、生まれ変われるなら江戸時代がいいと思っている。
人々は日の出とともに起き、日暮れとともに眠る、そんな鳥みたいな生活をしていたようだ。
これが一番無理がなく、疲れないんですよね。
やはり江戸時代が一番だ!?
でもよく考えてみると、政治の中心地で見る今の時代区分方式で言えば、実は今も江戸時代なんですね。
おそらく何百年か後にはそうなっているだろう。

今の歴史が始まって以来最悪の出来事といえば、1945年8月6日と8月9日の米軍による原爆投下だろう。
このことに関して、米国は一貫して、戦争を早く終わらせるためとしていたが、何をかいわんやである。
日本人の中には「犠牲となった人には申し訳ないが、あれは仕方のなかったことなんだ。戦前誤った道を歩いていた日本を、米国が正しい方向に導いてくれたのだから。原爆はそのための一つの手・にすぎない」という人もいる。
騙されるな!! 
奴らは、属う種類の原爆を広島と長崎に降らせたんだよ。
これは戦争終結のためというより、実験じゃないか。
戦争終結のためなら、広島に落とした後に、「このまま戦争を続ければ二度目もあるぞ」と強く警告すればよかったはずだ。
日本の降伏後、上陸した奴らは広島と長崎に急行し、原爆が生態系に与えた影響を克明に調査したはずだ。
いや、今もまだ調査しているのかもしれない。

もう一つ言えることがある。
米国は日本人を動物と同等に見ていたということだ。
何十万人の人間を人体実験の尊料として使い、何も悪びれずおれるというのはそう思われても仕方のないことだろう。
とにかくドイツやイタリアには用いなかったのだから、少なくとも人種差別がそこにはあったはずだ。

今から数千年後、今の歴史を失った後の話である。
ある考古学者が、我々の時代の地層を調べていた。
この学者は以前、その地層から偶然民家跡を発見し、そこから発掘された茶碗や湯呑を見て、この時代も縄文や弥生と同じく土器を中心とした生活が営まれていたとして、「陶磁時代」と名づけた有名な学者であった。
「なんだこの鉄の線は?」
見ると、二筋の鉄が道のように張り巡らされていた。
その後、その鉄の道は日本中いたるところで見つかった。
「先生、何でしょうか、この鉄の道は?」
「うん、私の判断したところによると、これは城壁の跡だと思われる。おそらく外からの侵入を防ぐための。」
翌日の新聞は大々的に発表した。
「あの鉄の道は、古代の城壁の跡だった!」と見出しの打たれた記事には、「この張り巡らされた鉄の道を見れば、その当時日本がいくつもの国に分かれていたことが理解できる」と書かれていた。
このことは学会に発表され、その後定説になった。
かくて我々の時代は、JRや私鉄の線路の発見のせいで、卑弥呼の時代と同じ扱いとなってしまった。

さて、その後その考古学者は、東京と名古屋と大阪と福岡に屋根付きの巨大な広場を発掘した。
「おお、これは古代の宗教の祭祀場に違いない。ここは神聖な場所だ。おそらくその当時の日本は大きく分けると四つの国に分かれていたのだろう。そして、その国の首都にはこういう大きな祭祀場がある、ということがわかった」
かくて、ドーム付きの野球場は、その学者のせいで宗教の場とされてしまった。


 ※現在の考古学では、何か施設が発見されると、軍事施設や宗教の場になってしまいます。
それ以外に人間の営みはなかったのでしょうか? 
もしかしたら、軍事施設とされているところは実は古代のテーマパークの一部で、祭祀場とされているところは古代の大宴会場だったりして。

十七条憲法、どうして今の法律家や歴史家は、この憲法を重要視しないのだろうか。
三法-仏法僧-のことさえ解決すれば(つまり政教分離)、今でも十分に通用する憲法だと思う。
三法は、生きがい・教養・他人を尊重する、に置き換えたらいいだろう。
おそらく太子もその意思だったのじゃないだろうか。
伊藤博文の英独受け売りの安直な明治憲法、アメリカ押し付けの現憲法、どうしてこの二つだけを憲法としているのだろう。
どうして、わが国の聖人が作った尊い遺産を無視するのだろう。

漢の昔、かの劉邦が「法は三法」と言ったが、わが国の法は「和」のみでいい、とぼくは思っている。

【1】
江戸の昔から、邪馬台国の場所について、いろいろ論争がなされているようです。
ぼくの結論から言うと、邪馬台国はなかった。と思っています。
いや、邪馬台国という国名がなかったのです。
邪馬台国、いかにもうさんくさい名前でしょう?
だいたい「文字もなかった(ぼくはあったと思っていますが)」とされていた時代に、漢音の国名なんかあるわけないじゃないですか。
「魏志倭人伝」これがまたうさんくさい!
当時の大陸は魏呉蜀、いわゆる三国志の時代です。
そんな三国鼎立の一触即発の時代に、東方の僻地に調査を命じられる奴なんて、ろくな奴じゃなかったはずですよ。
一応、調査には来たんでしょうね。
おそらく彼は一番近い九州にたどり着いたんだと思います。
そこで、「ここはなんという国であるか?」と尋ねたのです。
そこの住民は「ヤマトったい」と九州弁で答えたのです。
これを聞いた調査員は長居もせずに、本国に帰ってしまった。
ろくな奴じゃないから、道程も適当に報告し、その国名も聞いたまま「邪馬台の国」と報告した。
と、いうことだとぼくは思っています。


【2】
卑弥呼というのは、天照大神のことだと言う人がいる。
これは当たっていると思う。
ただ、「邪馬台国の女王」だとは思ってはない。
おそらく、例の調査員が「どういう国なのか?」と尋ねたとき、「ヤマトったい」の人がわが国の神話を語ったのだと思っている。
例の調査員は、その話を現実の話だと勘違いしたのだと思う。
そうであれば、そいつのおかげで日本の歴史は捏造されたことになる。
返す返すも、ろくでもない奴である。

昔から病院嫌いで、歯科以外の病院にはほとんど行ったことがない。
二,三十代の頃は、酒をよく飲んでいたので、健康診断でウロビリ反応(これがどういうものか、いまだにわからないのだが)が出たことがあるが、それもいつのまにか治ってしまった。
もちろんその時も医者には行っていない。

遡って学生の頃、強烈な胃痙攣に襲われたことがある。
約一週間さしこみに耐えて、「これは、いかん!」と思い、勇気を振り絞って病院の扉を開いた。
なんと、その瞬間にあれほど痛かった胃痛がピタリと止んでしまった。
結局診察はしてもらったものの、「軽い胃炎]]ということで片付けられてしまった。
一昨年(平成11年)の11月頃の話。
頭がボーっとして、夕方になると決まって微熱が出、頭痛がする。
それが二週間程続いたので、今度もまた勇気を振り絞って病院の扉を開いた。
健康保険証を出し待っていると、「こちらへどうぞ」呼ばれ、胸部のレントゲン撮影,心電図,血圧測定と、およそ頭痛とは直接関係ないような検査が始まった。
ぼくは看護婦さんに「頭痛とレントゲンとなにか関係あるんですか?」と尋ねた。
すると、「もう四十代なので、調べておかないと。大病の可能性もありますから」、という答えだった。
一応納得はしたものの、それでも頭痛と胸部のレントゲンがつながらない。
検査を終え問診を待っていると、例の看護婦が来て、「病院を紹介するので、CTスキャンを撮ってきて欲しいのですが、いつ行かれますか?」と言った。
ぼくは自分が病気であることも忘れて、『なんだ病人扱いじゃないか。来るんじゃなかった』と思い、「なかなか時間が取れないので、行く時にはこちらから連絡します。]]と答えた。
それでも看護婦がしつこく言うので、ぼくは無視していた。
そうこうするうちに、問診が始まった。
いかにも坊ちゃん育ちといった顔立ちの医師だった。
約5分の問診の間、彼は先ほどのレントゲン等のデータ―を見ながら、カルテに難しい文字を書き込んでいった。
そして、坊ちゃん育ちの医師の下した診断は、「肩こりですね。」、だった。

近頃また体に異変が起きている。
原因が、寝不足だということはわかっているのだが。
病院に行っても、またレントゲンから始まるお決まりの検査が待っているだろうから、行こうとは思わない。
もし行ったとして、『寝不足とレントゲンがどうつながるのか?』と悩むのも嫌だし。
まあ、当分は出来るだけ睡眠をとって様子を見ようと思っている。(2000年8月)

ぼくは、顔は若いつもりなのだが頭がいかん。
かなりひどい白髪頭なのだ。

白髪は二十歳前後から出始め、三十歳の頃はブラックジャック状態だった。

原因は色々考えられる。
まず遺伝。
これはどうしようもないだろう。

次にシャンプー。
ものの本を読むと、今のシャンプーは髪を痛めると書いてあった。
毎朝洗っていたので良くなかったのだろう。

最後に白髪染め。
効果覿面だった。
三十代後半に染めていたことがある。
皮膚の炎症を起こしたのでやめたのだが、色が落ちてくると今まで黒かった所までが白くなっていた。

ここまできてやっと『今後は時間がかかってもいいから、地道に白髪と取り組もう』と思うようになり、「安心」とか「爽快」とかいう本に目を通すようになったのだった。
そこに書いてあった、「米ぬか」「きな粉ドリンク」「黒ごま」「アロエ」「しょうが」といろいろやってみたが効果は現れなかった。
いや、多少はあったのかもしれないけど、あまりに白髪が多いので目に見えなかったのかもしれない。
シャンプーもシャボン玉の石鹸シャンプーに変えてみた。 
おかげで髪は健康になったみたいだが、白髪は治らない。
髪を引張って血行をよくすれば治ると言われてやってみたこともある。 が、やりすぎて頭が変形したように思える。

ある時開き直って「おれは白毛人だ!」と言うことにした。
他人から「頭が真っ白やね」と言われても「これは民族の血が流れているからしかたがない」と言っている。

とはいえ、何かいい方法が本などに載っている時にはすぐに飛びついてしまう。
ちょっと前にやっていたのが、オーストラリアで開発されたヘアオイルで、これを使うと毛根に栄養が与えられ、髪が元の色に戻っていくということであった。
取引先の人が「実験台になってくれ」と言うので引き受けたのだが、なぜかしっかり料金を取られた。
発売開始が1957年で全世界1000万人の愛用者がいるということだ。
その愛用者のほとんどが治っているらしい。
しかし考えてみると、1957年というのはぼくが生まれた年で、そんなに長い間愛用されていて、しかもそのほとんどが治っているというのなら、なぜもっと早く日本で話題にならなかったのだろう。 毛生え薬とかはすぐに話題になるのに。
「白髪は毛があるからいいじゃないか」という潜在的なものでもあるのだろうか?

早速ぼくはこのヘアオイルを使っていることをみんなに公表した。
このヘアオイルは約3週間で効果が現れるということだった。

一週目は何も変化がなかったようだった。
ところが、使って2週目に突入した時に「髪が黒くなってきたみたいよ」などと言われるようになった。
「冗談やろ。そんなに早く効果が出るわけないやん」と答えていたが、内心は喜んで真っ黒い頭の自分を想像していた。
また、会う人会う人に「最近、おれ なんか変わったと思わん?」などと言っては、頭が黒くなったのを認めてもらおうとしていた。

3週目に入った。
「やっぱり、黒くなっている」と言われた。
さらに、真っ黒くなる自分の頭を想像した。
さあこれからだと思った時、ヘアオイルが切れてしまった。
「一ヵ月半は持つと言ったやないか」と取引先に連絡した。
取引先は「一日どのくらいお使いですか?」と聞いてきた。
「片手の半分くらい」と答えると、「それは使い過ぎです。人の2倍は使っていますね」と言われた。
使い過ぎとは思わない。 全体に行き渡らせようとするとそのくらいの量が必要になってくる。
結局3週間で終わってしまった。

このヘアオイルは1万円する。
安月給のしがないサラリーマンにとって月1万円は痛い。
『まあいいや、中途半端に治って霜降りみたいな頭になったら、かえって老けて見られる』と自分を慰め、続けることを断念した。

で、今はまた白毛族になっています。
民族の血だからしかたがない、か。(2000年8月)

今でこそ福岡も民放テレビ局が5つになり、ほとんどの放送が東京と同じ日時に見られるようになったが、昔は悲惨であった。
ぼくが小学生の頃は、まだ日テレ系とテレビ東京(当時東京12チャンネル)系の放送局がなかった。

ぼくは当時プロレスが好きでよく見ていたのだが、リングなどの専門誌はG.馬場やA.猪木の日本プロレスの記事が中心だった。
福岡には日テレ系の放送局がなかったので、日本プロレスをやっておらず、TBS系の国際プロレスしか見られなかった。
華やかな馬場や猪木の中心の日本プロレスに比べると、サンダー杉山や豊登中心の国際プロレスは子供心にも地味に見えた.
16文やコブラツイストの代わりにこちらで見られたのは、雷電ドロップやさば折りであった。 そういえば、シャチ横内という人の十字チョップという訳のわからない技もあった。
デストロイヤーやボボ・ブラジル,フィリッツホン・エリックなどは、雑誌でしかお目にかかれない。 かなり悔しい思いをしたものである。

そういう状況も小学6年の秋には改善された。
日テレ系の福岡放送が開局したのだ。
これで念願の日本プロレスが見られるようになった。
金曜夜8時、あの「チャーンチャ、チャーンチャ、チャッチャチャッチャチャン・・・」というテーマソングの嬉しかったこと。
G・馬場がいる。A・猪木がいる。大木金太郎やヤマハブラザーズがいる。まだ吉村道明も現役だった。
でも不思議に思ったことがある。
国際プロレスを見慣れたぼくには、日本プロレスのマットが狭く見えたことだ。
特にG・馬場が大きすぎるので、そう感じたわけではないが。

さて、福岡放送の開局で面白いことがあった。
アニメ(当時はテレビマンガといった)「巨人の星」のことである。
福岡放送が開局するまで「巨人の星」は、TBS系のRKB毎日で金曜午後6時30分からやっていたのだが、これはもちろん一週遅れの放送だった。
福岡放送開局と同時にRKBは打ち切ると思っていた。
それが2~3ヶ月継続したためにこの事態が起きた。

これは、ぼくたちの小学校(いや県内全部の小学校でそうだったのかもしれない)では大事件だった!
「巨人の星」は日テレ系では土曜午後7時からやっていた。
この時間帯の放送しか見れない人は、星飛雄馬の一球を一週間待たなくてはならなかったのだが、福岡の人間はこれを翌日に見れたのだ。

この事態が起きてから、「巨人の星」を見る方法が三通り出来た。
一つは、毎週2度見る方法。
前回の復習をして本編に入る、という見方だ。
この方法が一番多かったような気がする。

もう一つは、毎週1度(福岡放送かRKBかで)見る方法。
これは少数派だった。塾通いの人がこの方法をとっていたようだ。

最後は、一週おきに見る方法。
この事態を最大限に利用する方法で、週2度よりも新鮮味がある。
ただしこれをやってしまうと、学校で話題についていけなくなるし、何よりも学校ナあらすじを聞いてしまうので毎週見るのと何ら変わりはなくなってしまう。いや、中途半端な情報のためそれよりもさらに面白さは半減する。
ということで、この方法を取る人は、ぼくの周りではいなかった。

それから20年後、TVQ(テレビ東京系)開局の時はこういうことはなかった。
唯一(?)の人気番組「開運!なんでも鑑定団」は、TVQ開局後に始まっている。 もし、開局時に既に始まっていたのなら、こういうことになったかもしれないが。

それにしても、「巨人の星」が本家日テレ系の福岡放送で始まってからも、しばらく放送を続けていたRKB毎日の意図はなんだったのだろうか。
今でも、ぼくの中では謎なのである。

一ヵ月半はあっという間に過ぎていった。
結局このバイトは、以上のようなことの繰り返しで幕を閉じた。
今考えると変化のない毎日だった。
でも、前にも書いたが、ぼくはこの仕事が気に入っていた。
社会に出る感触を肌で味わっていた。
給料のありがたさを知ったのも、この時が初めてだった。

バイトが残り一週間になった頃から、「これが終わったらどうする?」とかいう話をSさんやIKなどとしていた。
Sさんは「ここが終わったら、旅に出る」と言っていた。一つのバイトが終わるといつも旅に出ているとのことだった。
IKは「すぐに就職を探す」と言っていた。
ぼくはそこからのことを考えられずにいた。
Sさんみたいに旅に出ることも、IKみたいに就職を探すことも、ぼくには考えられなかった。
何かやり残しているような気がしてならなかった。
結局は「また流れに任せて生きてみよう」というところに落ち着いた。
ラジオから、ふきのとうの「風来坊」が流れていた。


          完

さて、この駐車場で一番暇だったのは、警備員と警察官だった。
警備員はいつも駐車場の中をうろうろしていた。
よく「今日は暇だったから、この中を○周しましたよ。ははは」と言っていた。
その間、ぼくたちは客との格闘をしていたのだ。
「あの人は何の警備に来とるんやろう?」と、よく言っていた。

一方、警察官は土日祭日だけの登場だったが、仮設事務所の机の前でふんぞり返っていた。
何もせず、煙草ばかりふかしていた。
おかげでサブリーダーのシャツは焦がすし、ろくな人たちではなかった。
駐車場内で接触事故が起こった時も、「またヘタクソがぶっつけやがって―」と言いながら、事故処理をしていた。

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